山岳民族の食卓、まわる自然の一部分
タイ山岳民族のアカ族の家庭に滞在した。
アカの人々と暮らしていると、食が暮らしの循環の一部であることを強く感じる。
食材は山からいただく
アカ族の食卓は、山の恵みでできている。山の野草を多用する。毎日にように山に入り、畑の手入れをしたり野草を摘んだりして、食卓に必要なものを獲得してくる。
この日は急斜面に這いつくばって、ニラの仲間の根っこを掘ってきた。
採ってきた根は水洗いして、生のままピリ辛ソースをつけて食べたり、豚肉と一緒に炒め煮にしたりする。多様な食材使いの知恵がある。
その他にも食卓には毎日様々な野草が上る。キャベツやトマトのような世界的に商業栽培されている作物ではなく、この地域だからこそ育つ植物たちだ。自然の恵みを食べ物に換え、その食べ物を食べて人が生き、山と繋がって人の暮らしがある。
流れた米粒は鶏が食べる
山の野草と共に食べる主食は、米だ。朝の仕事は米研ぎから始まる。
庭の水道で米を研いでいると、鶏たちがやってくる。流れた米粒をついばんでいる。都会の台所であれば下水に流れてしまうものを、一粒残さず食べてくれる。そうして文字通り一粒も無駄にせず栄養に換えてくれる。
食材屑も鶏が食べる
鶏の仕事は米粒だけではない。あらゆる食材屑をきれいにしてくれる。
台所がある建物は竹造りの高床式で、台所の下の一階部分には鶏が飼われている。にんにくの皮や野菜の切れ端など台所で出た食材屑を床板の間から下に落とすと、鶏たちが寄ってきてきれいにしてくれる。
そうして食べたものを血肉に換えて、暮らしに必要なものを提供してくれる。鶏は暮らしのパートナーだ。
少しだけ残った残飯は犬のごはんに
料理過程の屑は鶏がきれいにしてくれるが、作った料理が余ることはよくある。しかしそれも決して無駄にはならない。
少しだけ余ったおかずは、ご飯と混ぜて犬の食事になる。犬は何でも食べて、家の安全を守ったり山に入るのにお伴したりと仕事をしてくれる。
たくさん残ったおかずは次の食事に
おかずとして十分なくらいの量が余ったら、犬にあげずにカゴをかぶせて次の食事にとっておく。
持ち越されたおかずは、そのまま食べることもあれば作り変えることもある。2回持ち越されたじゃがいもと豚肉の炒め物は、最後はつぶして温かいポテトサラダのようにして食べた。
村の暮らしは大家族で、ぴったりの量を作るのは困難だ。食材も山から採ってきてお金がかかっていないので、食材の無駄なく作る合理性もあまりない。でも犬のおかげで余らせても無駄にならないことを知っているから、安心してみんなが食べるのに十分な量を作ることができているようなにみえる。犬は、家を守るだけでなくいろんな意味で「安心」を与えてくれている。
世界観が変わる時
こうして見てみると、人間は自然の循環の一部に過ぎないということを強く感じる。
鶏や犬を飼ってこのような循環を作っていたのは、昔の日本にもあったことだろうし、画期的に目新しいものでは決してない。むしろそういう思想が国を超えて普遍的にあることになんだかほっとする。
一方で、この村にも自然の循環に馴染まないものが入ってきている。
お菓子の袋は鶏でもきれいにできないし、インスタント麺は犬には刺激が強すぎる。しかし今までなかったものが急に登場したものだから、それが異質なものだという感覚もなく今まで通り動物に与えたりしている。
今のところ自然の循環の中で少しの歪みを生んでいきているが、これらのゴミを「処理しなければならない」「人間が手を施してやらなければならない」と気がついたとき、人間優位な社会が出来上がってしまうような気がした。人間が作ったものを人間が処理するシステムは、巧妙に作り上げられた自然の大循環に比べたら本当はとってもとってもちっぽけなものなのだけれど。
とはいえ物の流入は止められらない。 一緒に遊んだ女の子は、10年後どんな世界観で生きているのだろうか。