短編小説 「君がいらないといったから」

水を自分一人で操ることが出来てアンはとても幸せだった。いつもだったら母親がシャワーを操作しアンの頭に湯をかけ、洗い終わるやいなや風邪を引かないようにすぐに風呂から上げてしまうのである。だからいつも彼女はシャワーを自分で操る機会を与えてもらえなかった。だけど今日はアンにとって素晴らしい日だ。彼女はシャワーヘッドを持って踊り、脱衣所のシンクを目がけてシャワーを放水している。従兄弟のお兄ちゃんがやっていたゲームでは狙った的に黄緑のレーザーライトが当たれば得点が加算された。しかし、アンはまだ力がないのでシャワーの水圧に体が踊らされているようだ。それでも彼女は脱衣所のシンクをめがけ風呂場からシャワーを放水し、掃除機のエキサイティングな雑音の中、自分だけのゲームを楽しんでいた。

一心不乱にシャワーヘッドを操縦していたが、三分もすれば飽きてそれを床に投げ出してしまった。そして水浴びをする小象のように水たまりの上でのたうち回ったり、紙幣を宙に投げる億万長者のように水を小さな手ですくって撒き散らしたりしていた。やがていつまでも一定の量で出続けている水にも飽き、母親を見つけに行きたくなった。彼女は水で重くなった服を引きずりながらよろめくペンギンのように廊下を抜け、キッチンテーブルの足の間を抜け、コードに足を引っ掛け転んで手をついたが、すぐに起き上がり母親の足に飛びついた。とても幸せそうに顔をくちゃくちゃにして濡れた髪を母親の足に押し付けた。ユリアは掃除機が止まると同時にびしょ濡れのアンが足に絡みついてきて思わず目をぎょっとさせ叫んでしまった。

「なんであなたはそんなにびしょ濡れなの!」

アンは嬉々としながら

「あめ、あめ」

と覚えたばかりの言葉を発して始まったばかりの人生を楽しんでいるようだった。

ユリアはこんな快晴の日になぜこんな濡れることがあろうと反射的に台所のシンクに目をやったが、ふと我に返ると廊下の奥からシャワーの音が聞こえ、それだけはやめて欲しいと言わんばかりに廊下を慌ててかけて行った。しかし、彼女は子供の無常さに屈した。まるでそこだけが嵐に見舞われたように洗濯機や歯ブラシ、せっけん、カミソリ何もかもが風呂の中かのように滴がしたたり、蒸気を発していた。壁紙はいまにも湿気で剥がれてきそうに見える。彼女は悲鳴を上げながらシャワーを止め、それをフックに掛け、脱衣所の小さな小窓をあけ蒸気を逃そうとした。そしていまだ楽しそうに後から着いてきた娘の尻をほとんど感情的に日常生活で出す以上の力で叩いた。アンは前のめりにバランスを崩し、膝をつき、そのあとくずおれるように手をつき、一瞬の沈黙の後、顔を真赤にして泣きじゃくった。さっきまで手にしていた幸福を突如奪われ彼女は絶望の淵にいた。そしてそのまま腕に頭をうずめて丸くなってびしょ濡れのまま泣いた。母親にダメ、ダメと叱責され、躍動的に彼女を魅了し、自由な形を作っては塊に飲み込まれた水はもうじわじわと目を熱くさせる嫌な滴だけとなった。

ユリアは何から手を付ければいいかわからなかった。とにかく被害を最小限に抑えるために大きなバスタオルを四枚引き出しから引っ張り出し床中に敷き詰め、そのうちの一枚は娘の体を拭くために使った。彼女はまだ泣きながら体に力が入らなく、ぐにゃぐにゃしながら母親にされるがままに頭をタオルでこすられ、着ているものも剥ぎ取られ、体中を処理に焦っている母親に荒くふかれ、彼女は素っ裸の娘を残し奥の部屋に消えていった。そしてすぐに靴下やズボンやTシャツを持って戻ってきた。しかし、まだ彼女は一つ一つの動作に余分な勢いがあり、先ほど声を荒げた興奮がまだ収まっていないようだ。おむつを穿かせTシャツを頭からすっぽりかぶせ、アンは頭をぐらぐらさせながらなんとかTシャツの穴からまた真っ赤な顔を出した。そして母親にわきを持たれ、起立させられた。泣きじゃくっていてもいつもの習慣で彼女はちゃんと母親の肩にちっちゃな右手をのせ左足を上げ、母親が広げてくれているズボンの穴へ見ることもせずに足を入れた。まだ雷が背中に落雷したかのような勢いで泣いているが、小さな姫さながらに母親のももに足をのせ縁にレースが施された靴下を履かせてもらった。

「そっちでおとなしくしていて」

と母親は隣の部屋を指さし、べそをかきながらアンはその指に背中を押されているようにしぶしぶ下向き加減に移動した。ユリアはとにかく床や壁や洗濯機の隙間など家中のタオルを使って水を拭き取った。彼女自身も靴下がずぶ濡れになった。掃除しているそばからこんなに大仕事を作られてはお昼前に買い物に行くのも無理だろうと諦めた。無駄だとは思ったが、ドライヤーで壁を乾かしさえした。それでもコードが足りなく、全てを乾かし切るのは不可能だった。

