現代芸術は本当にイミフメイ?

Hazuki Nishioka
Generation Z
Published in
11 min readAug 16, 2018

現代芸術はお好き?

結論から言うと、長年クラシック音楽というジャンルの中でピアノとヴァイオリンを続けていた私にとって、現代音楽は苦手分野で、むしろ嫌いでした。ですが、なんとも困ったことに、近年はいわゆる”コンテンポラリー”が重要視され、音楽でもダンスでも1作品は現代作品の提出を求められるようになりました。つまり、現代作品と嫌々ふれあい続けていたのです。もちろん好きではないので、気は進みませんし、”よくわからない”まま作品を通過してしまうことが多々ありました。

ですが最近になってようやく現代作品が腑に落ちるようになってきたのです。そこで、今回は現代芸術について少し触れてみたいと思います。「現代芸術なんてわからなくても」と思わずに、軽く読んで頂けると幸いです。

現代芸術という括りでは大きすぎるので、音楽と美術に焦点を当てて、作品を紹介しながら現代芸術に触れていきたいと思います。

近代・現代美術

実は現代美術の範囲は定義が難しく、一般的にはエドゥアール・マネからパブロ・ピカソぐらいまでを近代美術、それ以降が現代美術とされています。(それ以前も現代美術と解釈する場合もあります。)ですが今回は、美術史的な流れで現代美術を捉えるのではなく、「伝えたいことがいまいちよくわからないな」という作品を現代美術として考えたいと思います。

ピカソの作品をどう思いますか?

パブロ・ピカソ『泣く女』

私が初めてこれを目にした時の印象は「???」でした。そして美術の授業では「これはキュビスムっていう革命だよ」と教わりました。はっきり言って、この作品については何も理解できませんでした。1907年ごろからキュビスムは出発したと言われています。この頃、写真技術の発展で絵画を写実的に描く必要がなくなり、美術にもそれなりの新しい展開が求められるようになったと言っても良いでしょう。ちなみに、キュビスムでは「様々な角度から見た物の形を一つの画面」に収めます。そうして見てみると、確かに色々な角度でこの女性が見えているような気がしますよね。ですが「いやでも何だか表現が変じゃないか?」と思いませんか?

「様々な角度から見た物」というのは視覚的な話ではないのです。「悲痛にくれて泣いている」「嬉しくて泣いている」そういった様々な表情の「泣く女」を表しているのではないでしょうか。だから色を一つに絞って作品の印象を定めるわけでもなく、鑑賞側に自由に想像させるようになっているのです。

芸術において「わかる」を「解を見つける」としてしまうと、現代美術は全く「わけのわからない」物になります。自由な表現に解なんて存在しませんし、それぞれの解を探す、作品に対する印象をただただ受け取ることが現代美術の鑑賞おいては大事になってくるのです。

ちなみにピカソの初期の作品を見たことはありますか?

パブロ・ピカソ 『La première communion』

しかも、これはピカソが14歳の時に描いたものです。彼は元々はこのような写実的な絵を描くこともありました。ピカソは作風はめまぐるしく変化し、最終的に現在私たちがもっともよく目にする『泣く女』や『ゲルニカ』のような作品が晩年に誕生したのですが、どちらかというと彼の作品は「子供のように感じたことを素直に描く」という点で美しいのだと私は思います。写実的に”美しく”描くよりも、彼が受けた印象そのものを率直に描くことが、彼が到達した表現なのではないのでしょうか。

現代美術の方向性を確実なものとし、起源とされるのはマルシェル・デュシャンの『泉』という作品です。

マルセル・デュシャン 『泉』

そうです。どう見てもただの便器です。書いてある文字はデュシャンのサインでもなく、架空の芸術家の名前です。これは1917年デュシャンによってニューヨークの展覧会に出品されました。無審査を謳っていた展覧会でしたが、議論の末「アートとして認められない」と展示されることはありませんでした。デュシャンはこれを強く非難し、芸術の権威主義的な風潮に対して問題提起したのです。これを機に「アートとは?」「美しいもの=アートなのか?」というような疑問がアーティスト間でも広がり、「従来の概念にとらわれないアート=現代美術」が作られるようになりました。

アンディー・ウォーホル 『Marilyn』

アンディー・ウォーホルは自身について聞かれても、「僕を知りたければ作品の表面だけを見てください。裏側には何もありません」と徹底して「芸術家の内面」をなくし表面的であろうとしました。マリリンモンローというセックスシンボルを上手く利用し、大量生産大量消費な時代においてこの作品を量産しました。この作品を見たことがある人がほとんどでしょうが彼の名を知る者はそう多くありません。つまり「作品ありきのアーティスト」を台頭しており、なんと芸術家冥利に尽きているのでしょうか。

現代美術は幅広く作品も数多いので、日本を代表する現代美術のアーティストをご紹介しましょう。

草間彌生 『南瓜』

実は草間彌生は少女時代から統合失調症に苦しんでおり、繰り返し襲う幻聴や幻覚から逃れるために、絵を描き始めました。南瓜にも描かれている、彼女の代名詞「水玉(ドット)」は、耳なし芳一が幽霊から身を守るために全身を経で埋め尽くしたように、幻聴や幻覚から身を守るための儀式だと言われています。

奈良美智 『Missing in Action — Girl Meets Boy -』

一度は目にしたことがありますよね。ご存知かもしれませんが、奈良美智の作品は欧米で絶大な指示を誇ります。なぜかというと「女の子そのもをモチーフとした作品」は欧米では一般的ではないからです。昔から絵画作品のモデルは女性のものが多いですが、「存在そのもの」をモチーフとしたものはなかったのです。

