僕がサンフランシスコで起業した理由

Hiro Hasegawa
Ramen Hero 創業者のブログ
19 min readApr 26, 2018

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時が経つのは早いもので、気付けば米国サンフランシスコに来てから、4年が経ちました。この4年間、失敗や試行錯誤の連続でしたが、ようやく現在の事業Ramen Heroのプロダクトを、カリフォルニア州全体に届けられるところまで来ることができました。

これからこの事業を世界中に届けるため、様々な仲間を集める必要があります。それに伴い、僕が米国で事業を起こした理由や、その想い、我々が目指す場所を共有する機会が増えていくと思うので、これを機にそれらをブログでまとめました。

僕のような平凡な人間が、どのように米国で起業し、カリフォルニア州全体にプロダクトを届けられるところまで来れたのかを書くことによって、「自分でもできそうだ!」と感じられる人が、一人でも増えたら幸いです。

なぜ米国なのか

当時24歳の僕は、地元の山梨県で焦っていました。県内で観測史上最高の雪が降るという予報のその日、僕は成田空港からのフライトで人生初のアメリカに向かう予定だったのです。

予定していた成田空港までの直行バスは高速道が封鎖され運行休止、あわてて特急をさがし、運良く運行休止直前の一便に飛び乗ることができました。

米国に向かうことにしたのは、大学を卒業と同時に、創業メンバーとしてジョインしたスタートアップをクローズすることが決まって数ヶ月後のことでした。勇んでスタートアップの世界に飛び込んだものの、とりたててなんのスキルも持たない当時の自分の実力不足が結果にでてしまい、チームに迷惑をかけるとともに、大きな挫折を味わいました。こうして振り返るのも憚られる苦い思い出です。

そのスタートアップのクローズは、年末にさしかかるちょうど前くらいのことでした。それから程なく、貯金も無かったので節約のため東京から実家に戻り、年末、年明けを迎えながら、次のステップを考えている中で、アメリカに行くことがふと浮かんできたのです。

一番最初に、アメリカに行ってみたいと言ったのは、高校卒業する頃でした。いつかは自分で、アメリカで会社をやってみたい。なぜか?と問われれば、きっと何か人が出来ない、大きなことがしたかったのでしょう。幼い頃から人と違うことをしたい、人がやっていないことにチャレンジしたいという気持ちが強かったように思います。

ちなみに、たびたびサンフランシスコの起業家仲間のブログにも登場するKiyoさんですが、「起業家の価値は、自分がいる世界といない世界の差分だ」というお話をしてくれたことがあり、とてもしっくりきたことを覚えています。まさに自分は難しい挑戦を通して、その差分をいい形で世に残したいのだと、その時分かりました。青臭いですが、これは今も変わらず思うことです。

挫折をし、全てがゼロになったタイミングで、純粋な自分の気持ちに向き合う時間があり、「やはりアメリカでやってみたい」という思いから、渡米を決意しました。(といっても、最初は旅行なのですが。)

場面は戻って、成田空港。

そんなこれまでの思いが頭の中をめぐりつつ、人生ではじめての米国に向かう便に乗りました。英語も全く出来ず、土地勘もない米国に向かうことは死ぬほど不安でしたが、同時に、新しい挑戦がはじまることを静かに喜んでいたのをよく覚えています。

渡米後

米国にはもともと1ヶ月半ほど滞在して、日本に戻る予定でした。その後は、エンジニアとして修行し、3年後にアメリカで起業。これが僕のプランでした。1ヶ月半という期間は、20万円くらいあった自分の全財産がちょうどゼロになるかならないかギリギリの旅程でした。

米国に到着してからは、事前にシリコンバレーにいる日本人を探してコンタクトをとってみたり、人づてに紹介してもらった方に会ったりして、現地の感覚をつかもうとしていました。当時、自分からgiveするものが何もないのに会ってくれた方たちには感謝の気持ちでいっぱいです。その中の一人だったのが、SFでもっとも長くつきあっている同世代の起業家で、Anyplaceに取り組んでいる内藤聡です。