この頃アンは本当になんでもやってしまう。一週間前にはユリアが友人と電話をしているとアンは台所のシンクの下にある扉を開け、扉の裏側についているナイフホルダーに刺さった様々な種類のナイフをまるで人形と遊んでいるかのように顔をきらきらさせて床に並べていた。ユリアは幼児にはあまりにも不釣り合いなおもちゃで遊んでいる我が子をみてすぐに状況を飲み込めなく、ボールが頭を強打した時のように一瞬の意識が飛ぶような感覚がした。

アンは狭いところにもよく入る。時折ユリアが子供がいなくなったと慌てふためくとソファと壁の隙間やベッドと床の間などで落ち着いていたりするのだ。だから彼女は子供が出来てからより掃除にかける時間を増やしている。故郷から離れてしまっても毎日家の中を正常に保つために彼女は手を伸ばせば天井に手がつくその切迫した空間で、自分のことなど目もくれずあくせく動きまわった。それでも彼女は今の状況に幸福を感じていた。トーマが帰ってきたら今日のアンの悪行も報告したらきっと彼も笑うだろうと彼女は手を動かしながら考えていた。

忙しく動きまわり顔にまとわりついた髪を払っていると電話が鳴っていたことに気づいた。彼女は無心にドライヤーを壁に当てていたので気が付かなかったが、どうやらしばらく鳴っていたということは彼女にも察しがついた。電話にでると天井から水が垂れているのだが何かしらないかと階下の住人に尋ねられた。階下の住人は特別慌てた様子もなく、ただ確認すべきことを確認しているといった感じであった。ひょっとすると上の階で何かあったからではなく、排水管が故障した可能性もあると踏んでいたのかもしれない。ユリアは事態がそこまで悪い方にいっていたことで頭に血がまわらなくなったかのように頭がひんやりとするのを感じた。

「すみません。うちの娘が私が掃除をしている隙にシャワーで遊んでいたみたいで床中水浸しになってしまったんです」

「そうですか、かなり下にも漏れてきていますよ」

階下の女性は四十代の女で、引っ越しの挨拶できて以来一度も口を利いたこともなければ顔を合わせたことすらなかった。ユリアが感じた初めての印象としてはどちらかと言うと物腰が落ち着いていて、四階建ての庶民的な団地に住む者にしては気品がある方だと感じた。実際、緊急のことが起こっているいまですらそんなに取り乱したり、人を責めているような感じというよりもただ単に事実を伝えてくれているという感じで嫌な含みがない。それだけに彼女は申し訳なく思い、差し支えなければ様子を見に行っても構わないかと尋ねた。階下の住人はあっさりと承諾した。ユリアは電話を切り、靴下を履き替え、アンを小脇に抱え、バスタオルを二枚持ってサンダルを履き階下に降りた。彼女はこんなに近くに住んでいるのにほとんど初対面であることを考えると緊張すら感じた。物理的な距離がばかばかしく思えるほど遠く未知な領域だった。そこにいまから彼女は踏み入れるのである。

チャイムを鳴らすとすぐにドアが開いた。一瞬でローズマリーのような香りがむっとして、ユリアは思わず鼻から息を深く吸い込んだ。階下の女性は黒のブラウスにネックレスをしていて髪もきちんとセットされ、口紅まで塗られていた。ユリアはすでに同じ構造をしているはずの家があまりにも違うことを玄関に立っただけで感じとった。室内の明るさまでもがまるで車で数時間移動して着いた場所であるかのように違って見えた。階下の女性はユリアにスリッパを用意してくれた。孔雀のような鮮やかで神秘的な青と緑のペイズリー柄のペルシャ絨毯が強烈な印象をユリアに与えた。しかしそれでもやはりいま彼女の頭のなかは濡れた天井のことでいっぱいだった。

「ご迷惑おかけして申し訳ございません」

「いえいえ、小さいからわんぱくですものね」

といいアンのきょとっとした顔を覗き込んだ。アンは自分のしたことが原因になってここへ来ているとはわかっていない様子だ。

「こちらにどうぞ」

階下の女性は二人を奥へと案内した。ユリアの家と同じようにすぐにキッチンがあった。ほとんど生活感のない二人がけの黒いキッチンテーブルと蝶のような形をした背もたれの鉄の椅子が向き合って並んでいる。黄色と黄緑の花がらのランチョンマットの上にきちんと受け皿に乗った白いティーカップが配置されている。そして透明のガラスの花瓶に白いスイートピーがささっている。気取った料理屋のような厳かな雰囲気に圧倒されつつも、キッチンを抜け廊下に階下の女性の後を追う形で歩いた。彼女は慌てることなく優雅にユリアの家と同じ手を伸ばせば着くほど低い天井のトンネルのように長くて暗い廊下を抜け、脱衣所に辿り着いた。ユリアはいまでは頭の半分ではこの家の中のことに気を取られ始めていた。あまりにも自分のものとは違うし、あまりにも不釣り合いな凝った装飾をしたこの家が奇妙に思えてくるほどだ。どれだけエレガントに装飾を施しても、結局一歩玄関を出れば人二人が通るのもやっとの幅の退屈なコンクリート色の階段があり、それには事務的なアルミ色をしたカバーが角に止めてあるだけなのだ。

