近年顕著に見られる”習い事文化”について

Hazuki Nishioka
Generation Z
Published in
9 min readJul 24, 2018

”趣味”で続けるか、”プロを目指す”か

突然ですが、子供の頃習い事はやっていましたか?

多くの人が少なからず一つは習い事をした経験があると思います。私自身、幼少期からいくつもの習い事を経験しました。その中のいくつかは今でも続けています。では、習い事の目的とはなんでしょうか?

恐らく「プロフェッショナルになるため」と、「ある一定程度、能力伸ばすため」の2通りに分かれるのではないでしょうか。「習い事をさせて、我が家の子供の能力を最大限まで伸ばしてあげたい」と親が思うのは万国共通の願いだと思います。たくさんの習い事を経験したり、1つの習い事を続けることで、技能や能力を伸ばすことができます。しかし、どの場合でも、ほとんどの習い事は趣味的扱いになり、プロを目指すために習い事をするケースはあまり多くないと言っても過言ではないでしょう。

では、プロになるための習い事とはなんでしょうか?

もしかしたら、この質問自体が少し違和感に感じてしまうかもしれません。なぜなら、芸術(やスポーツ)に焦点を当ててみると、海外には音楽院やバレエ学校などがあり、”習い事”として始めてからプロになるケースは逆に少なく、プロになるための習い事などは存在しないことがあるからです。特に芸術分野で顕著に見られます。例えばバレエ学校。大抵10歳ぐらいの子供達が1年生として入学を許可されるのですが、それには適性検査があり、その試験をパスするために町中のバレエ教室で柔軟のトレーニングを積んだりする場合が多いのです。つまり、「得意分野を見つけるために習い事をして、本格的な道に進む」というケースがほとんどです。

なぜ日本の習い事に対する意識と異なるのでしょうか?芸術分野に焦点を当てて、考えてみましょう。

異国発祥の芸術の教育をすることの難しさ

バレエ学校を例にとってみましょう。

ご存知の通り、そもそも日本にはバレエ学校というものがありません。多くの人が「町中にあるバレエ教室≒バレエ学校」という認識をしています。しかしそれは、海外にあるそれらとはかなり異なります。バレエ学校は職業訓練校であり、そこに通う生徒たちは、親戚中の大きな期待を背負いながら、学校の勉強と同じく毎日毎日レッスンに励みます。習い事である限り、それは毎日お稽古することを強制されるものではありません。日中は普通に学校に通い、自分が行きたい日の放課後にレッスンをします。全員が同じような志を抱いているとも限りませんし、教師によってはメソッドも異なり、指導教育さえ受けたことのない教師が教えていることだってあります。また、バレエには「ワガノワメソッド」「RAD(the Royal Academy of Dance)」「チェケッティメソッド」等、流派が多々存在します。一般的にはバレエ学校によってそのメソッドが違い、メソッドによっては身体の付け方から全く異なる場合があります。どのメソッドが良い、こんな特徴があるというのはまた今度機会があればということにして、日本では、そのメソッドの資格を受け、きちんと指導している教室はそう多くはありません。「ワガノワメソッドで教えています」と書いてあっても、本当にワガノワメソッドの教授法を習ったとは限りません。ほとんどの教室では「日本で一般的に綺麗と言われるバレエ」を教えており、それは様々なメソッドを組み合わせたものになっているのです。メソッドにのっとって美しく踊ることが最初の前提とされることが多い中、混合型メソッドで習ってきた日本人が海外のバレエ学校に留学した際、短期間でメソッドを習得するのがとても大変だったという話はよく耳にします。

ワガノワ・バレエ・アカデミー Japan Official Facebookより

つまり、いわゆる”本場の”やり方とは全く違う方法なのに、同じことをしようとしている、しているつもりになっているのです。

そのままでは、”所詮真似事”と言われても仕方ないような気がします。日本発祥ではないものを独自のやり方で肩を並べるというのは、些か反感を買ってしまうのもやむを得ないのです。「剣道を海外でやっている現場に行ってみたら、心のあり方、竹刀の持ち方から何から何まで全然違った!」というようなテレビ番組が実際にあったように、自分たちは正しいことをしているつもりでも、本場の目で見ると、根本から全く違うこともあるのです。