当時彼が働いていたSFのコワーキングスペースで、「3年後に米国で事業をやりたいと思っている」という話をしました。どうも本気で米国でやりそうなので、であれば会ってみるといい人がいるよ、紹介するよと言ってくれたのが、Kiyoさんでした。

会ったのは忘れもしない、帰国フライトの2日前、サンフランシスコ市内のカフェでした。3年後の米国での起業のために、何をすべきかを尋ねてみようと思い、「3年後に米国で挑戦しようと思っていて・・」と話し始めると、すかさず「なんで今すぐやらないの?」と返ってきました。一瞬「えっ」とあっけにとられたのですが、スッと胸に入ってきたのは、Kiyoさんのこんな言葉でした。

「たとえば野球とサッカーで使う筋肉が違うように、従業員と起業家とでは使う筋肉も全く違う。同様に、起業家としても、日本と米国でも使う筋肉が全く違う。なので、もしこちらで本当に事業をやっていきたいなら、今すぐここで始めるのがいいよ。」

頭にまったく無かった「今すぐ始める」という選択肢が突然目の前に現れ、驚きましたが、やってみたいと直感的に感じた自分がいたことだけは確かでした。そして、その場で「米国に残ります。」とKiyoさんに約束をして、その後の滞在先のあてや資金の目処も全くないままに、米国で事業を作り始めることを決めました。

今思えば、これは自分のこれまでの人生で最良の決断の一つでした。自分が単純で良かったなと思うと同時に、何も失うものがない状態というのは本当に強いのだなという気づきを得ました。いつまでも、その姿勢は忘れないようにしたいと思います。

米国に残る理由

手持ちの現金もなく、SFに友達もいない状態で、何から始めたらいいか途方に暮れていたところ、生活費を浮かせるためのアイデアとしてシェアハウスをしたら?というアイデアをKiyoさんからもらい、聡と一緒にTech House(テックハウス)という、日本人×スタートアップがコンセプトのシェアハウスをスタート。ちなみにこの時、もちろんシェアハウスをできるだけの部屋を借りる元手もない聡と僕に、立ち上げるための初期費用を提供してくださったのがEast Venturesの松山太河さんでした。このご恩は忘れられません。

Tech Houseでは、本当に多くの出会いに恵まれました。2ベッドルームのさして広くない各部屋に、常に10人前後が生活する空間。滞在する人たちも皆ユニークで、今でも日本に帰る度に会うような人もいます。最終的には、1年半で合計300人ほどの人が泊まりました。

「いつか米国に戻ってきて何かやりたいと思っています。」
そう話すのを何度と無く色々な人達から聞きました。あれから数年経って、こちらに戻ってきた人はいません。これはとても考えさせられることでした。自分も一歩間違えば、というか、ほぼ確実にそうなっていたのではないか。

聡のこんな言葉が印象的でした。

「ビザ、英語力、資金。残らない理由ならいくらでも見つけられる。そうして、ずっと米国を夢見続けることになる。だからこそ、本気でやりたいのであれば、残る理由があることが大切。」

難しいことほど、やらない理由は簡単に、いくらでも見つけられます。それでも敢えてやるなら、その原動力となっているものは何か?自分の内なる動機を考え始める、ひとつの契機となりました。

自分が欲しいもの

Tech Houseが無事立ち上がった後、自分の事業アイデアを練り始めました。米国での挑戦がいよいよ始まったことに、胸は高鳴っていました。

一番最初に考えたのは、スタートアップと投資家のマッチングアプリのようなものでした。Tinderのような形でスタートアップのファウンダーとエンジェル投資家がマッチングし、モバイルで簡単に投資契約が完了できるというもの。当時はTech Crunchで毎日のようにスタートアップの資金調達記事を読んでいたこともあり、「これだけ調達が頻繁にあるのだから、けっこういけるのでは?」振り返ってみると、とても安直ですが、これが僕のスタートでした。

簡単なモックを書き、エンジニアの知人と一緒に立ち上げを試みました。ところが、そもそも自分自身が資金調達の当事者になったことがないことが致命的でした。具体的に利用シーンを想像することもできず、アイデアへの情熱もそこそこにスローダウン。いつの間にか立ち消えになってしまいました。

