『開店休業』 

吉本隆明 【追想・画 ハルノ宵子】

George Mitaka / 見鷹祥而
15 min readMar 22, 2014

漫画家のハルノ宵子さんは、吉本さんの長女、多子(さわこ)さんだ。本書は、吉本さんが最晩年に唯一「書いた」食べ物にまつわる連載に、長女のハルノ宵子さんの解説(突っ込みかな)を入れながら一冊にまとめた本だ。ハルノ宵子さんの描いた絵を初めて見たのは、三浦つとむさんの本の挿絵だったと思う。当然、三浦さんも存命で、「試行」も出ていたはずだから、もう相当前だ。ハルノさんの「かいた」ものに接するのはだから二度目。初めて読むその文章は、さっぱりした語り口で、両親に対する冷静な観察といい、ユーモラスな描写といいなかなかのもんである。年齢はやや離れているけど、親の年齢も近く(僕の父と吉本さんはひとつちがい)、長子が実家で面倒みている点、昭和の半ばからどちらかというと集団になじまずに自営で食ってきた親だったことも、その食卓の変化も、どこか我が事のように感じられるところがあって、共感するところが多かった。全体にとても楽しいタッチで描かれていて、読んでいると吉本家に招かれて茶飲み話でもしているような感じがしてくる。

ただ、読み始めて最初の方でこらえられなくなったところがある。それは、「味の素」についてのエピソードの所だ。

妹と私は「味の素」のことを父の “命の粉” と呼んでいた。なんでも東工大の先輩にあたる人が開発に携わったということで、発売当初から “信奉” していた。おひたしにもかける。揚げ物にもかける。梅干しなどまっ白の雪山のようになるまでかける(挿画は大げさではない。真実だ!)。食通と称される人達は「味の素」を味覚音痴になると毛嫌いするが、父は「これは純粋なうま味成分を抽出しただけだ」と、まったく耳を貸さなかった。私も「いくらなんでもかけ過ぎだよ! 甘い物好きだからって、梅干しに砂糖かけるヤツいないだろ?」と抗議したが、ある地方ではホントに梅干しに砂糖をかけていた。 甘い物好きが、砂糖壷を目の前にすると、つい指をつっ込んで舐めてしまうように、単に父は「味の素」が大好き!だったのだと思う・・・・・・そう思うことにした。(21ページ)

僕の父も味の素信奉者だった。ついでにいえば、魚より肉が好きとか、揚げ物が好きとかもなんとなく一緒、父は十条、王子、巣鴨あたりと下町育ちの共通点なのか、食べものへの執着や、やせ形体型で、86,7歳まで生きて肺炎で亡くなったところまで似てる。家族で味の素を重宝していたのは父だけだったと思う。なぜだか分からないが、味の素は昭和の男のものという気がする。父も、いろいろなものに味の素をかけていた。我が家では、料理でもなんでも父に一番の優先権があったから、父が味の素をかけたらみんなそれを食べることになる。吉本さんほど極端ではなかったが、晩年もちいさな瓶を常備して使っていて、今も誰も使わないまま残っている。この箇所からは、その味の素をかけてひとり食事する父の映像が強烈に甦ってくる。同時に、父や吉本さんの生きた時代を「こども」として生きた自分たちがまさにそこにいたその家族としての過去の風景、映像が懐かしさや、しかしもう二度と戻れない欠落感とともにいっせいにふきだしてくる。今までふたをして奥にしまい込んできた自分の子供としての感情を、そのようにしてこの味の素のエピソードは全部表に引っ張りだしてしまった。「おとうさん」、「おかあさん」と死別した今の中年過ぎの情けない自分から、そのぶあつい面の皮をはがしたら、小さい時に夜中に目が覚めて不安で仕方なくなり、泣きながら父や母の布団にもぐりこんでいった時と同じちっぽけな「こども」そのまま。父と母を送るときにはろくに出なかった涙があふれて止まらなくなり、これ以上読み続けることができなくなってしまった。こどもの時のそうした体験が核として残るので、自分は父となってもなんとなくやってけるのではないか。その家族の記憶を再生産しているだけなんじゃないかという気もしてくる。

別のページで、こんなことをハルノさんは書いている。既に介護状況にあるご両親をつれて巣鴨の地蔵通り商店街にいったときのことだ。

本当は私たち子供世代が、あと数えるほどしかない父・母との思い出を作りたかったのではないだろうか。もちろんんその場でのじぃじやばぁばは楽しんでくれたが、翌日再び見えない歩けない閉塞的な日常に戻れば、昨日の記憶は消える。自由にならない身体をかかえた老人は、一日を生きるだけでへとへとに疲れる。日々重荷を忘却の川に捨てていく。 でも確かに私たちはもらった。「老人銀座」の初夏の夕暮れの空気を忘れない。無理して時間をさいて “してあげた” つもりでも、最後まで子供は親からあたえられているのかもしれない。(55ページ)

