丸山眞男著「思想のあり方について」を平成が終わろうとしている今, 読んでみる
「 『である』ことと『する』こと」を国語の教科書で読んだ人はどのくらいいるのだろう. 「権利の上にねむる者」というなかなか強力な印象を与える節から始まる講演体の論評である. 当時, 中島敦著の「山月記」と並んで, この「 『である』ことと『する』こと」の主張にひどく感動したことはよく覚えている.
大学入学前, もう五年も前のことになるが, せっかくだからということで「日本の思想」という「 『である』ことと『する』こと」が掲載されている新書を購入していた. 長く机の下に眠っていたが, いつか読もうと思い続け, 先日ようやく読破することができた. 「日本の思想」は四つの論評から構成されている. 一章は本の骨格であり, 「日本の思想」のタイトルに裏切らず, 日本人独特の「思想の型」を構造的に解き明かしてくれる, (少なくとも僕にとっては)難解な論評である. 僕が所持しているものには第87刷と記載されていて, どれだけ影響力があり, 読む価値がある本かというのは言わずもがなである.
さて, 本日取り上げたいのは三章「思想のあり方について」. これも「 『である』ことと『する』こと」と同様, 講演体の論評であり, 読みやすい文章になっている. なぜ三章をここに紹介したいのかというと, 日頃もやもやしている「あ, なんか嫌だな」と思う現象を網羅的に説明してくれる内容になっているからだ. 加えて, 三章の初版が1957年6月のことであるにも関わらず, 60年ほど経った現代においても, 非常に説得力のある主張が展開されている. これは丸山眞男が極めて優れた洞察力をもっていたことも理由ではあるけれど, 日本社会がはたして「前進」しているのだろうかという問題意識を僕に植え付けた. 若輩者の僕がこれほど規模の大きな話を論じる資格はないということは重々承知しているけれど, 同じ感覚を抱く人がいることを願って文章を綴るのみである.
最初に断っておくが, 文脈が間違って伝わらないよう細心の注意は払うけれど, やはり主観的なものにはなってしまうから, 興味を持った人には原文をあたることを強く勧める. 30ページほどしかないこと, そして使われている言葉が美しく洗練されているので, なるべく素の文体を味わってほしいと思う.
要約
- 僕たちは事象ごとに「イメージ」をつくっていて — アメリカはどうだソ連はどうだといったようなもの — それを頼りに行動している
- もともとイメージ — バイアスという言葉を使ってもいいかもしれない — は人間が自分の環境に対して適応する「潤滑油」のようなものである.
- イメージはしばしば修正すること — 久しぶりに会った同級生の印象が変わったとか — が必要であり, そうすることで変転する環境にわたしたちは適応していく
※ 必要な場面でイメージの修正ができず, 生涯にわたって同じイメージを持ち続けてしまう残念な人も多い.
- ただ, わたしたちの視野に入る世界の範囲が広くなるにつれて, 直接触れることのできないものが増えてゆき — 口コミもそういう類 — , イメージとリアルとの間にギャップが生じてしまう
※ 1950年代のことを指した言明. インターネットは当然まだ存在していない
- そうして生まれたイメージが「独り歩き」をし始めると, 本物よりイメージの方がリアリティをもつことになる
大小無数の原物は、とうてい自分のイメージが、自分から離れてひとり歩きをし、原物よりもずっとリアリティーを具えるようになる現象を阻止することができないわけであります。
※ 偶像崇拝という単語もよく似合うと思う
私はマルクス主義者ではない — Karl Heinrich Marx
- 自分についてのイメージに, 逆に自分の行動を合わせていくという事態も発生する — アイドルはアイドルらしく行動することに縛られる —
- やがて「原物」が疎外される
- 上述の現象は, 日本に限った話ではないけれど, 日本は特にそれを許す事情があるのではないか?
- 日本の社会や文化の型を図式化して表現してみると, 「ササラ型」ではなく「タコツボ型」であるといえる
ササラ型 : 元のところが共通していて, そこから枝分かれしていくような構造のこと. 根の部分が過去, 枝分かれした先が現在に相当する.
タコツボ型 : それぞれ孤立したタコツボが並列している構造のこと. タコツボ同士はつながってはいない.
※ ここから日本におけるタコツボ化現象を学問の社会を例にとりあげている
- 学問で言えば, 日本が学問を「輸入」した明治初期, ヨーロッパではちょうど各分野 — 法律, 政治, 経済, 心理, …— における専門化, 独立化が進んでいた.
