Takehisa Sibata
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8 min readApr 1, 2019

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発達障害をどう捉えるか?ー平成のおわりにー

1.日本は世界一の発達障害大国?

https://www.sankeibiz.jp/econome/news/180217/ecb1802171610001-n1.htm

日本は10人に1人が発達障害というように世界一発達障害が多い。なぜ多いのだろうか?

・空気を読む文化

・コミュニケーション能力を要求される就活

・人と異なることを嫌がる文化

・島国の遺伝子

諸説挙げられている。ただ、人口比で突出して多いのには文化的な背景が考えられるであろう。また、海外では就学前教育が盛んであり、発達が遅れている人には、一年小学校の入学を遅らせる措置等をとる。そして、幼稚園や保育所から小学校に上がる前に、就学教育を行われる。その際に、発達障害者を早期発見し、フォローする体制がある。特にそうした幼児教育は、アメリカ、イギリス、北欧で盛んである。その例として、フィンランドを例にする。

フィンランドでは、小学校に入る1年前にエスカリという就学前教育を行う機関があり、以下の内容を勉強をする。

・アコセット(フィンランドのアルファベット)の大文字

・1〜10までの数字

・時計の読み方

・ワークブック(大文字の書き取り、塗り絵など)

・席に座った学習

上記の内容の習熟状況が悪い場合や習熟スピードが遅い場合には、フォローする体制がある。発達が遅れている児童には、就学を1年程度遅らす等の措置を取る。ただ、この内容は日本では難しいかもしれない。特に、就学を1年遅らせる等の措置は、日本では反感を招く恐れがあり、簡単に真似することは出来ない。北欧では、発達障害の人が1年程度就学を遅らせフォローすることは悪いこととは全く見なされていない。そのあたりの文化的背景も抑える必要があろう。

また、アメリカ等では飛び級が行われたり、フィンランドでは習熟スピードが極端にはやいケースではその人の進度に合わせてフォローが行われる。フィンランドは15人程度の学級であるため、クラスを分けなくても個別フォローがしやすい。

http://www.franceplusplus.com/2012/06/iq1/

フランスでは、知能思想の高すぎる子どもの学業の失敗が取り上げられている。知能が高すぎて周りに合わせられないことも、集団教育の世界では”障害”となる。ギフテッドへのフォローや飛び級は、日本では、英才教育と見なされているが、海外では一つの障害、個性へのフォローと考えられている。知能が高すぎることも一つの障害なのである。

周りと合わせることを要求される日本。かつては、KY(空気が読めない)という流行が流行った社会である。

2.近代は狂気を病気と分けた社会

とは言え、発達障害とは何か?私たちは問い続ける。私がかつて、お世話になったカウンセラーは、音声から情報を受け取り空気を読むことに長けた人を定型発達者と定義づけていた。定型発達者とは、①空気を読むことが出来ること、②協調性があること、③集団生活に適応しやすい人であろう。

ではなぜ、定型と発達障害を分けることになったんだろうか?以前の時代においては、変な人、天才、聖者とか別の言われ方があったのではないか?そんな仮説を立ててみた。そのことを友人の哲学者と議論した。その友人が今、哲学の課題としていることは、近代が求めた人間への要求水準、道徳的水準がが果たして正しいのか見直したい、ということであった。

「聖書において元来、人間は不完全な存在とされてきた。人間とは神に比べれば取るに足らない存在として、中世、近世考えられてきた。

しかし、近代になり、人間はあらゆることを求められるようになった。集団生活に適応し、時計の時間通り生きること、文字が読めること、働くこと・・・・吟遊詩人のような生き方は許されない。余りに社会は人に多くのことを要求しできることを要求してきたのではないか?それが生きやすい社会なのだろうか?」

と私に電話で説いたのだ。彼が念頭においているのは、一つはミシェル・フーコーの「狂気の歴史」であろう。フーコーは、「狂気の歴史」のなかで、病人がなぜ発生するのか?ということを説いた。病気があるから病気が発生するのではなく、社会が病気を設定した、という考え方を採用している。学校、孤児院、刑務所、病院等は社会のアウトサイダーを隔離する機能を果たした、としている。浮浪者、失業者、孤児、虚弱者は福祉を受けるという形で、社会から隔離されていったのが近代という時代である、と論じている。近代は、社会システムを通じて狂気を隔離するということが行われたのである。

