その大きさを”かえて”

キムラマサヤ
exploring the power of place
4 min readMay 19, 2019
何かのためにスペースを空けて置いたら、それは「余白」になるのか。「余白」に大きさは問われないのか。たまたま余ったらどうなのか。これが僕の半期、「余白」について考えたいことである。

大学1年生の一年間が今までの大学生活の中で一番忙しかった。入学してすぐ研究会に所属していたことに加え、起業もどきのような活動をしていたことがその原因だ。忙しさのあまり、サークル活動などはできなかった。普段の授業もあったから、高校生の時に抱いていた「暇な大学生」というイメージはすぐに崩れることになった。いつも「あれ、大学生ってこんなに忙しいもんなのかな」と思っていた(僕の周りにいわゆる「パラ経」が多かったからかもしれない)。

その時期の僕の工夫は、「やることや課題は全て週末に片付ける」だった。平日はとてもじゃないけど課題をやる暇なんてなかった。だから基本、土日は空けておいて課題を清算する日に当てた。2日もあれば学期末の重たい課題以外、大体の課題を終わらせることができた。やることをできるだけ早く終わらせることによって、初めて僕に余暇が訪れた。映画を観に行ったり、野球を観に行ったり、買い物に行ったり。余暇がないと、人間として文化的に最低限の暮らしができないと思う。だからできるだけ早く仕事を終わらせるように努力していた。でももちろん土日にミーティングやらイベントやらが入ることもある。そうなると、やることを片付けるだけで週末が溶けていくこともある。余暇の時間を持てないで、また忙殺の平日を迎えることになる。

僕は家庭の経済状況もあって、アルバイトを始めなければならなくなっていた。やりたいことだけやって暮らせるような状況じゃなくなっていた。そのため夏休みからアルバイトを始めた。これまでの忙しさに加えて、アルバイトを始め、余裕はみるみるうちになくなった。春学期の忙しさの反動から、忙しさを避けるようになり、何事にもあまり精力的に活動できなくなっていた。余裕がなかったとき、僕の心はくぐもっていた。
秋学期が始まった時には、すでに研究会活動に対する情熱も失っていた。起業もどきのような活動にも見切りを付けて結局辞めた。できるだけゆとりを持てるようにした。時間をつくり、心に伸びやかさを保つことができるようになって、新たな余暇の過ごし方を見つけることとなった(それがフィルム写真であり、今となっては心血を注げる対象へと昇華したのは大変嬉しいことだ)。

やることや課題のために週末を「課題清算日」として設けていた。そしてその仕事が全て終わってから、初めて僕は余暇の時間を手に入れることができた。そしてそれが心の余裕につながっていた。心のゆとりを失って、僕は萎びてしまった。それではマズイと思い、余裕をつくった。その時から伸び伸びできるようになり、晴れやかな心に戻った。この時期の実体験は、今では僕の行動指針になっている(例えば就活でも忙殺されて同じようになるのは目に見えているから3月までに終えることを決めていた)。

「余白」は来たる何かが円滑に進むためにあえて空けておくスペースだとしたら、心のゆとりだって「余白」になりうる。人間として、精神衛生を保ちながら、伸び伸びと生きていくためには心の「余白」が必要だ。僕の場合、そのためにスケジュールは余裕をつくり、必ず余暇を楽しめるようにしている。

そして心の余白を考えるためのTipsの一つは、嫌なことに対しては僕らは忙しさを感じ、余裕を感じにくい。他方、好きなことに関しては時間がいくらあっても足りなく、それのために忙しくとも心にゆとりがあるだろう。当然と言えば、それでおしまいだが。だから心の余白は時と場合に応じて、その大きさを変えるのかもしれない。そして心の余白はその存在目的相互に影響し合っているのだろう。

GW中につくりこんだ作品。時間にも心にもゆとりを持てたからつくれたと思っている。

次回に続く…

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