当時の僕はTinderが流行っているという理由ではじめましたが、「〇〇が流行っているから」というトレンド動機で始めても長く続かない。サンフランシスコには、トレンドに関わるものをやりに世界中の人が集まっています。その激しい競争環境の中では、自分の中に強い動機がなければ、続けることは出来ないからです。ここから学んだことは、自分自身が欲しかったり、少なくとも誰かが強く欲しがっていることを知っているものでないと、情熱は続かないということでした。

なぜ自分がやるのか

前回の反省を踏まえて、今度は自分が抱えている課題を解決するプロダクトに取組むことにしました。それが、海外旅行者向けのチャットコンシェルジュアプリです。

初めて海外に旅行に行くときのハードルはなんと言っても言語。渡米前には、現地で何かトラブったらどうしようと心配だったし、実際に初の米国では何かと勝手がわからず立ちすくむこともありました。そんな経験から、海外旅行をする時に、自分の母国語でオペレーターとリアルタイムでチャットのやり取りが出来る、コンシェルジュアプリを作ることにしたのです。

この事業アイデアで、日本で幸運にもスタートアップのピッチコンテストに参加する機会を頂き、そこではじめて出資を決めてくださる方たちに出会うことができました。こうして、「よし、やるぞ!」と米国で事業を本格的に立ち上げていく準備ができたのですが、米国に戻り、事業構造についてよりシビアに精査していく中で、いくつかの懸念点が浮かんできました。

それは、オペレーターの人件費です。リアルタイムの応答をサービスの価値とする以上、世界中のどこで利用されても対応できるように、人を配置しておく必要があります。当初は、人件費の安い国などにアウトソースすることを考えていましたが、考えれば考えるほど、どうしてもユニットエコノミクスの成立しない構造に思えてきました。「そんなことは事前に調べれば分かっただろうに。」自分の甘さが辛くなり、聞けば聞くほど絶望する一方でした。加えて、もう一つの構想であった、AIによる応対の自動化を進めるにも、膨大なデータ量が必要ということを知りました。自分がそのデータを集めるところまでをやるのか?

進退の決断が必要でしたが、その時に思ったことは、GoogleやFacebookなどデータを握るプレイヤー、つまり自分以外の人たちのほうが良く出来ることであり、一番にもなれない。価値も出せない。であれば、自分がやる意義はないのではないかということでした。こうしてこの事業を白紙に戻し、まっさらな状態から新たなアイデアを考えることになりました。

ちなみにその後、現在のラーメン事業の最初のアイデアに行き着くのですが、その時に再度投資家の方たちに、「ラーメン事業で行くことにします」と説明に伺いました。まるっきり方向が変わってしまったので、出資がなくなってしまうことも覚悟で伺いましたが、変わらず応援を決めてくださった最初の投資家の方たちには、頭があがりません。

成功するまでやる覚悟

正直、オペレーターの人件費やAIが理由でやめてしまうようであれば、もともと長く続けられる事業ではなかったなと、今では思えます。自分に成功するまでやり続ける覚悟があれば、より長期的な視点で成功する方法を探し続け、見つけられたかもしれないと今では思います。その事業を続けることに大義がある人であれば、いずれは何かしらの答えを見つけるのではないかということです。

このプロダクトが失敗した時、失意のどん底にいる僕にKiyoさんが、かけてくれた言葉があります。

「俺が失敗し続けて学んだことは、起業家が事業を諦める瞬間は、金が無くなったときではなく心が折れたとき。そして、心が折れるときは、期待していたことがうまくいかなかったとき、期待していた人に裏切られたとき、期待していた分だけ反作用が働く。これが起業家の歩みを止める。だから、期待せず油断せず、悲観的に考えて楽観的に行動して、常に最悪の状態を想定しておくこと。事業なんてある程度まではサイコロと一緒で確率論。学習すればするほど確率も高まる。挑戦し続けていれば必ず当たる。お互い頑張ろう」

