コロンビアの夕飯は “孤食な”一家団欒
ラテンアメリカの国々は、カトリックの影響もあってか家族縁を大事にする。コロンビアもその例に漏れず、物事を決める時に親の意見を仰いだり、離れた家族とは毎日電話したり、週末には親戚を訪れたり、とにかくすべての物事の中心に「家族」がある。
そんな彼らの家庭では、さぞ一家で夕飯の食卓を囲むことを大事にしているのだろうと思ったら、意外にそうでもないことに拍子抜けする。
コロンビアでは、一日の中でメインの食事は、夕食ではなく昼食だ。昼食は肉やイモたっぷりのお腹にたまる食事をとる。そして午前と午後、一日二度の間食が食事の一部と位置づけられていて、一日を通して食べている。間食のためによるに腹ペコになりにくいこともあってか、夕食の位置づけは軽い。
その大事な昼食は誰と共にするかと言うと、一昔前や地方だったら家族で囲むこともできようが、都市で働く現代人はそうもいかない。日中は会社などで過ごすため、昼は職場の同僚などととることになる。特にボゴタの場合は交通事情の悪さ(山岳部で電車がないため渋滞になりやすい)や家と職場との遠さ(居住地域が税金負担額で区分される)のために通勤時間が長く、昼に家に戻ることはほぼ不可能だ。仕事後の帰宅も早くはない。
そして帰宅後夕食は、パンやビスケット程度の簡単なもので済ますことが多い。間食の多い習慣のためもり、台所にはビスケットやパンがいつもある。昼食にお母さんが作ったスープが残っていることもある。
台所に行けば何かがあるから、各自が食べたいものを好きに出してきて自分で準備して食べる、それが都市部の一般的な夕食だ。
「夕飯は家族で食卓を共にする一家団欒の時間」という日本でなんとなく信じられている価値観を基準にすると「孤食」と形容することもできようが、この現状をさみしいともうしろめたいとも思っていないのが印象的だった。
「カロリー的には昼食が一番大事だけれど、カロリーをとることと時間を共にすることは別次元。家族と時間を過ごすのに、食事は決して必須じゃないよ」。ボゴタで働く青年の話に、食事の力を過信していたことを思い知らされた。
食卓はたしかに家族をつなぐ。日本社会での夕飯は、忙しい一日の中でほぼ唯一家族が集まれる時間であり、食事をとる間の小一時間は必然的に場をともにすることになる。食べ物があることで話が進み、ばらばらに過ごした一日のことを話す場としては格好だ。とはいっても現代は同じ食卓についていてもテレビを見たりスマホをいじったりして、必ずしも時間を共にしているとは言い難い。食事摂取という目的があるから食卓に集まるけれど、裏を返すと食べ物の力を借りてかろうじて家族の縁をつなぎとめていると言うこともできる。そんな自らの食卓を顧みると、食べ物がなくても食卓という場を共有していなくても、家族での時間と空間を楽しんでいる彼らの方が、ずっと「一家団欒」のようにも思えてくる。
食事は家族をつなぐ力があるけれど、つなぐためのたった一つの要素に過ぎない。食卓に集わずとも別々のものを食べていようとも、そこに会話があり笑顔があれば、食事の力などきっと必要でない。至るところ大事なのは、一緒にいる人を大切に思う気持ちだけなのかもしれない。
「食卓を大事にしていないのかも」と思っていたのが「食べものの助けなんて必要ないんだ」に変わり、食卓のない一家団欒がちょっと羨ましく思えてきた。