脱衣所に先に入っていった階下の女性の背中が視界から消えた瞬間、ユリアはもう一人奥の部屋に人がいることを視認した。彼女はそれにひどく驚いて足が止まってしまった。子供がいるなんて知らなかったし、子供がいるような感じはどこにもしなかったからである。それにもう十五歳は超えているだろう少年がなぜ平日の昼間にカーテンを閉じた部屋の中でテレビを見ているのだろうか。彼は、ユリア達に一度も視線を向けることなく、まるで透明の厚いガラスの向こうにいるようだった。とても幸せとは言い難いなんとも嫌な感じのする子供だった。母親はあれだけ着飾っているにもかかわらず、子供は暗い色の寝間着のようなものを着ていた。体調が悪く学校を休んだのだろうか。いや、彼が制服を着て歩いているところどころかこの家の人々が外を歩いているところなど見たことがないのだ。まだ彼らが引っ越してきて長い歳月が経っているわけではないが、それでも買い物に出るところを見たことや車も持っていないようなので、いるのかさえもよくわからなかった。いまはまだ完璧な謎に包まれているのであった。

少年の横顔は高級ブティックの入り口に立つ警備員が、そのブランドの商品に興味が無いのと同じく、無関心そのものだった。もはやユリアの頭のなかは異世界の扉を開いてしまった興奮と予測に及ばなかった奇妙さで、本来そこに行った目的を見失いそうですらあった。

「こちらですよ」

脱衣所にはプラスチックのたらいが置いてあってそこにぽたぽた水が落ちていた。一秒に一滴のペースで水が落ちてきてまだまだ止まりそうにない。このままでは天井の壁紙がだめになってしまうかもしれない。

「申し訳ございません。業者を呼んできれいにしていただかないと」

ユリアは天井から落ちてくる水と女性の顔を、話すときに行ったり来たりして見る間にどうしても気になってシンクの周りにあるものや棚に並べられてある化粧水などの瓶に目がいってしまった。どれも馴染みのないものばかりでまるで異国の地からやってきた者のようだ。見ていてもしかたがないのでとにかく業者を呼ぶために彼らはまた廊下を渡り玄関に向かおうとした。先ほど入ってきた時には見なかった方の部屋が目に入った。テレビのあるリビングで、壁には絵がかかっていてダークグリーンの二人がけのソファがあった。ユリアはきゅっと胸が締め付けられるような思いがして無意識に口が開いてしまったが、声を出せるほどではなく、必要最低限の呼吸をするのが精一杯だった。明らかに彼女は怯えていた。階下の女性はまだユリアに背を向けて玄関に向かって歩いていた。ユリアは何度も何度も自分に問いただした。ほんとうなのか。ほんとうに間違いではないのか。階下の女性が振り向いた。ユリアが何かを見ているのに気づいたのであろうか、先ほどの穏やかな表情ではなく冷たく人をあしらうような表情になったようにユリアには見えた。なにか言わなければと思い、ユリアはまた

「すぐに業者を呼びますので」

と言った。階下の女性はまた落ち着いたもの言いで

「これからでかけなければならないし、そんなに程度もひどくないので気にしなくていいわ」

と言った。

「でも」

とユリアが言いかけると

「ほんとうに良いの、そういうの面倒で手間がかかるから。乾けば平気よといった」

ユリアはもうただ怖くなって早くこの家から出たかった。自分でもなにを言ったかわからないくらいどもりながら頭を下げ、ほとんど逃げるようにスリッパを脱ぎ扉を開け、ほとんど顔を見ることも出来ずに頭を下げ、ドアが早く閉まって欲しいと思った。ユリアは心臓がどきどきしていて息を深く吸えなかった。震える足で階段を登りアンは母親の異常に気づいたのか母親の首筋を小さな拳で叩いた。

トーマはなぜ晩飯がないのかとユリアに聞いたが、彼女の顔は真っ白で冷凍庫に閉じ込められ、そこから這い出てきた人のようだった。

「とにかくなんか出前を取るよ。なにがいい?」

「食欲が無いから私は平気」

「具合が悪いの?大丈夫かい?」

「今日とても変な思いをしたの」

彼女は椅子に座り、テーブルに肘をつき頭を抱えている。トーマはネクタイを外しながら妻をずっと観察している。彼女は何かに怯えているようで震えているが、顔が白いので寒さで震えているようにも見える。

「なにがあったの?」

「下の家は気味が悪いわ」

「どうしてだい?なにかあったのかい?」

「ソファがあったの」

「だからどうしたっていうんだい?」

「わたしたちのよ」

「そこにあるじゃないか」

トーマは妻が全くなにを言わんとしているのかがわからない。何に怯えているのかがわからなくて妻が怖くなり、自分までもが寒気がしてくるのを感じた。

「一年くらい前にダークグリーンのソファがあったじゃない?それが下の家にあるのよ」

「どういうことだい?そんなものとっくに捨てたはずじゃないか。それになぜ君は下の家なんかに行ったんだい?」

「わからないわ。けどあったの。アンが脱衣所を水浸しにしたから下に様子を見に行ったのよ」

「たぶん似たやつだったんじゃないかい?」

トーマは思っていたより危険な話ではなさそうだと少し安堵した。

「けど下の家は大丈夫だったのかい?」

「大丈夫なんかじゃないわ。変な子供がいて気味が悪かったし、母親の方も変に落ち着いてて気味が悪いのよ」

「怒ってなかったならよかったじゃないか。けど子供なんていたんだね。彼らは何人家族だった?」

「そういえばキッチンを通った時に見たんだけど、テーブルは二人用のものだし、椅子も二脚しかなかったわ」

「じゃあ二人暮らしなのか?」

「わからない」

「おい、泣くなよ。なにがそんなに辛かったのかまだよくわからないよ」

そう言い彼は椅子に座っている妻にかぶさるように抱きしめた。子供が出来てからこんなに彼女が取り乱すようなこともなかったので彼はきっと子育ての疲れかなにかかと思った。

