建築の葬式
葬儀「五号館を聴く」を体験して
日時:2018年9月15日(土)17:00~
場所:日本大学理工学部五号館
建築は生まれてからすぐ、生みの親である建築家の手を離れ、その地域や利用者に育てられる。姿かたちや機能は建築家の裁量に委ねられているが、その最期が設計されることはあまりない。たいてい、新たな建築の誕生の陰でひっそりと取り壊されていく。
こうした状況の中で、生涯を見守られてきた幸運な建物がある。
日本大学理工学部五号館である。
2018年9月15日(土)、「建築の葬式|終わりの時間 始まりの時間」が開催された。1959年7月に竣工し、以来約60年に渡って教員や学生たちを見守ってきた日本大学理工学部五号館の解体に際し、 弔いの意味を込めて「建築の葬式」を執り行われた。
ここでは、その式次第のうちのひとつ、五号館の声を聴きながら彼/彼女を弔う「葬儀『五号館を聴く』」について、私と五号館との生前の付き合いを思い出しつつ、感想を述べようと思う。
ひとことで言うと、これは、葬式なのだろうか。
<私と五号館の関係>
ここには何度か訪れたことがある。
最後に訪れたのは昨年の暮れだっただろうか。同大学の友人から、この建物の余命が残り少ないこと、新しい棟が建つことを聞かされていた。そのときは、ふーん、としか思わなかった。
私にとっての学び舎ではなかったから、特別な感慨もなかった。
建築の葬式展が開かれると聞いて、その詳細を見てようやくこの建物の名前が「理工学部五号館」なのだと知ったくらいだった。
インスタレーションは屋上から始まり、地下で終わる。
ガイドの方に屋上までエレベーターで案内してもらい、屋上に着くと「声」が語りだす。自身の生い立ち、取り壊しが決まった経緯…少し高めの落ち着いた「声」が部屋に響く。それを友人と数人の見知らぬ参列者と聴きながら、少し居心地の悪さを感じていた。
この建物の名前すら、つい先日知ったばかりの私が、神妙な面持ちでいるこの人たちと同じ空間にいていいのだろうか…。
聴き終わると、ガイドの女性がこの先の順路を教えてくれる。
<空間の声>
「研究室」の声。
大きな開口部から染み込む光。つるりとした表情のない壁。落ち着いた配色のタイルカーペット。ぽつんと取り残された室内機。
がらんどうの中で響く「声」。
ここで研究を行ってきた数多の学生たちを見届けてきたという。
「柱」の声。
ここには、去年の卒業設計発表会で訪れた。学生のざわめきとマイクで拡散される教授の声。慎重に、しかし慌ただしく模型を運ぶ4年生たち。熱気に満ちた空間。
それが、今は何も無い。
名残惜しそうに壁や柱を撫ぜる人や、配管のあたりから小さく漏れる五号館の「声」に耳を傾ける人が感じているだろう悼みの欠片を、このとき初めて共有することができた。
「免振層」の声。
五号館竣工から49年が経過した2008年に、歴史的外観の継承と耐震性能の向上の両立を目指した改修が行われた。その結果、耐震改修に対しては、1~2階のフロント吹き抜けの彫刻を保存するために、3階で躯体を切断する中間層免震が採用された。
写真上部を横切る白い筒状のものが、地震の揺れを低減する「ダイナミック・マス・ダンパー」である。壁面上部の複雑さが、継承と改善の難しさを物語っていた。
部屋の片隅には、撤去の期日を過ぎ、「廃棄処分」の赤いシールが貼られた学生の私物。その上に「すてないで下さい 」と懇願する書置きが。この空間だけ、人の気配を感じさせる生々しさを放っていた。
「スライド室」の声。ここでは五号館の「声」は語らない。
代わりにマイクを握るのは、磯崎新、レム・コールハース、菊竹清訓、槙文彦といった、過去にレクチャーを行った著名な建築家たちだ。
5号館と共に歳を重ねた椅子と共に、講義を聴く。少し埃っぽい教室の匂いと、整然と並べられた古い椅子。それらは、日本で学校生活を送ってきた者のおそらく大半に懐かしさを想起させるものだった。
<彫刻の声>
「レリーフ」の声。
広場的な性格を持つアーケード吹抜け部と、壁面いっぱいに展開されたプレキャストコンクリート製のレリーフ。
周りには雑居ビルや大学が林立し、すぐ外を公道で囲まれたこの敷地で、大学生活を潤いのあるものとするために、エレベーター・コアの一画に半屋外的な吹き抜け空間が設計された。
ここは、待ち合わせ場所や語らいの場所として愛されてきた場所であり、今回の葬儀では参列者を受け入れる場所としての機能を果たしている。
躯体と同じコンクリートでつくられたレリーフは、壁面から浮き出てきたような印象を与える。2階部分にも途切れることなく連続し、建築と完全に一体化した作品となっている。
<基礎の声>
「基礎」の声。
五号館の「声」を聴くのは、この階が最後だ。
夜遅くまで研究を続けて帰宅する学生や教員たちを懐かしむ「声」。非常灯のみが付けられた薄暗い空間で、葬式は終わった。
<全体を通しての感想>
部外者ではあるが完全な他人でもない、微妙な関係にあった五号館の葬儀。そもそも「建築物を弔う」という行為は初めてで、どういう態度で臨めば良いのかわからず戸惑った。しかし、これは私だけではなかったようだ。
たとえば、講演会にて司会者がダークスーツに身を包み葬式感を醸し出す一方で、講評者はラフな柄シャツにサンダル、というアンバランスさが際立っていた。参列者の大半は「葬式」というより「お別れ会」に参加しているようだった。
建築の終わりは、人の死とは違う。
今回の「建築の葬式」に参加して、改めてそう思った。1つの完結した時間を懐かしみ愛でる感情と、新たな空間で時間を紡ぐ期待感が混ざった気持ち。この感情を共有する場は、葬式という重々しい空間なのだろうか…?