津波から10年:バンダアチェに学ぶこととは?

HANDs! PROJECT
HANDs! MAGAZINE 日本語版
9 min readApr 6, 2016

スタディツアーinインドネシア2015/2016

Tristan Nodalo (HANDs! 2015/2016年フィリピンフェロー)

津波博物館の展示物に見入るフェロー

2004年12月26日、スマトラ島の西海岸沖で発生し、リヒタースケール上でマグニチュード9.1を記録した地震により、大津波が引き起こされ、高さが30メートルに達するものもあった。これにより、推定23万人が死亡し、11か国で沿岸地域の町や村が破壊された。

スマトラ島の最北端に位置し、海に囲まれたアチェは、津波により被害を受けた地域の中でも最悪の被害を受けた。災害は13万人の命を奪い、さらに50万人が住む場所を失った。豪雨により全世帯が押し流され、この州の沿岸部の地形は極端に描き変えられた。

州都であるバンダアチェは、ほとんど地図から削除された。

人間と自然が戦えば必ず自然が勝つということが世界に証明された日、この運命の日を覚えていたい人はいない。

被災地再訪

昨年、近隣アセアン諸国における防災教育の強化を図るため、国際交流基金アジアセンターは、Hope and Dreams プログラム (HANDs!) を始動した。プログラムの最終的な目標は、アセアン全域のさまざまなコミュニティーで用いることができる、災害に備えるための防災教育活動を策定し、導入することである。

今年のHANDs! プログラムは、2004年のインド洋大津波の被災中心地であるインドネシアのバンダアチェを訪ねることから始まった。

バンダアチェの津波が襲来した浜で当時の話を聞くフェロー

「私がここに到着した時には、誰もがまだ、遺体の収容を続けていた。」と、HANDs!の2015年フェローであり、津波の1週間後にバンダアチェに到着した米国赤十字のボランティアとして活動した経験を持つIbnu Mundir は語った。

「生存者への支援は困難で気の遠くなるような仕事だったので、人々はどのように進めればよいかわからず、そのことについて具体的に考えてはいなかった。誰もが、ただ困惑していた。」と彼は語っている。Mundir は、津波発生後のアチェにおける人々の奮闘と苦悩を目撃している。

真剣な表情でIbnu Mundirの話を聞くフェロー

その日のランプク・ビーチは息をのむように美しく、穏やかだったが、Mundir は、生存者から聞いた、海水の壁が耳を突き刺すような音を立てて木々や家々、建物、命、そして夢を押し流した時の話を今でも正確に思い出すことができる。

また、HANDs! のフェローたちは、津波関連の重要な被災地跡をいくつかアチェで訪ねることができた。その1つが、津波の猛威によって押し流された2,600トンの発電船PLTD Apung 1である。

津波よって押し流された発電船PLTD Apung 1も訪問した

フェローたちは、さらに、強力な津波の襲来にも持ちこたえたいくつかのモスクを再訪する機会を得ることもできた。

アチェの人々は、それらのモスクは災害のさなかでも揺るがない彼らの信仰の証であると信じている。

チェ州はインドネシア国内で唯一シャリア(イスラム法)が適用されており、イスラムの教えに厳格。女性フェローは髪を隠してモスクを訪問した

より良い形での再建を

2004年のインド洋大津波は、当時最大規模の人道的活動をもたらした。復興・復旧を支援し、当時発生していた人道的緊急事態に対処するために、国際的な援助が投入された。最終的には住宅の再建と生活の復旧のために、総額で約70億ドルの支援の申し出があった。

荒廃がひどかったことで、30年近くにわたり、対立していた、この地域における内戦の終結への道も開かれることとなった。

津波に押し流された警察のヘリ

津波襲来の直後、自由アチェ運動 (GAM) とインドネシア国軍は、支援が生存者に行きわたるようサポートするために停戦を宣言した。8か月後の2005年8月には、双方がついに、およそ1万5千人の命が犠牲なった対立を終わらせる平和合意に署名した。

