寒竹泉美
Mar 29, 2016 · 4 min read

――海こひし潮の遠鳴りかぞへつつ少女となりし父母の家

石碑に刻まれた歌を読み終わると、女は顔を上げて辺りを見回した。ここは、明治から大正にかけて世の中に嵐を巻き起こした情熱の歌人・与謝野晶子の生家があった場所である。が、今はその家はなく、大きな道路に面した歩道に石碑が設置されているだけの、何の変哲もない場所であった。

女は、少しがっかりした。ここに来れば与謝野晶子と時を超えた交流ができるかと期待していたのだ。思いを馳せるどころか、車の騒音が想像力を奪っていく。

分かっていたことだった。歌人の魂は歌のなかにある。これ以上ないほど剥き出しの鮮烈な思いが込められた歌は、文字をなぞると呼吸をし、刃物を立てると鮮血が飛び出そうなほど生々しい。それに比べて、街は、時に洗われて変わり続ける。海岸線すら同じままではいられない。

女は悩んだ。他のゆかりの場所をめぐるか、それともどこか静かな場所で歌集を広げて彼女の身体の中に飛び込むか……。

女の顔は若くもなく老いてもなかった。美しくも醜くもなかった。女は自分が生み出した不透明で不恰好な迷いにとらわれており、それが女の顔を曖昧にしていた。

そもそもどうして自分がこの街に来たのかも分からなかった。

ふいに、女は、晶子に聞いてみたいことを思いついた。

もし、あなたが生まれ変わったとしたら、許されない恋を行動力で成就させ、愛の喜びを官能的に歌い上げ、戦争の愚かさに声をあげ、女の自立を励まし、十一人の子を産み育て、なお、夫に情熱的に恋をし続けた激動の人生を、もう一度やりたいか、それとも今度はまったく別の人生を送りたいか。

――聞いてどうするの?

女の頭の中で声が応えた。女は驚かない。素直に、どうしたいのかと、自問してみるが答えは出ない。

――ねえ、こう考えたらどうかしら。わたしが生まれ変わった結果が今のあなた、だと。

突然、女は、目の前を覆っていたベールを剥がされた思いがした。発した問いが自分に跳ね返ってきたのだ。

わたしは、晶子のような激動の人生を送りたいか、それともまったく別の人生を送りたいか。

女の胸の中でつかえていた大きな石が、ごろりと動いた。

車の音が遠くなる。ふいに潮の音が聞こえた気がした。彼女の胸の中で満ち引きをする波が鳴っている。女はしばらくの間その音に耳をすましていたが、やがて、顔を上げて、駅に向かって歩き始めた。

もうここで、晶子の亡霊を追いかける必要はなかった。

彼女は悟ったのだ。晶子は全女性の中にいる、と。

〈了〉


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デザイン系翻訳会社フレーズクレーズがお届けする、 日本のデザインを世界とつなぐマルチリンガルメディア

寒竹泉美

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京都在住の小説家です。寒竹泉美といいます。一応理系です。一応博士(医学)です。http://www.sakkanotamago.com/

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