僕も、いちど両親を会社の保養所につれていったことがある。料理もよくてとても喜んでもらったが、母が寝たきりになってからはそれもできなかった。喜んでもらったのは確かだが、確かにそれは何か喜んでもらえることをしたというこちらの記憶としてこそたびたび甦るけれど、当の両親はそれ以降、出かける事もかなわず、子供たちが出かけると犬と猫と家に取り残され、朝と夕方ヘルパーさんが訪れるだけの生活をひたすら送り続けたわけだ。ほんとうは、面倒を見ていたというより、面倒をみたという気持ちを残させてもらったような気がしてならないのだ。

実体験から言えば、介護でまずやっかいなのは、食事と排泄の世話だ。これは、毎日確実に済まさなければならない。僕は結局親の排泄のめんどうはほとんどみなかった。それを前提にすると外で仕事ができなくなるだけではなく、遠距離、長時間の外出はできなくなる。親の陰部に向かい合うという困難もある。僕にはそっちの方がきつかった。「長男の嫁」が担当するというのもよくあるパターンだと思うが、僕の両親はそれをよしとせず、そのような状況になるとすぐ介護業者を頼んだ。こちらで悩む間もなく親の方でとっとと決めていた。母は、自分たちも、自分の父母の介護は(結果として)実際にはやらなかったので、頼めないというようなことを言っていた。本当はやってもらったらうれしかったろうとは思う。たとえば、通院や買い物などは介護保険ではどうにもならないので、奥さんが長いこと忠実に手伝っていたのだが、普段から口が悪くあけすけに非難めいたことを言うのも日常茶飯事だった母が感謝の言葉らしきものを述べていたこともあった。介護生活で必要以上に子供夫婦の世話にはなるまいと同居しながらも老老介護の道を決めていたらしきその基準から言えば、本来は赤の他人の奥さんがそこまでいろいろと世話してくれるのをそれなりにありがたく感じていたということのようだ。我が強く出るようになった晩年の両親の理不尽な言い分には随分閉口させられたが、一方で親にもかなり気を使ってもらっていたということになる。

介護老人をかかえていろいろ出費がかさむところは随分家計も負担してもらった。肉体労働や、介護業者や病院との交渉、相談、役所の手続きなどやっかいごとはたいてい僕が引き受けていたが、金銭面ではだいたい自分の面倒は自分でみていた。介護保険ではどうにもならない看護師の費用を内緒でこちらが出したりしていたこともあったけど、二人とも死ぬまでこちらの経済負担を心配していたのは確かだ。自分としては、とても、晩年の面倒をみたなどと言うことはできないし、かえって死ぬまで、いや死んでからも心配かけっぱなしでろくなもんではなく、何やってたんだろうと自分でも思うのだ。面倒みさせてもらっていたんじゃないか、結局死ぬまで親は親ってことではないのか。というのは、僕自身の思いでもある。

母のおむつを変えるのはそのようにしてほぼヘルパーさんに依存していたが、介護業界も人手不足で、毎回担当する人がかわる。母はよく世話を受けるのを拒否して、ずいぶん仲裁に入らされた。何もできずにヘルパーさんにお引き取り願ったことも何度もある。後になって、よく考えてみると、毎日ちがう人に自分のおしりをさらし汚れをふいてもらうのだから、たとえ寝たきりの認知症の老人だからといって、誇り高き母がそれをよしとしないほうが当然だということに気づいた。本当に随分たってからのことだ。介護の会社には無理をしてもらって、なるべく母の気に入った方に面倒をみてもらうように配慮してもらったりした。

だが、老親の介護は結局のところ家族に降り掛かってくる。これは、結婚生活と似ていて、一筋縄ではいかない。感情のすれ違い、経験不足からの失敗、果ては憎みあい罵り合い、ぼけて暴力的な抵抗を示す親をなだめたり、粗相しても高齢者の尊厳に気を使い言葉づかいを考え、お互いに疲弊するといった遣り切れない日々だったことも確かで、そんなに楽なものではない。そして、親が亡くなってみると、都合良く、ああすればよかったこうすればよかったという後悔だけが繰り返し去来する。