どうでしょうか、意外にも作品が作られた意図を知ってみるとどれも奥深い作品に見えてきますよね。

現代音楽

最初に、現代音楽というのはクラシック音楽ジャンルにおけるものであるということだけご理解ください。

よく耳にする現代音楽の評価は「リズムが複雑」「ハーモニーが不協和音」「不快」です。素直に申し上げて、以前まで私にとって「演奏したい」と思えるものではありませんでした。現代音楽は言葉で説明すると伝わりにくいので、とりあえずいくつか作品をご紹介します。

アルノルト・シェーンベルク『月に憑かれたピエロ』

長いので最初の数十秒で構わないので聴いてみてください。何だか少し気持ち悪いですよね?実はこの曲は「調を持たない=無調」の音楽です。通常クラシックの楽曲はハ長調・イ短調など調性を持ちます。ですがこの曲は調がめくるめく変わり、一つの調に定まっていないのです。自由すぎるのです。

イーゴリ・ストラヴィンスキー『春の祭典』

意外にもバレエ作品です。一聴してわかるように、不協和音のような音楽が最初から流れてきます。そして踊りはなんともバレエらしくありません。足を内股にし、首を不自然に傾けて踊って(?)います。難解なリズムはダンサーを悩ませ、120回にも及ぶリハーサルを経て、1913年に初演されましたが、客席からは怒号が飛び交い、大混乱となりました。しかし一転して、11ヶ月後ココ・シャネルの絶大な支援を受けたパリでの再演は大成功を収めました。

ジョン・ケージ 『4分33秒』

一曲を通して一音たりとも音が鳴りません。4分33秒の無音です。ケージは「沈黙」でさえも表現素材として用いました。実は3楽章構成で、楽譜には全楽章「TACET (休み)」と書かれています。「これは音楽と言えるのか?」といった議論が今でも活発に交わされていますが、この曲において特筆すべきは「新しい概念を作った」ということです。「沈黙を音楽に」という今まで誰も思いつかなかった概念が評価されたのです。

もちろん中には美しいものもあります。

クロード・ドビュッシー 『月の光』

これは比較的現代音楽の始まりに近いですが、みなさんご存知のこの曲も現代音楽に数えられます。ですが実際は、ドビュッシーもこんな美しい印象派と呼ばれるものばかり書いていたわけでもありません。難解な作品も多々残しています。

コンテンポラリーダンス

少し余談にはなりますが、

つい先日、舞台にて初めてコンテンポラリーダンスを経験する機会に恵まれました。振り付けから本番まで1ヶ月半要したた作品です。まとめると量子力学のような講義を聞き、身体の思うままに動き、その周りにある「空気の流れ」を変えたり止めたり動かしたり、そして1つの作品を作り上げる、、、といった感じでした。

ダンスなので、動きを揃え、タイミングを合わせる練習をするのですが、普段のダンスでは考えられないこともしました。

全く誰とも目を合わさず、感じて、自分の思うまま踊るのです。

ずっと同じ作品の練習をしていると必然的に合わせようとしなくても、動きは合ってくるのですが、ここでは今までの講義や流れを通して得た「自分の流れ」を大切にし、皆根本には同じものを持った上で、その中に「自分」を作り、それが合わさることが逆に流動的な踊りに繋がるのです。

ダンサーそれぞれの時空の流れや空気感が合わさって、渦巻いて一つの大きな竜巻のように感じられ、実際、あとで動画で見ても、とても揃っていて、かつ「生きた作品」になっていました。

大事にされるのは「教科書にある踊り」ではなく「自分の中にある踊り」だったのです。

正解のない芸術

今までたくさんの作品をご紹介しましたが、どれにも一貫することがあるのに気付くでしょうか?

「斬新であること」です。

誰もやってこなかったことをやったのです。

それが行われた現在の視点で見るとそれは簡単で単純なことでも「厳格な芸術」においては許されず、タブーとされていたことをやってのけたのです。元々の概念をぶち壊すことを可能とした現代芸術では表現の制約がなくなりました。アーティストは制限から解放され、自分の表現者としてのアイデンティティーを自ら作り出すことが可能になりました。そしてその価値判断はあくまで鑑賞者に委ね、絶対的な解を与えません。

つまり、私たちは「自由な鑑賞」を得たのです。

「美しいものは美しい」「これはこうやって見るものだよ・聴くものだよ」という頭のどこかにあった概念は取り払われ、あくまでその作品を通して自分が何を「視る」かということが「芸術の鑑賞」になりました。

判断を全て鑑賞者に任せることによって、アーティストはより自由に表現できるようになり、同時に「正解がある芸術」に慣れている鑑賞者にとって「鑑賞すること」自体が難しくなってきたのです。今まではただ目の前にある作品と情報を受け取ればよかったのが、自分で何かしら思考する必要が出てきたのですから。それをめんどくさいと思いますか?それとも面白いと感じますか?

それさえも全て私たちに委ねられているのです。

自由な鑑賞というのは、ある意味画期的でより難解です。ですが、今の時代にとても合っていると私は思います。

「多様性」が世界で叫ばれています。今やこの言葉を聞かない・見ない日はないと言っても過言ではありません。そんな中で現代芸術は「芸術は美しいもの」「この作品はこう受け取られるべきだ」という概念を無くし、自由な芸術は「多様な鑑賞」を可能にし、芸術に多様性を取り込むことに成功したと言えるのではないでしょうか?

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