挑戦し続けていれば必ず当たる。

苦しいと感じることは数知れずありましたが、そんな時には、この言葉にいつも背中を押してもらっています。

なぜラーメンなのか

実は渡米してから、ずっと気になっていたマーケットがありました。それはラーメンです。

米国では、ラーメンは一過性のブームではなく長期的なトレンドになり、全米に定着し始めている。それなのに、本格的な味を提供しているお店は非常に限られています。

米国におけるラーメンへの関心は右肩上がり。

僕はもともとラーメンが大好きです。

僕が中学生の頃、それまでチェーン系のラーメン店しか無かった田舎の地元に、魚介豚骨ラーメンを出す店が開きました。今ではすっかり定着した味ですが、当時僕はこれもラーメン?こんなに美味いものがあったのか!と感激。それから毎週末のように、家族の外食先にはラーメン屋を指定。

大学時代も毎日のように東京の新しいラーメン屋を探しては、食べ歩きをしていました。色んな味が常に開発され、どんどん新陳代謝が起こっていく。こんな食文化って、世界でもなかなかないのではないかなと思います。そんなホッとするソウルフードな一面と、進化をやめないという一面を持ち合わせるラーメンの面白さにどんどんハマりました。

そんな自分が、サンフランシスコにきてからというもの、めっきりラーメン屋に行く回数が減りました。食べに行く場所がないのです。より正確には、食べに行きたい場所が少ない。米国は日本よりもラーメンが高く、都市においては安くて$10、高ければ$20くらいはします。

なかなか日本のように気軽に食べられる値段ではない上に、中にはRamenとメニューにはあっても、お世辞にもラーメンとは言えない謎の味や見た目の食べ物がでてくることもあります。日本から進出している数少ないラーメン専門店に行くというのはアリなのですが、そういったお店が自分の家から気軽にいける距離になかったり、人気なだけに1–2時間待つこともあります。

東京なら満足できるラーメン屋がそこら中にあるのに・・。米国でも本格的で、かつさまざまなラーメンが気軽に楽しめるようにできないか?こうして、ラーメン事業を本格的に考え始めました。

ラーメン事業の立ち上げ

アイデアは出てくるものの、僕はそもそもラーメンを作ることは全くの素人であることに気づきました。まず、何から手をつけていいか分からず困っている時に、「これ、行ってみたら?」とKiyoさんからメッセージが。何かと思い見てみると、日本のラーメン専門学校のウェブサイトでした。締切が間近だったこともあり、急いで申込みをし、学校にこもりひたすらラーメン作りの基礎知識と技術を叩き込みました。

学校を卒業して米国に戻り、まず考えたのが、全米のラーメン店向けにラーメン商材を販売する、B2BのラーメンEC事業。通常ならセールスパーソンが店を訪ね、要望にあわせた商材のカスタマイズをするところを、うちでは販売データや食べた人のフィードバックから最適な味を自動的に判定し提供。

お店側にとっては、より顧客に好まれるというデータによる裏付けのあるラーメン商材を、アマゾンで買い物をするように簡単に仕入れることができるというものでした。ところが、サンフランシスコ、シリコンバレーのラーメン店にヒアリングをすすめ、サンプルを作って持っていくと、2つの難点に気づきました。

1) 味の改善に課題感を持っていない店がほとんど
ここ数年でサンフランシスコには本格的なラーメン店が数店オープンし、人々のなかの「あそこはまた食べたい」と「あそこはいまいちだったね」の差がはっきりしてきました。ですが当時はどこも同じようなレベル感で、味を良くする緊急性は低そうでした。

2) 信用力がゼロの状態
こちらのほうがよりクリティカルだったと思います。要するに、取引するにあたってブランドや信用力が必要。名前も初めて聞くような会社が、お客に提供する食べ物を購入してもらうことは短期間では難しいと痛感しました。

このB2Bの構想は、全米でよりクオリティの高いラーメンをアクセスしやすくするためには間違いなく良いという自信があり、実際に日本では多くのラーメン店に商材を提供し、成功している企業もあります。ただ、タイミングとしては今ではないという現実を知り、ピボットする決断をしました。