「ソファよ」

彼女は泣いている時に特有の喉が圧迫されてなんとか絞り出されたような声でまたそう訴えた。

「僕達が一年前に持っていたソファがほんとうに下の家にあったってことかい?」

「そうよ」

ユリアはなぜわかってくれないのかというように強くそう言った。

「似ているものだったんじゃないのかい?どうして僕達の持っていたやつだってわかったんだい?」

「ずっと使ってきたやつだからわかるわ」

彼は少し呆れたようになって

「わかったよ。じゃあなぜ下の家にあるんだい?まさかゴミ捨て場から彼らが運んだとでも言うのかい?」

「知らないわ。あなたは気味が悪いと思わないの?捨てたはずのソファが二メートル下にずっとあったのよ。ソファよ?私達がいつも話して、テレビを見て、子供の名前を考えて、頬をこすりつけてうたた寝したソファよ」

「わかったよ。君はなにか下の人に言ったのかい?例えばそれは私達のものだとかそういったことをさ」

彼女はずっと頭を抱えて彼のことなど見てもいないにもかかわらず、彼はジェスチャーを交えて話していた。

「何も言ってない。ただ怖くなって早くそこから出たいって思っただけ」

正直彼としては捨てたソファがどうなっていようと知ったことではなかった。仮に妻の言ったことを信じたとしてもそんな捨てたソファのことで隣人といざこざを起こすのも住みづらくなるだけだと思ったし、彼女も数日もすれば忘れるだろうと思った。

「コーヒー飲むかい?一回落ち着こうじゃないか」

彼は帰ってきて早々とんだ災難に見舞われた気持ちで、むしろ疲れがどこかに消えてしまったように感じ、こんな状況下でも寛大な気持ちで妻やソファのごたごたをまとめようとしている自分に自尊心を抱いてすらいた。ここで彼が取り乱せば、誰も舵を取れなくなることは彼には充分わかっていた。

彼はテイクアウトの中華料理を食べながらキッチンテーブルでビールを飲んでいる。ユリアのためにコーヒーも作っている。中華料理の酸っぱい臭いと鼻を突く安ビールの匂い、空気に色を付けるかのように優雅に漂う珈琲の匂い。どう考えても理想的な夜ではない。彼はもし彼女が少しでも安心するならと思い、彼女が風呂に入っている間、廃棄物処理業者のチラシを見つけるために古紙の山を漁った。ちょうど一、二ヶ月前にもポストに入っていたような気がしたのだ。彼はもし彼女が見たものが本当だったらと思いを巡らせた。夜中にゴミ捨て場から捨てられたソファを運ぶ親子。そんなことを子どもとするだろうか?なぜ父親はいなくなったのか?生活に困っているのだろうか?しかし、彼としては彼女のように怖れるよりかはむしろ自分のごみが人の役に立っているという楽天的な気持ちでいた。そもそも新しいのを買おうと言い出したのは彼女の方だ。なぜ女はああまで急に神経が高ぶるのだろう。まるで幼いころに虐待にあった子供のように彼女は視界に映る全てを、光までもを怖れるように腕で顔の周りに壁を作り、髪でカーテンのように自分の神聖な領域を守っているようだった。彼は最後のエビの尻尾を歯で噛みちぎりべたべたになった容器に投げた。チラシを探すのを諦めて、たばこに火をつけた。

彼女は黙って足を曲げて床に横すわりをし、髪を乾かしていた。彼女の後ろ姿を見ながら彼はもう一本たばこを吸った。彼はダークグリーンのソファを買った時のことを思い出していた。ちょうど二人が一緒に生活を始めた時に買ったものだった。彼はローソファがよかったが、彼女の希望で深めに座れるハイソファを選んだ。決めるのに何軒も家具屋を回り、結局ギターを見にリサイクルショップに行った時に見つけたものだった。売り場の物陰から彼を呼ぶ彼女の声がして、どこにいるかわからなくて彼女がいない通路を何度も探した。彼女を見つけた時にはなぜ彼を呼んだのかすぐにわかった。それは彼らにぴったりのソファだと彼にもすぐにわかった。それを車に運んだ後、運転席と助手席に座りたばこを吸った時、彼女はすごく満足そうな顔をしていた。まるでずっと行きたかった場所の景色を見ているかのようだった。

