祖父の戦争手記「私の日ソ戦」
シベリヤ抑留 三年 (第九回)
伊藤伸男
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舞鶴に上陸して二、三日検疫を受け、いよいよ我が家に向う夜汽車にのった。車内でうとうと眠っていると夜中の二時頃だったと思うが、豊橋駅あたりで停車している時、車窓をコツコツと叩く者がいた。窓を開けて見ると大事そうに包んである籠の中から温かいお芋を取り出して「兵隊さん!ご苦労様でした。どちらからこられましたか!〇〇△△という人を知りませんか。」と尋ねられた。私は「残念ながら知りません」と答えた。列車は動き出す。まだ家族の者が帰ってこない人であろう。皆こうして心配しているのだと思うとじーんと胸に来るものがあり、寒空に倒れていった中島のことを思い出す。住所など書いたものは一切持つことは許さなかった。もし、持っていればスパイにされてしまう。
東京駅に浮浪者のような姿で布カバンを下げて私は降り立った。いち早く次兄の宏兄と母方の従姉妹の大木なみさんが見つけて駆け寄ってきて「お帰りなさい。よかったよかった」と言ってくれた。そして私の実家方面行きの列車に乗り込んだ。列車内で、なみさんが、お重箱に色とりどりの銀シャリのお寿司を出して食べて、食べてと言った。今まで三年間、雑穀ばかり食べて来た私には目が痛い程であった。美味しかった。なみさんとは郷里の駅で別れ、あとは兄と我が家に向う。
家では両親と兄姉妹が喜んでくれ先輩の好二さんは、もし貴方が帰って来なかったら、私は貴方の両親に申し訳がたたなかった。私がハルピンにいたので後を追って渡満して来たのだからと言い、心から喜んでくれた。
母方の叔母さんに「帰国してお前が始めて挨拶に来た時のお前の眼はギラギラ光っていて、一瞬の隙も無く、怖いような顔をしていたが、時が経った今は温和しくなっているね」と言われた。長兄の文夫兄とも色々とシベリアのことを話し合い夜中の二時頃までになったこともあった。兄はなかなか私より本を読んでいるようで、話をしているうちに私は感服した。これから先のことはじっくりと世の中の動きをみてからだ。先ずは身体をつくれと言われた。
かくして私の長い長い抑留生活は終わった。
完
一九九八年六月記
2017年で94歳になった祖父、伊藤伸男の戦争手記をMediumで公開することにしました。彼は、青年時代から満州鉄道で働き、日ソ戦で戦い、終戦後は3年間シベリア抑留を経験しました。「思い出したくないことだけれど、戦争体験が風化しないように記録に残しておくことが、若い人たちへの責務だ」と考えて筆をとったそうです。20年ほど前に書かれた手記ですが、世界情勢が不安定な今、また多くの人に読んでもらえたら、と思っています。
※句読点、段落、漢字等は原文のまま掲載しています。
「私の日ソ戦」をKindleで公開しました。Mediumで公開されている内容に加え、祖父が幼少期〜青年期までを振り返った「青竹記」も付いています。(さらに縦書きなので読みやすいです。)