また、津波の発生がきっかけとなり、インドネシア政府は法律を見直し、防災教育、災害への備え、および災害の軽減に関する法律を通過させた。

今バンダアチェを歩いてみると、津波災害から10年が経過し、人々の生活が既に再生したことがはっきりとわかるが、アチェの人々が体験した痛みや悲しみ、喪失感が癒えるまでには、かなりの時間がかかるだろう。

風変わりなツーリズム

2004年のバンダアチェ津波災害から学ぶことは、最もつらい作業でもある。

Mundir はHANDs のフェローたちに、バンダアチェにはかつて「津波」という単語はなかったと述べた。大惨事が起こった後、インドネシア政府は、津波災害の軽減・研究センターである津波博物館(Tsunami Museum) の建設とアチェ州内の津波関連の被災地跡の保存に着手した。

津波博物館で生存者から当時の様子をヒアリングするフェロー

最初に、政府とアチェの人々が災害ツーリズムというアプローチがよいアイデアであるかどうかについて議論したが、結果として、災害ツーリズムは、2006年の津波災害の痛ましい経緯を思い出させるだけでなく、アチェの人々の回復力も強めることとなった。

バンダアチェでの体験

数日間にわたってバンダアチェの豊かな文化や歴史、コミュニティーにどっぷりと浸かった後、HANDsのフェローたちは現地NGOティカール・パンダン・コミュニティーでワークショップを実施する機会に恵まれた。

TV eng-ongメソッド(テレビを模した枠の中で番組を演じながら防災教育を伝える手法)を 創った劇団が参加し、HANDs!プログラムのインドネシアにおける行程の締めくくりとして、フェローたちは、アチェのコミュニティーに伝わる表現方法でTV eng-ong パフォーマンスを行うことになった。

TV eng-ongメソッドの練習をするフェロー

HANDs!のフェローたちによるTV eng-ong パフォーマンスに対する観客の反応はとても良く、フェローたちは後日、この方法がHANDs!の代表団が創造的で、人々に興味を持ってもらえる、対話型の防災アクションプランを立案する上で有効な方法の1つになるという見解に達した。

アチェの地元コミュニティーでTV eng-ongメソッドを披露
子供が興味深々に見入っていた
子供も一緒に演じてみる
TV eng-ongメソッドを終えた後、子供と記念撮影

2004年にバンダアチェで津波被害が発生した当時、私はまだジャーナリストではなかった。今回再びバンダアチェを訪れ、生存者から直接話を聞くことにより、私はようやく自分がジャーナリストであると感じることができた。バンダアチェが完全に復興しつつあることを知り、とてもうれしい。私は、アチェの人々が元気を取り戻し、暮らしを立て直し、再び夢を持ちつつあることを知って、感動した。

市内を回ってみて、バンダアチェの津波災害という経験を受け入れることは、アチェの人々にとって、それまで経験したことのない、最も困難な出来事であったのだと思う。

私たちが災害について話す時、それはしばしば、想像を超える破壊が何千人もの命の犠牲を伴って起こることを意味する。しかしながら、経験を重ねるうちに、私たちは自然災害に対して、常に備えることができるようになるものなのだ。

日常生活の中で、私たちは皆、さまざまな問題のために奮闘し、勇気をくじかれることがある。そして、問いはいつも変わらない-この問題にどのように対処すればよいのか?

災害の発生によって、私たちはより強くなり、回復力を持ち、一致団結する。

こうして、勇気を持つことにより、私たちは前進するのだ。

実際、お金なしで生きることは困難である。食料なしで生きることも難しい。しかし、希望を持たずに生きることはさらに困難である。

津波を知らない世代も育ってきているアチェでは防災教育の拡充は必須である

*この記事は、2015年度HANDs!フェローであるTristan Nodaloさんによる寄稿文です。

*記事中の見解は個人的見解であり、HANDs!プロジェクトとしての立場を表明するものではありません。

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