2泊3日のマイホーム

Nina Tsubokura
exploring the power of place
5 min readOct 19, 2016

私の母校は中高一貫の女子校で、軽井沢に山荘を保有している。この山荘は、主に中学一年生が宿泊して親睦を深めるためにあるが、その他の期間は卒業生が宿泊することもできる。この夏休み、部活の友人達と7年ぶりに2泊3日の山荘生活を送ることにした。

この友人達とは、6年ものあいだ、女子校という少し特殊な空間で、クラスに部活動と、たくさんの時間を共にしてきた。その中で、お互いのことをよく知り合い、素で接することのできる、気の置けない仲になっていった。一緒に旅行へ行ったことも何度もある。しかし、今回の旅はいつもとは少し違ったものとなった。

山荘には、在校生が泊まる大きな棟とは別に、小さなコテージがあり、卒業生はそこを利用する。管理人は少し離れたところに住んでいるため、そのコテージは、周囲に誰もいない、完全にプライベートな空間だった。

キッチンもあり、自炊も楽しみの1つと考えた私たちは、まず買い出しに出かけた。お店で率先してカートを引く子、必要なものをリストアップして指示する子、言われたものを探しに行く子。特売シールが貼られたものを買おうとする子もいれば、値段を見ずにかごに入れる子もいる。シチューに必要な買い出しをするだけで、それぞれの金銭感覚や家族と買い出しする時の様子が垣間見える。

コテージに戻ると、普段から料理をする子は中心に立ち、それを積極的に手伝う子がいれば、ご飯の前にお風呂に入る子もいる。シチューの具材の切り方も、それぞれの家によって違う。

朝の様子も様々で、目覚ましが鳴るとすぐに起き出す子。起こされてもなかなか起きない子。まずコーヒーを淹れる子。朝食を済ませ、出かける準備が整うまでの過程で、普段どうやって起きているのか、どんな朝を過ごしているのかがよくわかる。

みんなで協力しあって料理する様子

今思えば、この旅は「旅行」というよりも「暮らし」に近かった。そして、共に暮らしたことで、私は初めて友人たちの本当の「素」を見た。育ち方や普段の家での様子、家族の中での立ち位置。これらは、普段わざわざ話すようなことではないし、簡単に言葉で伝えられることでもない。共に暮らしてみなければわからないことだ。そのため、何度も一緒に旅行へ行っていながら、今まで知らなかった。

実は私は以前、この友人たちのうちの1人の家に泊まりに行き、彼女の本当の家での様子を見たことがあるが、その時には見えてこなかった彼女の「素」を、今回の旅行中に見ることができた。それは、他人を迎えて少しよそ行きになった自分の家よりも、気の知れた友人同士のみで過ごしたコテージの方が「ホーム」らしかったということなのか。もちろん、2泊3日滞在しただけのコテージが、本当の意味での「家」になるわけではないから、ここでいう「ホーム」とは、精神的な意味合いが大きい。しかし、何故あのコテージは私たちにとって「素」が出るほどの「ホーム」となったのか。なぜこの旅は「暮らし」になったのか。

自炊をしたことは、大きな要因の一つだろう。買い出しや料理をすると、普段の暮らしがよく表れる。だが、ただ自炊をしただけでは「ホーム」にはならない。1人暮らしの友達の家に泊まって、一緒に買い出しや料理をしても、私はあくまでお客さんで、その家はその友達だけの「ホーム」だ。私にとっての「ホーム」にはなり得ない。

例えば、コテージが自分達だけのものであったこと。家らしい造りであったこと。食器や家具、調味料があり、適度に生活感があったこと。母校の山荘という、馴染みの場所であったこと。保護者的存在がいなかったこと。気の知れた友人同士だったこと。都会から物理的にも、(電波が弱くSNSが繋がりにくいため)精神的にも離れた状況だったこと。そして、大学生という日常から離れて、つかの間、閉鎖的だが居心地の良い、中高時代の懐かしい空気感を味わったこと。これらの様々な要素が加わって、「家」とはいかなくても、「ホーム」と呼べる空間が作られた。

コテージのベランダで自然に囲まれながら、のんびりとコーヒーを飲むという非日常的な朝

初めて訪れたコテージというただの「箱」が「ホーム」となり得るというのは、新たな発見だった。また、お互いに素を出していたはずの友人でも、まだまだ知らない面がある。普段どれほど一緒にいても、「暮らす」ことでしか見えない「素」がある。この旅はそんなことも気づかせてくれた。

来年の夏もまた、気の知れた友人達と共に、あのコテージで暮らしてみたい。

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