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Kiyoto Asonuma
exploring the power of place
4 min readOct 10, 2017

涼しくなってくるとアルバイトをしているおでん屋は忙しさを増す。冷酒、水割りのオーダーは、少しずつ熱燗、お湯割りに変わり、暖を求める人々によって夏よりもずっとハイペースで消費されていくおでんネタは、それに追いつくように、ハイペースで仕込まなければならない。こんにゃくやちくわぶを切る機会は夏よりもずっと増えたのはそのせいだ。

うちのおでん屋はネタのいくつかに市販のものをつかっている。こんにゃくならばそれを2つに、ちくわぶならば4つに、それぞれ切るのだが、これが結構難しい。頭で切り取り線を引き、そこに包丁を入れるのだけなのだが、気を抜くと大きさにばらつきがでたり、形が不格好になってしまったりすることが、未だに、ある。

こうした切り取り線を思い描く作業をしていると、いつの間にか切り取り線の存在に慣れてしまった自分がいることに気付く。例えば通販サイトAmazonのダンボールは、日常最も多く目にする切り取り線のひとつだ。かつてはダンボールを開くには隙間にカッターナイフを入れて切るか、強引に力技でガムテープを破るしかなかった。それがいつしかAmazonによって定められた切り取り線が入り、ペリペリと紙を剥がすようにダンボールを開けることができるようになった。何も考えなくても、ダンボールはきれいに開く。便利だ。

このような物理的なものはもちろん、目に見えない切り取り線も、生活の中にはたくさん潜んでいる。そもそもAmazonのダンボールのずっと前、ネットで商品を注文するときから、いくつかの切り取り線に囲まれているのかもしれない。ネットでごくごく当たり前になっている「レコメンド機能」がその現れのひとつと考えることもできる。わたしたちは、この世にあふれる無数の商品の中からものを選んでいるようで、実は自分ではない誰かが勝手に引いた切り取り線に沿って商品を切り取り、その中で自分で切り取り線を描き、切り取っているに過ぎない。

社会は複雑化している、と言われる。人類が誕生してから、「ひとが生きる」ことはずっと変わらないはずなのに、わたしたちはなぜだかかつてよりもずっと複雑な社会で生きている。技術の進歩、それによる専門化や分業化、事情はたくさんあるだろう。単にただ社会のつくられ方そのものが複雑になっただけなのかもしれない。けれど、同時にそれはわたしたちがますます多くの切り取り線に囲まれるようになった、ということを示している。自分たちで育てたものを自分たちで食べることはもちろん、近所のスーパーで、おばちゃんと挨拶を交しながらものを買うことさえも、ほとんどなくなった。日常生活にはたくさんの切り取り線が引かれ、「わたし」以外は簡単に切り離されることになってしまった。

この複雑で、情報に溢れた社会を、まるごと全部引き受けるほどには、わたしたちは成熟していないのだろう。自らで切り取り線を引き、ときに気づかぬうちに、その線を引かれていることもある。いずれにせよ、そんなわたしたちに与えられるのは、結局は切り取り線の内側の情報ばかりだ。切り取られた世界の中で、生きることは心地よい。意識をしなければ、きっと知っている世界の中で、知りたい世界の中で、心地よい情報だけに身を沈めるだけだろう。そうしてわたしたちは「知らないもの、こと」を排除し、「知りたいこと」を失っていく。知らず知らずのうちに、切り取り線で切り離されている世界に満足してしまう。

こんにゃくもちくわぶも、まっすぐ包丁を下ろすことが大切なときもあれば、大きく見せるために敢えてナナメに包丁を入れるときもある。切り取り線の引き方は様々で、真っ二つに切ることを成功することもあれば、失敗することだってある。

大切なことは、切り取り線の外側に想像力を働かせることだ。おでん鍋に並ぶちくわぶは、はじめから「ちくわぶ」だったわけではないのだ。

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Kiyoto Asonuma
exploring the power of place

京都生まれです。だからきよとです。元牛飼いで現大学生です。