黒いシミ

生まれてから20年間同じ家に住んでいるからこそ気づかないことが多くある。

大学に入学してから学校で夜通し作業をすることや友人の家に遊びに行くことが増えて、自宅以外の場に泊まる機会が増えた。その際にシャワーを借りることがよくあるのだが、大学のシャワー室や一人暮らしの家の浴室には鏡がないことも多く、それまで浴室には鏡があるのが当たり前だと思っていた私にはなかなかの驚きであった。

ここ最近も課題などでバタバタしていたため家でゆっくり湯船に浸かることができなかったが、先日珍しく朝余裕を持って起きることができたので久しぶりにのんびり湯船に浸かった。そしていつものように体を洗う際に「そういえば浴室に鏡があるのは当たり前ではないのか」と何気なく目の前の鏡を見てみたら、鏡の端にある黒いシミのようなものが目についた。なかなかの大きさであるため以前からシミの存在は知ってはいたものの、ここまでまじまじと見たことはない。

確か私が小学生の頃、大掃除で浴室を隅々まできれいにしたときにそのシミも取り除こうとしたことがあったが、鏡の内側にできてしまった汚れであるため、汚れを取ることができずに掃除を断念した記憶がある。どうやら母親に聞いてみたところ私がまだ生まれる前に両親が引っ越してきたときからあるものだそうだ。それ以来、無意識の間に私にとってそのシミは後からついた汚れではなく鏡の一部として認識されるようになっていった。

私たち家族が引っ越す前からあったようだ

そしていつからか家で髪を洗う度に毎回見ている鏡だが黒いシミは知らず知らずのうちに私の視界からは消えていたのだ。

私たちにはシャワーを浴びる行為ひとつを例として取り上げても、水の温度は関係ある情報として捉え、壁の色は関係のない情報として知覚されない。というように無意識の間で行為に関連するものと関連しないものを環境の中から取捨選択する能力が備わっている。当たり前すぎて何が能力なのか分からないかもしれないが、この情報の取捨選択はコンピュータにとって容易にできることではない人間ならではのものなのだ。

だが、この無意識に行われる情報の取捨選択こそ私は注目をしたい。

より効率的な情報の選択をしているということは、言い換えるとそれ以外の必要のない情報は認知する前から切り捨ててしまっているということではないだろうか。そう考えると浴室の中でシャワーを浴びるにあたって、黒いシミはついこの前までの私にとっては関係のない切り捨てられた情報であった。

よく歳を重ねると次第に時間が経つのが早く感じるようになる理由として、子供の頃は新しい経験や発見が日々の中に溢れているのに対して、歳を重ねると新しい発見が減り、新鮮味がなくなるからだと言われる。

しかし、大人になると日常に新たな発見がなくなるということに私はどうも疑問を感じてしまう。私たちが年をとることで毎日に新鮮味を感じられないのは、日常の中で拾い上げる情報がいつも同じだからではないだろうか。情報化社会などと言われるよりずっと前から私たちが生きる環境には自分たちが思っている以上に情報で溢れている。そして今まで切り捨てられた情報に目を向けることで私たちは新たな発見やひらめきを得るのではないだろうか。

今回、私は短い間ではあるが、家のシャワーを使わないことでいつもの環境に新たな気づきを得ることができた。つまり家のシャワーという慣れ親しんだ環境に対して時間的、空間的隔たりを挟むという経験を通して、それまでの環境を新しく捉え直すことに成功したのだ。怠惰に感じている日常に新鮮味を与えるヒントは、いつもの環境に対して自分の存在をよそ者に仕立て上げることなのかもしれない。


あの黒いシミがいつ、どうして付いてしまったのか今となっては誰も知らないしこれからも誰も知ることはないだろう。

だが、この日を境に私は家でシャワーを浴びる度、やつと目が合うようになってしまったのは紛れもない事実だ。

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