結局のところすべては主観なのである

絶対的なものなんて、ない

実は私、人間関係以外では挫折を味わったことがない。

学生時代の悩みのすべては人間関係絡みで、勉強絡みで悩んだ記憶は皆無だ。数少ない友人同士が対立したときは(自分は当事者ではなかったというのに)まるで我が事のように盛大に悩んだものだったが、高校3年の夏の模試で明らかよろしくない判定を叩き出した(数学が壊滅的に酷かった)時は別に何とも思わなかった。

大学卒業前後もそうで、私はそもそもストレスフルな就活そのものを放棄していたのだが、代わりに受けた公務員試験が二年連続で全滅しその後実に二年間も就職浪人(=ニート)状態になったときも一切悲観せず、むしろ自由を満喫できることを喜んですらいた(当然親は呆れかえっていたが)。

そして今も。仕事はごく平凡な一般企業だが(なぜか私の学歴を知る者は一様に「そこじゃもったいない」と呆れるが)職場環境はかなり理想的で、とりたてて大きな不満はない。一方で、オンラインゲームで親交を深めたフレとの関係がこじれたことには悶々と悩み続けていたりした。

我ながら何かがズレているようにも思うのだが、とにかく、人間関係以外で悩んだことは一度もなかったのだ。


しかしながら、上記の話を客観的に捉えれば、「挫折」と言っても差し支えない事象自体は起こっていることに気づく。

一番わかりやすいのは就職浪人経験だろう。一般的に考えれば、就活代わりの公務員試験が全滅になり、二年もニートになってしまったというのは、大きな挫折といえるはずだ。

ところが、私自身は全くもってそれを「挫折」とは考えなかった。むしろ喜ばしいことと捉えていた。それも、無理にポジティブに捉えようとしたわけではない。心の底から喜んでいたのだ。自由を謳歌できることを。

だからこれは、私にとっては「挫折」ではなかったのだ。

一方、逆に友人関係での悩みは、人によっては全くもって問題とはならない事案になることだろう。「相手のあることだから必要以上に自分一人で悩む必要はない」などと指摘されそうな話ではあるのだが、私にとっては深刻な悩みだったのであり、大いに「挫折」と捉えられる事案だったのだ。


以上のことから分かるのは、「ある失敗経験を挫折と捉えるかどうかは個人の主観による」ということである。

これを一般化すれば、「ある事象をどのように捉えるのかは、個人の主観による」ということになるだろう。

全く同じ事象を前にしても、ある人は肯定的に捉え、ある人は否定的に捉える。母集団が大きい場合、捉え方に大きな偏りが出ることはあっても、全員がどちらか一方のみに集中する(反対側は一切いない)ことはあり得ないと言ってよいだろう。

つまり、「客観的に見て○○」という判断が絶対的なものである、ということでは決してないということだ。

物事の捉え方や価値判断には、必ずその人の主観が入り込む。誰かにとって「良い」と感じられることは、別の誰かにとっては「悪い」ものと判断されている場合がある。逆も然りだ。

極端な話、「客観的」というもの自体、存在しないようなものなのだ。その言葉を冠して語られることは、すべからく主観的なものとなるからだ。

だからもし自分の判断が他の大多数とは異なっていたとしても、何もおかしなことではないのだ。また逆に、誰かの判断が大多数の判断とは異なっているというのは、非難にはあたらないことと言えよう。

自分の判断にも、他の大多数の判断にも、等しくそれぞれの主観が入り込んでいるのだから。


「そんなの、当たり前じゃないか」

きっとそんなツッコミが入ることだろう。この話については。

それでよいのだ。そうあってほしいのだ。私はそう願って、この話を語っている。

自分自身、こんなのあまりにも当たり前すぎるではないか、と思いながら。


私は、この世には善も悪もない、と思っている。

正確には、「絶対的な善」「絶対的な悪」は存在しない、と考えている。

個々人がそれぞれに「何が善で何が悪か」という価値判断をもっていることは否定しないし、それらの集合体が社会通念としての善悪として存在していることも認めてはいる。

しかし、その「社会通念としての善悪」が絶対的なものであるとは考えていない。そう、決して。

どんなに「絶対的な悪」と見えるものであっても、それを「善」ひいては「正義」と考えている者も必ずいるわけで(その悪の実行者とか)。その者たちから見れば、逆に「絶対的な善」と見えるものが「悪」と見なされることだろう。

さらには、「絶対的な悪」であるはずの事柄でさえ、ひとたび状況が変われば「善」に一転してしまうことさえあるわけで。

それなのに、自らを正義と称し相手を「絶対的な悪」とみなして排除しようとする風潮の根強いことよ。その善悪は主観の塊であるというのに。


どんな物事にも、表と裏がある。

そのどちらを見て、どう捉えるか。どう判断するか。

そこに客観性などない。絶対的な何かなどない。

あるのは、主観だけ。

善も悪もない。ただ、自分が見たいと思った姿を見ているだけなのだ。

すべては主観に依っている。そのことに、気づけ。

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