東京での生活をやめて、高知県は嶺北地域で2ヶ月間、生活することにした。

生活環境もやること(仕事)も、がらっと変わるけど期待も別になければ、不安も別にない。

崇高な目標があるわけでもなく、「なんかこのままやと違うな」って心の声に従ってみたら、気づけばそうなっていたって感じ。


期待でも不安でもない、熱。

期待や不安は別にないなんて言いつつ、やっぱり初めての場所に初めてなことをやりにいく移動の途中は、鼓動が高まるのを感じてまう。

それはやっぱりなんかを期待して、そうならないかもしれないって不安をどっかに感じてるんかもしれんな。

そやけどね、一つ、ええ発見をした。

「不安」ってのは、なんかをやる前に、先に考えるからそうなるってことを確信できた。

実際に動いてみたら、そんな不安なんて考えてる暇なんてないし、
初めて・未知に突入してみたら、目の前のことだけに真剣に向き合う「今」が生まれて、実に清々しい。

なんかうまいこと説明できんけど、とりあえず「生きてる」って感じがする。

何か新しいことをすると、絶対に想定外の事態になるやん?

やったことないことを、先に完璧に予測するのって無理なんやから。

日常の中やとつい、先を予測しようとして自分で枠を作り、その中でだけ動こうとしてしまう。
それがズレたらイライラしてしまう。

「新しいこと」においてはその想定外の事態を、初めから受け入れるベースが心にもうできとる。

何もないところに自分だけが居る。
新しい場所は、自分にとって真っ白なキャンパスのようなもん。

どうなるかわからない。そんな想定外のことを受け入れようとしている自分に起こる、「えっ!?」っていうような出来事はすべて、自分は今生きているんやと感じさせてくれる。

期待とも違うし、不安でもない。
なんて言ったらいいかわからへんねんけど、、、熱を感じる。

自分の人生だからこそ、コントロールを捨てる。

ちょっと矛盾してるみたいに聞こえるかもしれんけど、自分で自分の人生を生きようとするとき、そこにコントロールなんてもんは存在せやんのやと思う。

コントロールできてしまうってことは、誰かの敷いたレールの上を走っとるだけか、狭い狭いコントロールできる範囲にだけ生きとるような、
生きてるとは言えへん状態やと思うから。

コントロールしたいと願い、想定外のことを拒むその態度が、不安。

不安を感じている今その瞬間は、まだ自分の人生を生きれていない真っ只中なんかもしれへんね。

自分も自然の一部やねん。自分として生きるってことは、自分って存在を他の存在のもとに解放すること。

「自分の人生」ってもんを一回捨ててみることで、自分の人生が始まるような気がしている。

自分で自分の人生を生きようとするとき、それは自分の感覚とか心の声とか嗅覚とか、そんなんが反応する「わからないこと」に突っ込んでく。身体がまず先に動いている。

自分で未知なことを選択する。

自分の人生を生きるってそういうことなんやと思う。

東京から高知に向かう特急電車の中でそんなことを思った。

きっと誰かに強制された未知なことほど、不安に感じることはない。

東京から新幹線で岡山に向かい、そこから南風号っていうローカルな感じの特急電車へ。

たった3両しかなく、お世辞にも良いとはいえない座席の固いシートに揺られながら、思考はフル稼動しとった。

もしこれが例えば会社の命令とか、なんか行かなあかん理由があって、その理由に自分の感情を押し殺してしまった移動やったなら、
ほんまに不満と不安たっぷりの時間になっていたやろな。

せやけど今回の自分は、間違いなく【自分】として、このようわからん状況を、衝動のままに選択してた。楽しんでいた。

なんもやることがない車内。揺れがひどくておまけに座席も固いからちょと身体が痛い。特急電車のくせになんか遅い。

そんななんの意味もない無駄な時間が最高に愛おしかった。

自分が選んだ無駄・無意味な時間にこそ、自分が始まる。