- ヨーロッパの学問は「ササラ型」だが — ギリシャ, 中世, ルネサンスという共通の時代を経て発展してきた — , 日本の学問は共通の根を切り捨てて, ササラの上の端の方だけを移植された「タコツボ型」である
※ 下の文章はちょっとしたお気に入りなので載せました
哲学というものは本来諸科学を関連づけ基礎づけることを任務とするものです。ところが近代日本では哲学自身が — 少なくともアカデミーの世界では専門化し、タコツボ化した。哲学自身が専門化するってことは、ある意味では矛盾なんですけれども、そうなっている。
- — 文学者と社会科学者を例に挙げて— だから, 自分たちのもっている共通の問題を学問的に話し合おうとすると, 共通言語に欠けている
- 近代市民社会が発達するに従って, 機能集団が多次元に分化していくのは世界的な傾向ではある
- ただし, ヨーロッパでは教会やクラブ, サロンといった別の集団をつなぐコミュニケーションのルートが存在している
- 日本はタコツボ間をつなぐ民間の自主的なコミュニケーションのルートに乏しく, 会社, 官庁, 教育機関, 産業組合など, それぞれ一個の閉鎖的なタコツボになってしまう — “総合”大学は地理的に集中しているだけで, ちっとも”総合”ではない —
※ ここからタコツボ社会の問題点を論じ始める
- 組織がタコツボ化すると, タコツボ間に共通の言葉や判断基準といったものが自主的に形成されるチャンスが甚だ乏しくなる
- タコツボの中も無限にタコツボ化がおきる — 同じ業界の人でも, ”うち”じゃこうしてますって言い方をする —
- やがてタコツボの中だけで通用する「隠喩」が生じる — 業界用語とか, あとがき参照 —
- 言わなくてもわかっていて, 問題はそこから先にあるとして片付けられる部分, 「偏見」が, 集団意識の下層に沈澱していく
こういうふうにして沈澱した思考様式というものをみんな持つようになる、そこに組織としての偏見がそれぞれ抜き難く付着するということになるわけです。
- 社会がだんだん大きくなってゆくと, 各自の属している集団相互のイメージのぶつかりあいが強く印象づけられるようになる
- やがて, おのおののグループが, 自分たちをマイノリティとして認識するという現象が発生する — みんな官僚を責めるが当人たちは非常に割のあわない仕事だと本気で思っている —
やや誇張していえば強迫観念 — 自分たちは、何か自分たちに敵対的な圧倒的な勢力に取り巻かれてるっていうような、被害者意識を、各グループとくに集団のリーダーがそれぞれ持っている
- 国中被害者ばかりで加害者はどこにもいないという奇妙な状況が生じる
- 戦前の日本では天皇制や臣民意識が集団間をつないで意識の統一をはかる役割を果たしていた
- 戦後, タコツボ相互のコミュニケーションはどんどん行われなくなってゆき, タコツボ間をつなぐ唯一のコミュニケーションはマスコミが担うようになる
※ 現在はSNS等の出現により状況がやや異なっている
- 実際のところ, マスコミはタコツボの中に滲透し, その相互間の言語の閉鎖性を打破する力には乏しく, むしろ, 孤立した個人に向けてはたらきかけるべきもの
- 組織の内側では組織の外に通じない「隠語」が, 広く社会ではマスコミの「公用語」が通用するようになる
※ ここから実質的にまとめ
- わたしたちが何か行動をする前に
- 現実との間にイメージの分厚い層があるということ
- あらゆる集団がタコツボ化している
- という二つを, 出発点とすべきなのではないか.
- これを意識せず「組織化」を進めるとどうなるか
その組織なら組織の中で通用している言葉なり、外部の状況についてのイメージなりが、組織の外でどれだけ通用するかということについての反省が欠けがちになる。
組織内で通用している言葉を組織の外でその有効性をためしていくという努力が忘れられ、つまりイメージの層がいかに厚く、いかにくいちがっているかという現実が忘れられ、単に組織体未組織という問題、あるいは
単にそれはまだ組織外の人が「真理」に到達していないんだという問題に帰着させられる。従って自分たちがもつイメージとくいちがったイメージはみんな誤謬なんだから、「啓蒙」して、自分たちのイメージを普遍化すればいいという考えにおちつく。
※ 1950年代末には安保闘争がある. 念頭においていたのかな.
- 全体状況についての鳥瞰を, ちょうど犯人をさがすときに犯人を見たという人々の印象からモンタージュ写真を作成するような, テクニックや思考法が求められているんじゃないだろうか
どういうふうに、人々のイメージを合成していくか、組織内のコトバの沈澱を打破して自主的なコミュニケーションの幅をひろげていくかというのが、これからの社会科学の当面する問題ではないでしょうか。
以上.
あとがき.
実は一番最初に書いた文章ではありますが.
僕が嫌いなことの一つに, ここで言及されていた「タコツボ化した組織における隠語の流通と偏見の沈澱」があります. 「〇〇界隈」や「☓☓系」といった言葉も, 内輪でしか通用しない「隠語」の存在を暗喩しているようで, 基本的には嫌いです. ただ, 自分自身にそのように嫌悪する言動をとっていないだろうかと問いかけると, 残念ながら肯定することはできません. 例えば, 僕が所属している学科の人に「人権を得た」という言葉を使えば, それがネット通信可能な状態を指し示していることは大方通じます. 僕自身も頻繁に使用しますが, これは自分が嫌悪する隠語に該当します. 少しでも「透明」な言葉, 「流通度」が高く, 多くの人を疎外しないであろう言葉を選んで発言を試みたいと思う一方で, 内輪の当事者の感覚からすると, そういった隠語を使用することは存外楽しいものです. 隠語の存在はそのタコツボ内でたしかな「文化」が生じた証拠でもあり, 組織内の仲間意識を促進する「薬」でもあります. したがって, 言い訳がましいですが, 一概に良い悪いと断定できる性質のものではありません. ただし, 「病気」の兆候のようなものであることは間違いなく, 「毒」を上手く使いこなすことが求められているのだと思います.