なおそれ以前の時代でも、狂気を社会から排除することが行われていた。その典型例が15世紀のドイツで書かれた「阿呆船」という小説で描かれている。ありとあらゆる種類・階層の偏執狂、愚者、白痴、うすのろ、道化といった阿呆が一隻の船に乗り阿呆国ナラゴニアを目指すという小説である。とは言え、吟遊詩人という存在が社会にはあるように、働かないもの、アウトサイダーが許容されていた。

一方でルネサンス期には、狂気とは豊穣な現象として扱われていた。「人は神の理性(Reason of God)には近づきえない」という思想の体現という考え方である。この時代に書かれた「ドン・キホーテ」では、騎士道物語を読みすぎて現実と区別がつかなくなった主人公が自分の周りに起きたことを全て騎士道の物語としておきかえトラブルを起こす様が描かれている。エラスムスの「愚神礼賛」では、痴愚女神モリアー が大演説会を開き風刺するというもの。狂気を描いた絵画も多く存在した。この時代においては狂気とは排除するものではなく、豊かな世界として考えられていた。正常でない人間とは、神の理性に近づいた人間として考えていた。吟遊詩人という存在もこの時代には存在した。

17世紀になり、愚者、道化、偏執狂、浮浪者、失業者、孤児が一般施療院という体裁を取りながら、実は、権力が秩序に反するとした人間を隔離する措置を取っていたことをフーコーは明らかにした。17世紀を「大監禁時代」と定義づけた。なぜこの時代にそうなったかと言えば、この時代に工場制手工業が始まり、資本家という階級が出現した。マルクスの歴史観で言うところの商業資本主義の時代である。労働を忌避する人間、労働能力を有しない人間を社会が排除することが都合が良かったのである。特にブルジョワジーは、プロテスタントが多く、勤労を美徳としていた。

18世紀末になるとあらゆるアウトサイダーを隔離して一般施療院が解放され、労働力として活用された。しかし、そうなると社会では活用出来ないタイプの人間が発生することになる。犯罪者と狂人である。狂人の方は社会に適応出来ないため社会の中に居場所がないため、狂人のための病院が出現した。それが、精神病院や精神医学の始まりだ、とフーコーは論じたのである。

発達障害、精神障害の最近のブームはこの流れにあるものといっていいのではないか?例えば、時計が定める時間に従わず自由に生きる優秀な発達障害のクリエーターがいる。支援者の方に言わせれば、

「中世の時代においては宮廷のお抱え画家として生きることができたのに」

と言うのである。どういうことか。近現代における、「働く」それに必要な社会規律の押しつけとはややもすると、適応出来ない「狂人」「精神疾患」「障害」というものを作り出しているという現実なのである。

そして、社会が求める学力、規律、道徳の要求水準が上がれば上がるほど、それに適応しにくい人間は”発達障害”となるのである。発達障害の特性があるから発達障害なのではなく、近現代が求める水準が上がれば上がるほどそれに適応出来ない人間をつくりだすこととなるのだ。「狂気の歴史」では、人間が理性的であることを極度に求めたからこそ「狂気」「精神疾患」を区別するようになった、としている。

発達障害を「狂気の歴史」という観点で見ると非常に面白い。僕の友人は、

「もう、人間を道徳的に完成された存在と見る考え方をやめよう。生きにくくするよ。」

と警鐘をならすのである。

おわりに

近代がもう終わろうとしている時代の中に平成はあるとも考えられる。「狂気の歴史」は精神疾患や発達障害がややもすると近代がそれに適応出来ない人間を弾く、選別するためにつくりだされたものであることを明らかにした。ポストモダンにおいてはどうあるべきか?

AIの導入は、もしかしたら「働かなくて良い時代」というものの到来があり得るかもしれない。そうなったときに、働ける人間・働けない人間の区別は意味をなすのだろうか?平成のおわりに今一度、発達障害とは何かを考える必要があるであろう。

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