彼女は子供にきちんと布団がかかっていることを確認してベッドについた。彼は雑誌をなんとなくぱらぱらめくっていた。

「あなたはなんとも思わないの?」

ベッドの背に枕をもたせかけ頭を起こして雑誌を見ていた彼に彼女は覗きこむようにして聞いた。

「ほんとうに僕達のものだったのかい?なんで下の人達が持ってるのかわからないし、そんなごみを盗んだりする人たちに見えたのかい?」

彼女は彼の無関心さとまるで信用していないような言い方に腹が立った。

「だったら自分で見てきたらどう?」

「僕は正直、捨てたものが人の役に立ってたらいいと思うけどね。だって捨てたんだからもう僕達のものじゃない」

彼は挑発的な言い方をされ、反発的に当然の正論を言っているという風なドライな言い方をして苛ついたことを隠そうとした。そして彼女の顔を見ていた目を雑誌に戻した。

「あなたには繊細さってものがかけてるわ。捨てた雑誌じゃないのよ。ソファよ」

彼女は彼を責めるような言い方だが目は虚ろで背が丸まっている。

「そんなに大事だったら捨てなきゃよかったじゃないか。君がいらないといったから捨てたんじゃないか」

彼は雑誌を閉じて床に投げ、枕を元の位置に戻し、そこに肘をついて手の甲で頭を支えた。

「そういうことを言ってるんじゃない。他人が使ってるのが嫌なのよ」

「だいたいリサイクルで買ったんだから僕達だって他人が使ってたものを使ってたんだよ」

「誰が使ってたかわからないじゃない。それに持ち主だった人は次の人が使うためにリサイクルショップに持って行ったのよ。けど私たちはそうじゃない」

彼女は一向に毛布に入ろうとせず、両足を曲げてベッドの上に座って彼を見下ろしている。

「じゃあ君はどうしたいっていうんだい?階下の人に文句を言ってそれを取り戻したいのかい?」

「そういうわけじゃない。あなたなら同じように感じてくれると思っただけ。がっかりだわ」

そう言い彼女は壁のほうを向いてベッドの端に横になった。彼はなにを言うべきか考えながらベッドライトの紐を引っ張り仰向けになった。彼女は知らず知らずのうちに彼が遠くなってしまったことを暗闇の中、壁に向かい声に出さず嘆いた。彼は言うべきことを考えつつもそれが見つからず目をつぶり、言うことを見つける前に眠ってしまった。彼女は故郷の風景を思い浮かべた。知った顔、知った店、知った道、知った音。

トーマはトーストにバターを塗った。昨夜読んでいた雑誌を読みながらコーヒーを飲んだ。アンは彼の膝に乗って少し砂糖が入ったスクランブルエッグを食べている。キッチンの窓から日が入ってきて皿が半分照らされている。窓枠に置いた植物が日を浴びていきいきとしている。ユリアはまだ起きてきていない。昨日は疲れたであろうから彼は妻を寝かせてやった。休みだから急ぐこともない。朝食の食器を彼が洗っているとアンは彼の足に絡みついたりコアラが木にするようにしがみついたりした。それもすぐ終わり彼は子供に気を使ってベランダでたばこを吸った。外に出るとアンは窓を叩いて彼と交信した。彼は部屋の中からは見えない奥のスペースに引っ込んで数秒隠れて出し抜けに飛び出してアンを喜ばせた。父親の吐く煙が窓に広がって、視界が見えなくなってゆっくりとそれがどっかに消え、また父親の顔が見えてくるのが彼女には面白かった。彼はアンをソファにちょこんと座らせテレビをつけてやった。そしてまた彼は雑誌を開いた。

ユリアが起きてきたのは十時過ぎだった。昨日の出来事を引きずっているような、まるで天気とは相容れない顔をしている。髪はぼさぼさで彼にとって外見から魅力といえる点は一つも見つからなかった。彼女は何も言わずにキッチンの椅子に座りコーヒーを入れた。彼はユリアが起きてきたことに気づいたが、なにそれとなく視線をやって、また雑誌に目を戻した。アンはおとなしくテレビを見ている。いままさに何かをテレビから吸収しているようだった。彼女がライターで火をつける音が聞こえたので、彼は子供が近くにいるんだからベランダで吸うように言った。彼女はなにも言わずベランダに出て行った。そして戻ってくると

「ほんとうに嫌じゃないの?」

と聞いた。彼はあきれて

「こんな天気がいいんだから一回忘れてみたらどうだい?」

と言った。

「そんなにすぐに忘れられたら苦しまないわ」

彼は彼女が苦しいと言ったことに対して悲劇的に物事を捉えがちだった子供を生む前の彼女を思い出した。

「一年ぐらいなにもなしに暮らしてたんだから、僕らが気にしなかったらなにも問題じゃないじゃないか」

「私ちょっと出かけてくる。こんなところにいたら病気になるわ」

「君は悲劇病だよ」

小さな声でつぶやいたので彼女には聞こえなかった。

「どこに行くの?」

妻は紺のスカートに白いシャツを着てたばことライターを鞄に入れようとしている。化粧も一応施されていたが、チークが目つきやそこから生じるはずの覇気とは調子外れに浮いていた。

「わからない」

「何時くらいに戻ってくるんだ?」

「わかんない」

「ちょっと散歩して頭を冷やしてくるといいよ。アンは僕が面倒を見ておくから」

「わかったようなことを言わないでよ」

彼女は靴をはいて躊躇いもなくドアを開けた。地上についた時に階下の住人を確認するために染みのついたコンクリートを見上げたが、そちら側の窓は黒いカーテンがかかっていて中の様子は全くわからなかった。なにか知られてはいけないことを隠そうとするがために黒いカーテンが選ばれ、それが閉めっきりになっているようだった。

