「うまくいかない」から始めよう

「教育」の呪縛から解き放たれるための第一歩

「熟知よりも無知の方が自信の源になる」 Charles Darwin

今後の指導をより良くするために、センプレ生がどのように成長していくかのケーススタディを作りはじめた。そのために、ケースとなる生徒をピックアップして、そのやりとりを読み返し「どんなふうに成長するのか」「その要因はなにか」といったことを分析している。

これまで僕(ら)は職人の勘のようなものでやってきた。その勘は、それなりに有効に機能していたと思う。だからこそケーススタディを作れるだけの素材もたまった。でも、実際に自分の指導を振り返ってみれば「あちゃー」と思うことばかりだ。

センプレの指導の責任者の僕は、外に対しては自分がその道の達人であるかのように振る舞う。先生に対しては「こういう風に指導するといいんじゃないかな」などと言い、投資家に対しては「こういうところがこれまでの教育サービスにはない圧倒的な違いでして」などと口にする。

正直、その役割を求められているから振る舞っているだけだ。偉そうに語っている僕を、もうひとりの僕が笑う。実際、自分の指導の内実を振り返ってみると、「もっとこういう可能性があったなぁ」とため息をつきたくなることばかり目につく。

まだ僕の指導はベストのありようには程遠いところをうろついている。それで若者の人生を左右する現場に立っている。

なんてことを学校の先生が保護者に言ったら親は口をあんぐりあけて「こいつ正気か」「こんなやつに子どもは任せられない」と疑うのかもしれない。生徒も「マジかよ」「先生、達人じゃなかったんですか」と驚くのかもしれない。

そういうことが影響して、今まで「教育」に携わる者は自分の不完全さを公にできなかったように思う。とりわけ教師が正しい存在であることを前提としたピラミッド型の組織では、上から下までこの精神が貫かれてしまっている。

権威のベールを剥いだ生身の人間なんて見るに堪えない。

実際、僕もこうした言葉を生徒に読まれると思うと躊躇する。誰だって今あるシステムの影響から逃れることはできない。僕らが「教育」の呪縛から解き放たれるには、まだかなりの時間がかかるのだろう。だからって、そこを気にしていてはダメだ。そう思って一歩を踏み出そう。

生身の人間が未知の領域を切り拓いていく時、自分の不完全さの実感を手放すことはできない。将棋界の羽生善治は「将棋の神様がいれば、いまの将棋はまだ7.8%くらいのところで戦っている」と言っていたが、この言葉は挑戦者の拠り所になる。

不完全さを認めるのは、自分の未熟さを痛感してモチベーションに変えるからではない。そうではなく、残りの93%の未知の可能性に興奮するからこそ、己の探究心に火がつくのだ。それがこの瞬間にベストを尽くそうと思う熱源だ。

「不完全だ」と認めることは敗北ではない。むしろ、「うまくいかない」ことを受け入れるのは、己の無限の可能性に挑むための第一歩だ。

見るに堪えない姿であっても、懸命に山をよじ登る姿に人は胸を打たれる。この世界における自分の観客とは、まず誰よりも自分自身のことなのだ。その自分自身をごまかさないこと。

僕は達人でありたいと願う一方で、いつまでも未踏の山を登る挑戦者であることを望む。