ハルノさんは、こんなことを書いている。吉本さんの好物だった焼き蓮根に関連しての箇所。

この連載をリアルタイムで読んだ時、「ああ!そうだ父に焼き蓮根を作ってあげよう」と思ったのだが、眼が悪い父がどれほど床に散らかすのかと考えると、ついつい一日延ばしになり、そしてそのままになってしまった。今思うと、涙が出るほど胸が痛む。 「たかが散らかる位で!」と人は言うだろうが、日常であること家族であることとはそんなものだ。誰だって家族には少なからずそんな思いをさせながら日々を生きている。(115ページ)

この種の悔恨を数え上げたら僕もきりがない。あれを買ってやればよかった、ここの家具の配置直してやればよかった、床暖房考えてやればよかった、布団もっとほしてやればよかった、床屋の手配とか言ってくれればやったのに、タバコ買ってやらなかったけど、いまさらどうなるわけでもないし、好きなだけ吸わせてやればよかった・・・・・・本当に数限りなくある。実際に、そんなにえらそうに言えるほど面倒など見られなかったし、自分で自分のことができるならぼけ防止のためにもやらせといた方がいいだろうという気持ちがある一方で、両親も子供の世話にならないで出来るところはやると決めていたようなところがあったわけだから、これが実は難しい。向こうは向こうで、いろいろやってもらいたいと思いながら、素直に依存できず、お互いに遠慮したり迷惑かけあいながら住んでいたというわけで、後悔の種をかぞえあげながらも、仕方ない、生活するってのはそんなことだろうという思いもとても強くする。本当にどうしようもない、お互い様といって笑うしかないような縁が親子の縁ではないか。できることといえば、ああ、あれやっぱり食わせてやればよかったなあ、という嘆息と一粒の涙を流すことくらいなわけだ。

そのようにして残った両親との思い出は、困難な人生を歩んでいく時のよすがとなっているようだ。味の素の思い出ひとつで、人はいくらでも親元に立ち返ることができる。そのようにして守られた魂は、一生の間、たとえ親が死んでしまった後でも一生の間、親に守られているのだなと、心から思わざるを得ない。そういうことをハルノ宵子さん、多子さんはとてもよく心得てこの本をつくり上げられている気がする。あからさまに、野暮な事などなにひとつ書かないけれど。

吉本さんは、次のように書いている。

少なくとも、少年期や少女期は食べ物についていえば、二度やってくる気がしている。一度は父母の味付けをうまいうまいと信じて食べる者として。もう一度は、自分たちの子供時代に味わった食べ物の味がほんとうだったのか、なつかしさをたしかめる者として。この二度やってくる少年期、少女期が風俗や習慣のちがった地域ごとに輪になって残るにちがいない。(32ページ)

最近になって、僕も味の素を使うようになり、両親の好んで食べていたものを食べるようになった。年齢とともに味覚が変化するというだけではなく、子供の頃に両親とともに食べた味の力は、おそらく何物にも代え難い安心感を与えてくれるからなのではないだろうか。文化が人を守るのは、このような何気ない好みであったり、傾向であったり、雰囲気であったりしていて、そうしたものと無縁な世界で人々は生きていくことはできるものではないのだ。文化を守るという言い方があるけれど、逆だと思う。文化に守られるようにして生きていくほか無いのが人間であるなら、人間が安心して生きられる世界が続いているならば、文化は自然と守られるはずだからだ。変化はしても、そのようにして、親から子へ役割を交代しながら人間は続いてきたのだろうなどと思う。味覚に関する文化は、まさにその変化しながらも守られてきたものの代表格かもしれない。味覚が守られているのではなく、味覚が人を守るのだ。

と、そのようなわけで、全体を通じて、ハルノさんの書くものの方に多く共感した本だった。吉本さんの書かれている部分は、なんというか排画か仏画のような風情で、飾っておいても毒にも薬にもならないような静かな境地に入られていて、感想がどうのという領域をこえている。そのかわりに、たとえば、ハルノさんが、こんな親鸞を引用する吉本さんみたいなことを言う。

危害を及ぼすモノなら毒虫でも人間でも、同じ勢いで殺せる。しかし、今飼っている猫は殺せない。では<毒虫・人間・飼い猫>の、どこに違いがあるのかと考えると、 “縁” 意外には思い当たらない。極端な話 “縁” が介在したら、ハエ一匹殺せないが、 “縁” も無くただ私の命を脅かす存在なら人間でも殺せる(食べないけどね)。(156ページ)

僕は、競馬をやるようになってから馬肉がだめになった。友達の肉を食ってるような気がして仕方ないからだ。親鸞といえば、昔のお坊さんについてこんなことも。せんべい屋さんの主人が坊さんになった話の中で。