電車にのっている時に彼女は階下のことについて考えずにいられなかった。電車のドア付近に立ち窓の外を見ていた。不気味な湿っぽさのある嫌な子どもと変に気取った女がダークグリーンのソファに座っている。半袖のTシャツを着た子供の腕は素肌がソファに触れている。母親はソファに深くもたれ、髪がソファのクッションに広がっている。彼女の一部だった何かが他人に侵食され、彼らの落とす髪の毛などが彼女が落としたものと交じり合う。電車がトンネルに差しかかり、見ていた景色がグレーの壁に変わった瞬間、彼女は自分の彼らに対して抱いている感情に気づいた。それは憎しみだった。床を拳で突き破り、天井から髪を引っ張ってやりたいほど愚直で荒々しい憎しみだった。彼女が知っているソファはもうない。彼らによって彼女の持つはずだった思い出は変えられてしまった。椅子に座る老婆や中年男、私立の制服を着た小さな男の子、全員が敵に見え冷たい目をしているように見えた。彼らは生活の中で笑ったり、泣いたりすることがあるだろうか?何かに喜びを見つけ、困っている他者を助けるような精神を持っているような人間だろうか?鉛のような重く暗いたくさんの目と、椅子に座りつつもきちんと背が伸びている姿勢、無情な電車の音が彼女の敵対心を煽る。電車の奥の車両に目をやるとつり革が合わせ鏡のように規則的に弧を描きながら並んでいる。それが彼女に不安をつのらせた。

クロワッサンをかじると滓が膝に落ちた。コーヒーとミルクが混ざり合ってなくマーブル模様になっている。逃げるようにコーヒーショップに入った。トイレが使用中であることを示すランプは光りっぱなしだ。斜め前に座っているウィンドブレーカーを着た中年の男はずっと貧乏ゆすりをしているが顔は涼し気である。二人の老人が隣に座っている。そんなに大きいようには見えないのに二人は椅子から尻がはみ出ている。二人とも似たような格好をしていて、一人はベージュ色のシャツに釣り人のような帽子をかぶっている。もう一人は水色のギンガムチェックのシャツでグレーのハンチング帽をかぶっていて、茶色いべっ甲の縁の眼鏡をかけている。そして二人とも黒のベルトをしてシャツをそこにたくし入れ、限りなく黒に近いが黒とはいえない色のズボンを履いている。眼鏡をかけている方が言った。

「病院には行ったのか?」

釣り人帽が言う。

「あぁ行ったさ」

「で、診断されたのか?」

「癌じゃないってさ」

しかし顔は曇ったままだ。

「よかったじゃないか」

相手を探るようにして眼鏡の方が相手を丸め込むように顎をしゃくって言う。

「けどな」

片ひじをついて下から顔を上げた男の目はたるんでいるが鋭く、相手に不安を与える。

「なんだよ?」

眼鏡の方は自分になにか不幸でも起こるように身構えている。体は斜めを向いて片手は椅子の背もたれを掴んでいる。まるですぐに飛び出して逃げてしまいそうな姿勢だ。

「この病気にあなたの名前がつくことになるかもしれませんってさ」

二人は途端に風船が割れたのが合図と言わんばかりに笑い出した。口を大きく開けて顔を真赤にしている。ユリアは久しぶりに他人の会話に耳を傾けたような気がした。

眼鏡の方が言う。

「この前女房が俺にズボンを買ってきてくれたんだよ」

「とうとうお前は自分のズボンも選べなくなったか」

「うるせい。だけどなそのズボンにファスナーが付いてなかったんだよ。だから俺は言ってやったさ。どうやって用を足すってんだ?こんなズボンはいてってさ。そしたら女房は『あれ?あんたまだあそこにぶらさがってるのがあるのかい?』って言いやがんだ」

二回目の風船が割れた。ユリアはなんとなく恥ずかしい気持ちになりながらもほんの一瞬の間今までのことを忘れ、彼らの話に耳を傾けた。

釣り人帽がまた話し始めた。

「最近女房と話してたんだよ。俺らもそろそろ準備したほうがいいんじゃねえかって」

「そんな準備もなにもねえだろう」

眼鏡の方は椅子にふんぞり返って大げさに呆れたように相手に見せる。ユリアは彼が伸ばした足がほとんど当たりそうになった。

「けど結構箱に詰めるといっぱいあるんだよな。どうやって処分すればいいか」

釣り人帽は腕を組んで目を細くして困っているが、弱っているというよりかはいらついているというふうに見える。

「なにもそんな準備まだ早いだろう。お前まだしっかりしてるぞ」

眼鏡の方はさっきよりも声を落として真剣に言ってるように聞こえる。

「なに言ってんだよ。引っ越すんだよ。近場だけどな。新しくてきれいなのができたんだよ」

また風船が割れた。眼鏡の方はロッキングチェアのように体を前後に大きく揺すりながら「この歳で引っ越しするなんてお前も落ち着かないやつだな」

と言いほとんど嬉しそうに笑っていた。

ユリアはいつも彼らはこの調子なのだろうか?彼らの触ったら柔らかそうなたるみきった手の皮膚の皺の深さや黄色っぽく黒ずんだ爪、そんなものを見ながら彼らが経たであろう人生を夢想した。彼らが家の壊れたところを修理しているところ、初めて車を買って得意気に友人に自慢するために、立っている友人の横に停車するところ、寝起きに新聞を取りに行くところ。ユリアは見ず知らずの他人に思いを巡らせることで、彼らに近づこうとし、すがろうとした。自分がそこに出し抜けに倒れた時に飛び上がって助けてくれるところを想像した。そして、なぜでそんなことを考えなければならないのかと馬鹿らしくなりコーヒーを一口すすった。