まだ世界にないもの

そこで、別の方法で本格ラーメンをどこにいても、気軽に食べられるようにできないか?と考えてでてきたのが、現在のラーメンD2C事業「Ramen Hero」です。

米国では近年さまざまな形でフードデリバリーが普及してきています。オンデマンドデリバリーならUberEats, Postmates(調達額$278M)。ミールキットはBlueApron(調達額$199M), Hello Fresh(調達額$364M), 最近ではAmazonも参入しましたし、カテゴリ特化型も続々でてきています。はたまた店舗を持たず、オンライン上でのみオーダーを取り、セントラルキッチンで一括生産し配送するゴーストレストランという新業態も。

一般の人達が、食べ物をオンラインで購入する行為は、もっともっと当たり前のものになっていく。そこで、これから更に大きくなる米国ラーメン市場において、店に行かずとも本格的なラーメンを食べられるという体験を提供することは、チャンスがあるのではないか?そして何よりも、米国という異国の地において、出来る限り多くの人に本格的なラーメンを楽しめるようにすることは、純粋にすごく面白いチャレンジです。

それからライセンスの取得や製造場所の確保、器具の調達を進めました。何もかも初めてのことで大変でしたが、奮闘してくれた当時の相方には今でもとても感謝しています。プレローンチのため実施したKickstarterは思った以上に早くサクセス。当然ですが、ほとんどのバッカーが自分の知らない人達で、自分が米国での事業の第一歩を踏み出せたと感じられた瞬間でした。

また、1日限定のポップアップイベントには150人の参加者が来場。毎月の新商品はリリースして1日で完売、30%以上のカスタマーがリピーターと、米国で本格ラーメンのニーズがあることを確信できました。

Ramen Heroに辿り着くまでに分かったことは、自分が事業の選択において大事にしていることが、次の3つだということです。

1) まだ世界に存在せず、自分が心の底から必要だと感じるか
2) 自分がこの事業のための最高の起業家だということを信じられるか
3) 成功するまで、何十年でもやり続けられるか

ここには、テックニュースに溢れているトレンドは全く関係ありません。トレンドによる変化は、あくまで自分が目的を達成するための道具で、利用するものではあっても、それが理由で、事業を選択するものではないのです。

難題を解く楽しさ

ある日、Kiyoさんがドライブ中にこんな話をしてくれました。

起業家にとって大事な価値観は、今までの人生にある。子供の頃に何が好きだったか、両親から何が大切かと教えられたか、とか、そういうものだ。だから、ひろくんも、自分のルーツを振り返ってみるといいよ。」

幼少の頃、僕がはまっていたものの一つに迷路があります。小学生低学年のころ、とんでもなく難しい、自分でも正解経路の分かっていない超大作の迷路をノートに書いて、友達たちに渡して一緒にゴールを目指していました。

こういう、難しいゲームを他にも自ら作って、みんなで遊ぶのが好きでした。大切にしていたゲームの要素は、一人よりもみんなで取り組めること。純粋に楽しいから。それから少し頭をつかう要素が入っていること。これは、より難しくなるので。そしてクリアした時に、やった!とプラスの感情が生まれること。

三つ子の魂百までとは本当によく言ったもので、この頃の経験が僕の人格のコアになっていると思います。

僕の価値観は、“自分で難しい問題を作って、みんなで楽しく解きたい”。

大切なことは、
・楽しいこと
・難しいこと
・仲間がいること
・自ら課題を作ること

これが、自分のこれまでの決断や行動、それらが導いた結果の、すべての根底にあります。

事業をやる中で色々な意思決定、うまくいったことやいかなかったこと、出会いや別れもあり、その中で自分の行動基準になっているものを見つめてきて、ようやく見つけられました。もっとも、なんとなく子供っぽい表現なので、これからもっと別の言葉で表現する時がくるかもしれませんが、本質はこれからも変わらないのだろうと思います。

最後に

今一緒にチャレンジしてくれているチームメンバーや、米国で出会った起業家仲間、さまざまな方への思いはまだまだ書き足りないですが、それはまた別の機会にゆずろうと思います。苦しいタイミングもこれから続々来ると思いますが、自分の価値観、信念に正直に、これまで世の中にない事業を作ることを楽しみつつ、頑張っていきたいと思います。

Ramen Hero https://ramenhero.com/

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