生活保護」がなければ、僕は死んでいた。僕が公務員を志したワケ。

西村創一朗
HARES MAGAZINE
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4 min readMar 4, 2016

僕は中学生の頃から、公務員になりたい!!という思いを持ち続けてきました。理由は単純明快で、行政という側から日本をデザインして、少しでも社会を良くしたい、それを通して国や自治体に恩返しをしたい!

ただそれだけの理由でした。

と言うと「どんだけ意識高い系かよ」と引かれかねないのですが、そんな大層なもんじゃないです。

その原点は僕の家庭環境にありました。

社会に恩返しがしたい。

僕の家庭環境は、お世辞にも恵まれてるとは言えませんでした。

小6の時に、父親のDVが原因で両親が離婚。

妹と2人と母の3人で逃げるように自宅を出た小6の夏の日。あの日のことは今でも鮮明に覚えています。

夜逃げならぬ昼逃げですね。

しかし、母親は専業主婦だったため、かれこれ12年以上、働くことから遠ざかっていました。また、DVの影響で、心身ともにボロボロでした。

職歴も学歴もない母親を雇ってくれるところなんてほとんどありませんが、某大手生命保険会社の営業として何とか就職ができました。いわゆる保険レディです。

ただ、当時その会社の保険レディの仕事は完全フルコミッション。最初は家族や親戚から数件は契約を頂けたもの、その後はさっぱり。そもそも営業なんて向いてる人じゃないんです。

働けど働けど、週に6日も7日も働いていましたが、全く収入は増えません。それでも、子どもが3人もいればどんどんお金は出て行きます。キャッシュローンで借りたお金はあっという間に300万円を超えました。そしてその頃、ついに母親が倒れました。

障害者認定をされるほどの、重度のうつ病でした。

「このままでは、家族全員が路頭に迷ってしまう」

主治医の先生は、精神科の名医で、人助けに熱い方でした。

先生が「生活保護に入りなさい。そうしなければ、子どもたち全員が路頭に迷うことになる。」とアドバイスしてくださり、手取り足取り手続き方法を教えてもらい、何とか生活保護によって一命を取り留めたのでした。

「生活保護叩き」はその当時からもずっとありました。「2ちゃんねる」で「ナマポ」叩きのスレを見るたびに、陰鬱とした気持ちになりました。

でも、それを変えてくれたのが、中3のとき、担任の先生が贈ってくれた言葉「国が自分に何をしてくれるのかではなく、自分が国に何をできるかを問いたまえ」というケネディ大統領の就任演説の一節を聞き、「生活保護を受けて何とか生き延びることができたのだから、僕を支えてくれた社会に恩返しをしたい」と思うようになったのですね。

高校に入ってもその思いは変わりませんでした。

とはいっても「何が何でも公務員になってやる!」

というほどの強い気持ちではなかったので、

「政治」とか「行政」とか「法律」について、

あまり勉強はしていませんでしたが、大学受験では「法学部」を目指して勉強をしました。

本当に官僚を目指すのであれば、東大法学部に入るべきなのでしょうが、そんなポテンシャルはあるはずもなく、首都大学東京(旧:東京都立大学)の法学部へ。

大学に入ってからは、「社会への扉」に近づいたということもあって、「政治」「行政」「法律」の勉強をするようになりました。

特に大学1年の9月、妻と結婚して以来はさらに思いは強まり、

試験をパスするためには「今何をすべきか?」ということを思いめぐらせました。

そこで気づいたのは、

・1年生(当時)の今から勉強を始める必要はないこと。

・実際に公務員として仕事をしている人の話を聞いてみる必要があること。

・公務員の取り巻く社会環境について、もっと知る必要があること。

ということでした。

そこで早速行動を開始!

しかし、その結果、「公務員になりたい!」という僕の夢はすっかり消えてしまう事になったのでした。

次回予告。

「公務員を志していた僕が公務員になるのを辞めたワケ」

「読んでみたい!」という方はぜひレコメンド下さい。50人以上の方から「レコメンド」を頂いたら、「ニーズ有り!」ということで続編を書きたいと思います。

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西村創一朗
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HRマーケター/複業研究家。30歳@三児の父。2015年6月、リクルートキャリア在籍中に「二兎を追って二兎を得られる世の中をつくる」というビジョンを掲げ、株式会社HARESを設立し、代表取締役社長を務める。NPO法人ファザーリングジャパン理事