店員が通るたびに彼女だけに視線をやらないようにしているように感じる。店員は彼女から遠い席からテーブルを白い布で拭き始め、ニ、三終えたところでどっかに行ってしまった。階下の女がドアの覗き穴からユリアが自分たちの部屋がある上の階へ上って行くのを見ている。子供は椅子に膝を立てて座り真っ暗の部屋の中、テレビの光が顔に反射し鼻の穴から蟻が出てきて耳に入っていくのに微動だにしない。トーマは先の見えないトンネルのようなよく反響する闇へ革靴の音を響かせ一歩ずつ遠ざかってしまう。アンはくったくのない笑みで小さな観覧車のようにユリアの頭のなかを浮遊ながら回転している。しかし、それは距離を感じる笑みであり、意思を通じさせることは出来ないように思える。故郷を思い出してみようとしたが、新しく建ったビルばかりが思い出されてかすかに昔の建物を思い出しては、新しいビルが上からかき消す。気づいた時には老人たちがいなくなっていて若い女が細いたばこを吸っていた。何に対しても満足をしないような冷たい顔をしている。静電気には無縁のように見えるまっすぐおりた長い髪が余計にその印象を強める。ほっそりとした体型で長身のように見えるがハイヒールからかかとを出しているおかげで少し怠慢に対する妥協が見受けられるが、むしろそれが彼女の女性的な脆弱さを引き出していて、最初の印象よりいくぶん柔らかく見える。スケジュール帳のようなものを見て、視線はどこに留めるでもなく空中を漂っているように見える。手帳のカバーのビニールのポケットに映画の半券がささっているのをユリアは発見した。もう何年も足を踏み入れていない映画館に行ってみよう。そうユリアは自分に提案したが、本当にその案に賛成したい気持ちは映画を見たいからではなく、単に暗闇でまばらにちらばった他人の気配を感じながら、映画の音と映像に身を任せ深くシートに身をもたせかけたいからであった。彼女はトイレのランプに目をやって、口に最後の砂糖の溜まったコーヒーを含んだ。

映画が始まるまでまだ二十分あった。鉄パイプの椅子に腰を下ろし、売店の横の待合室のようなスペースで劇場が開くのを待った。なんとなく壁の映画のポスターに目をやってそれは近日公開されるものではなく、かなり昔に公開されたものだと気づいた。よく見るとセロテープが熱に溶かされべたべたしている。ユリアの後ろには若い男と女が座っていて、彼女の耳には会話らしいものはなにも聞こえてこない。そこに座る前にユリアが何気なく目をやった時には、二人とも本当は他の用事があったのに、仕方なく互いに付き合ってやってるように見えた。ユリアは普段見ないような天井の角や非常灯、床の模様などをしっかり意識して見た。そうやって時間を潰した。劇場のスクリーンはお世辞にも豪勢といえるものではなく、かなりこじんまりとしている。もともとその映画館では劇場は二つしかなく赤と青のいろで二つの劇場を分別していた。ユリアは二つある選択肢のなかで、単に赤が好きだという理由で古いフランス映画を選んだ。席数は八十席あるかないかぐらいで八列ぐらいあるが、ユリアが座った後ろから二番目の列から見渡すかぎり、見える頭は六つ程だ。映画は特に印象的な音楽もなしに汚い通りで始まり、もうすぐ二十になると見える青年が老人の落としたパイプを水たまりの泥水で洗ってからポケットに入れるシーンで始まる。その青年は通りを歩きながらずっと独り言をつぶやいている。なにかに気が立っているようだ。なにをして生きればいいのかわからなくなった青年といったところであろうか。悪い仲間とつるんでは青二才っぽい哲学的な話をし、たばこの煙を口と鼻の両方から吸っている。映画はずっとそんな調子だった。彼女は何度も寝ては起きてを繰り返し、けどいつみても同じ人々がカフェや誰かの家などに座って話をしているだけだった。映画が終わった頃、寝すぎたために口に中に粘り気を感じたため、またなにか飲む必要があると考えた。

タクシーに乗り繁華街に向かった。ほとんど日が落ちて暗くなっていた。ユリアは街の中心にあるギリシャ神話に出てきそうな布をまとった人間の姿をした銅像の広場のそばで止めるように言った。運転手は少し禿げ上がった親切そうな男で、ユリアに遠くから来たのか?と尋ねた。街のシンボルのような人々の集合場所に止めるように言ったからであろう。

「最近来たわけじゃないけど、そうよ」

曖昧な返事に運転手はちょっと当惑したが、当り障りのない返事で様子をうかがおうとした。

「この場所は気に入りましたか?」

「あまり気に入ってないわ、正直。けど街に行くのは久しぶりだから」

運転手はバックミラーでユリアを確認しながら、どこかもどかしいこの会話を相手の表情からなにか読み取って自分のペースに引きこもうとしている。

「人が多いところは嫌いですか?」

ユリアから斜め前にいる運転手の顔の左側が見えて微笑している歯が見えている。

「そういうわけじゃないんだけどなんか馴染めない気がするんです。私の故郷と違って近所とも仲良くないし、知り合いだっていないんです」

ウインカーの音が彼を返答を考えている間の沈黙を埋める。

「そうですねえ。関わることもそんなにないからね」

ラジオではカー用品店のCMや飲料水のCMが流れている。

「仕事で来たの?」

先程よりも親近感を持って運転手は尋ねる。

「いいえ、結婚してこっちで住むことになったんです」

特に感情を込めないように意識的にユリアは言った。

外を見るとバーの外まで人があふれていて、男たちがビールのジョッキを持って楽しそうに話をしている。通りを歩く若い男と女のグループは大げさに手を上げたり、一人が少し早歩きをしてグループの先頭に行き、向き直り他のメンバーの注意を集めてなにか言い、それを聞いたあとの者たちは腹を抱えて笑っている。