思えば昔坊さん(特に臨済宗)は、寺に留まらず様々なアイデアを持って諸国を巡り、人と人を繋ぐ ”ハブ” の役割をしていたのだ。ストイックに一つの事だけを突き詰め、ただ黙々と同じ作業を続ける人生よりは、どこか飄々としたこの人物には、坊さんの方が似合っているのかもしれない。

あるいは、凧上げの思い出を書かれているのだが、その知識の的確さはあの頃の悪ガキなみ。最近は、お正月に凧上げを見ることも少なくなったが、全体に昭和の過ぎ去った風情にあふれていて懐かしい気持ちでいっぱいになる。

吉本さんの最晩年の著作として、もう一冊『フランシス子へ』があるが、そのフランシス子という猫と吉本さんの関係はこの本でも少し触れられている。守り守られる関係が消滅して、次第に死に向かって夢の中に歩み出るお父さんについての描写を読んでいると、老老介護の相手方、母が特養に入所してから急速に体力を喪失した父の姿とかぶる。最後におかれている「すまんが、氷の入った水をくれ」といわれた言い方に驚くエピソードを読むと、自分の父の最後の日々をどうしても思い出さざるを得ない。父は、自宅で倒れて脳挫傷をおこし、入院した後、ほどなく、おそらくは誤嚥性の肺炎で亡くなった。父は何かをしてくれということが少なかった。なんでも自分でやろうとする。薬をとろうとして立ち上がった時、もう足元もおぼつかなくなっていた父はよく転倒していたのだが、立ち上がっただけで転倒するとは思わなかったのだろう。薬なんか俺がとるのにとしかりつけるように言ったが、父は黙っているだけだった。丁度昼飯を用意していた時で、作ったおかゆをたべさせたが口にスプーンを運ぶ様子がおかしく、すぐねかせて主治医と相談して救急車を呼んだ。その後、入院して一時回復したが、もうまともな言葉が出てこなかった。そうした意味での吉本さんの最後の食事は、『きつねどん兵衛』だったと書かれている。最後の食事のことは、僕はおそらく一生忘れまい。多子さんもそうだろうと思う。

本来、食のエッセイである本書から、食べ物についてのいくつかのトピックスをあげて終わりたい。いずれもハルノ宵子さんの書かれた部分。

1 節分蕎麦

吉本家では、節分に蕎麦を食べる習慣だったとのこと。初めて聞いたので調べてみたら、なんと江戸時代は、節分を本当の年越し(春がくる境目だから)ととらえて、蕎麦をたべる風習があり、それが、年末の風習として残ったと説明されている。吉本家のそばの具は、天ぷら、とろろ、裂いた鶏の酒蒸し、煮揚げ、茹でた芹、ほうれん草、薬味に刻みネギ、大根おろし、三つ葉、ゆずなどとのこと。なんだかそば食べたくなってきた。

2 サラダ菜

松坂屋のレストランでサンドイッチを注文したらレタスではなくてサラダ菜が使われていたとのこと。サラダ菜は、最近陰が薄くなっているが、そういわれてみると、昔はお弁当の仕切りとかにもよく使われていたし、ポテトサラダにもよくついていた。いつから、陰が薄くなったのだろう。ハルノさんいわく、レタスは淡色野菜だが、サラダ菜は緑黄色野菜で栄養価も高い、これからは自分もサンドイッチにはサラダ菜を使おうとのこと。

3 ほうれん草の根っこ

最近のほうれん草の根っこの部分が赤くないという。言われてみれば、たしかに袋入りのほうれんそうはどこかひ弱で、勢いも無く(そのかわりアクも少なく)、根も緑だ。子供の頃、母が作ってくれるほうれん草のソテーはこの根っこ入りだった。固くて好きではないのでよけて食べていたが、今のほうれんそうはそのようにして料理にいれる意欲もそがれる中途半端さだという。ハウス栽培なんですかね。今の時代を象徴するような気がするのは僕だけではないだろう。

あまりあげてこれから読む人の興趣をそいでもしかたない。これくらいで。読後、ハルノさんのエッセイをもっと読みたいと思うのは僕だけではないと思う。関係者の方、是非、ご本人に進めていただければと。吉本さんは、次女のばななさんとは対談本をすでに出しているから、これで娘さん二人共著を持ったことになる。もちろん、生前の吉本さんは本書の成立を見ることはなく、亡くなられてからこの本は出ているわけだが、物書きの故人を供養するものとしてこれ以上のものはあるだろうかと読みながらしきりに思った。

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