やはり、何か異国の文化に触れる時、もっとも気をつけなければいけないのは、自国文化に異国文化を合わせてしまうのではなく、あくまで異国のものをそのまま導入するのを常に意識することです。特に流派等が存在する芸術分野では、まずはいかに伝統を学び、そこから発展させていくことが重要だと私は思います。最も確実なのは、現地に行って学ぶことですが、もちろんそれは難しい場合の方が多く、かなりの覚悟を持っていくことが前提となります。ですが、いくら”趣味程度”であっても、続けていくのであれば、それは少なからず芸術の継承になることを自覚する必要があるのです。

コンクール文化

最近、コンクール・コンテストで結果を残すことを重要視しすぎた教室などが増えている気がします。特に、音楽やバレエなど、日本ではニュースなどでも○○国際コンクールで入賞と大きく取り上げたりすることで、「あの人コンクールで入賞してたから、すごいよね」という風潮が根強くありますよね。ですが、「あの人なんの実績もないよ」「実績があるからすごいよね」という理由だけで個人の能力を批判してはいけません。観客がいてこそ成り立つ舞台芸術などで大切なのは「見ている人・聞いている人」がどう感じるかであり、それはその人の肩書きやプロフィールを見る必要なんてないのです。それぞれの感じ方を尊重し、それぞれが自分の評価基準を持つことでオーディエンスも、アーティストも対等な関係で芸術の存在価値を高めることができると私は思います。

そしてコンクールを重要視するとともに、「いかに若齢でそれを成し遂げたか」ということを評価する風潮にもあります。「最年少で優勝!」という見出しは容易に偉業であることを認識できますが、芸術分野において何歳で成し遂げたかというのはそれほど重要ではないのです。それは、年齢を重ねた方が味が出たり、歳を重ねた方が理解できたり、表現の幅が広がったりすることが多いからです。もちろん幼少期から爆発的な才能を開花し、大人と対等に活動を行う子供もいます。ですが、そういうものは大抵「こんな素晴らしい作品があると思ったらなんと7歳の子供の作品だった!」というように、「年齢」は後からついてくるものであって、年齢などのその人の経歴ありきの作品ではないとを多くの人に理解して欲しいのです。

芸術において順位は全く関係ありませんし、個々のセンス・芸術性に評価をすることが、まずおかしいのと思います。「プロになるためには受賞歴が必要」という考えを持った人が大勢いると思うのですが、習い事でコンクールを目指す必要性はありませんし、様々な流派がある場合、どれが良い悪いなど決められるはずがないのです。一番大事なのは、「正しく学ぶこと」であり、「一時的な名誉を残すこと」ではないことを今のコンクール文化となりつつある日本では理解する必要があります。

「習う」ことへの受動意識

習い事の目的というのは、先ほど述べたように、大方「プロになること」の「趣味」2つに絞られます。ただ、現在の風潮として「ただ習う」という意識が先行してしまい、受動的になりがちな傾向があります。他人から何かしらの技術を教えてもらい体得することが「習う」ことですが、「習い事」が一般的になるにつれて、「習い事をする」ことが凡事となってしまい、能動的に習おうとしなくなっているように思います。

習うことは、初歩としての第一歩であり、そこから発展させていくのはあくまでも自分自身であるという意識を持つ必要があるのです。それが現代人には欠けていると思います。子供に習い事を習わせる親の気持ちは理解できますが、それは導入部分であって、その子供がそれに合っているか判断したり、以後続けていくには、本人が「どうしたいか・なぜそうしたいのか」という自分の考えをしっかり抱いている必要があるのです。ただただ毎週のように教室に通って、習い続けるだけでは、確かに何かしら得るものはあるかもしれませんが、本人の「学び」としての意識には残りません。「昔は親が無理やりさせていたから続けたけど、やっていてよかった」といずれ子供が思うならそれは良いことに越したことはありませんし、逆にその子には合ってもいないのに”続けることに意味がある”という美徳意識に従って続けさせることは、決して良いことではありません。

長々と伝統や意識についてお話ししましたが、結局大事なのは「本人が目的を自覚しているかどうか」です。伝統云々は無視して、「バレエをツールとして体系維持したい」でも構いません。ただ、「なぜ習い事をするのか」を自分自身が理解する必要があるのです。

本来は、子供が自らやりたいと言った習い事をさせるべきです。私自身自分が好きなものしか続けませんでしたし、好きなものだからこそ長年続けられているのだと思います。もちろん自ら「これやりたい」とならないケースもあります。だからこそ、現代の親たちには、「何か習い事をさせないと」ではなく、「これだったらこの子が好きになりそうだな」ということをさせて欲しいのです。それなら最早「習い事」である必要はないかもしれません。「習わない」もの・独学で学ぶことを好きになることもあるかもしれないのですから。

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