車が信号で止まると、故郷を思い出して寂しくなったりするかい?と運転手は聞いた。

「毎日思い出そうとするんだけど、もうあんまりうまく思い出せないんです。そっちもそっちでいろいろ新しくなって私が小さかった頃とはずいぶん違うから」

「僕もそうだよ。親が転勤ばっかしていたから二年以上同じ土地に住んだことなんてないんだ。だからいつも言うんだ。故郷がないからいつも車で一晩中あっち行ったりこっち行ったりしてるんだってね」

彼はその台詞が気に入っていたのか、ユリア以上に笑っていて哀しみを忘れたような男の笑い方だった。ユリアはそんな男に愛想笑いをそえてあげた。

金を払って車を降りた。人が多すぎて止められなかったので、少し手前でおりなければならなかった。彼女とは反対方向に向かってに歩く人々は彼女のことに目もくれない。ただ人は話をしながらどこかに向かって進み、彼女は一人でどこかに進む。男がぶつかって通り過ぎていった。黄色いジャンパーを着た作業員が広場を車輪のついた大きな機械で掃除している。バスカーたちは警察に囲まれて楽器をしまっている。彼女は少し歩いて小さなバーガー屋に入った。フライドチキンとフライドポテトを箱に入れてもらいテイクアウトした。それが入ったビニールの袋を下げて歩いていると途方もない考えが浮かんできた。それはこんなにも人であふれていて、たくさんのものを言う口、握手する手があるにも関わらず、自分が会話し、ふれあうことが出来るのはトーマとアンだけなのだ。といってもアンはまだろくに話すことすら出来ない。だとしたらたったひとり夫のトーマだけである。まるで異国にいるようである。しかし、決定的に違うのは彼女には皆の話す言語がわかるし、同じ習慣や同じ文化のもと暮らしているということだ。だが、ほんとうの意味で交流をするのはトーマだけで、それ以外は全てただの簡単な質問と応答である。いまでは家を飛び出した彼女はちっぽけなかけらである。蟻がドーナッツのかすを運ぶのと同じようにチキンの袋を持って地面を移動しているだけであって誰の目にも止まらない。残念ながら彼女はとびきりの美人でもない。蟻が匂いを頼りに巣に帰るように彼女は以前来たことがあるホテルの前にそれとなく歩いていただけで辿り着いてしまった。彼女はロビーに入って部屋をとった。シングルルーム、四階、四◯三。ぱりっとしたシーツの上に腰を下ろし、それから靴を履いたままそのまま後ろに倒れた。アンが心配になってトーマに電話をかけることにした。三コール目でトーマは電話に出て、言葉の尻から彼女がどうしてしまったのか知りたいばかりに受話器を耳に強く押しつけすぎている彼が脳裏に浮かぶ。

「大丈夫かい?いまどこにいるの?ずいぶん遅いじゃないか。アンはもう寝てるよ」

トーマは話したかったことを焦って全部口から出してしまった。

「私いまホテルに部屋をとったの。ここで今日は寝るわ」

静かな落ち着いた声で彼女は言った。

「なんでわざわざホテルなんかに泊まるんだ?いま一人?」

彼は前と同じように同じ質問をした。アンが生まれる前、彼と言い合いをしたあと、数回このホテルに泊まったことがあった。そしていつも彼女はホテルから電話をかけ、彼は同じ質問をした。

「一人よ。どうしても今日はそこに戻りたくないの」

彼女は懇願するように言った。しかし、昨夜の取り乱した感じというよりはもっと嵐が過ぎ去った後の荒廃した町の木や草のように根気をおられたような感じである。

「子供を置いてそんなところでよく悠々としていられるね」

彼は呆れてものも言えないといった感じで嫌な笑いをしてからそう言った。

「あなたが一日くらい面倒を見てくれたっていいじゃない。私は毎日二十四時間あの子と一緒なのよ」

「そんな言い方するなよ、それに君は」

「今日は戻らないから、ごめんなさい」

一方的に電話を切った彼女はすごく疲れを感じた気がして、またベッドに仰向けに倒れた。

彼が三つ目に言ったことは彼女は始めて言われたことだった。たしかに彼女は子供を家においてきた。母親が常にずっとそばにいるべきであろう。けど母親がくじけた時はどうすればいい?ホテルで過ごす夜が彼女にとってどれだけ特別で日常から離れた行為であるかを彼はどれだけ認識しているだろうか?彼は彼女のことを勝手で気分屋の感傷屋だと思っているだろうか?以前だったら彼女も彼の言うように悠々と出来たかもしれない。新品の歯ブラシが使えるし、床に使ったティッシュやパンが入っているような袋を落としても置ける。浴槽に水をためたって掃除しなくていい。だけどもうそんなふうに贅沢に感じることやいろいろなことから切り離され休むようなことは出来ないのだろうと彼女は認めざるを得なかった。彼女は起き上がり、窓の方に行き、街を見下ろした。まだ街は活動していて明るい。彼女は部屋の電気を消して、靴を脱いだ。そして、布団に入って外からの薄い光を頼りに時間の経ってしなびたフライドポテトを食べた。

2016.5.22

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