タイの外交の歴史が圧倒的に戦略的で強かで舌を巻くレベルらしいという話。

曽志﨑 寛人 / Hiroto Soshizaki
hirotososhizaki.me
Published in
7 min readFeb 23, 2017

この話は決して、政治的見解を主張することを目的とした話ではありません。この話は、タイという国の外交がいかに強かであり、東南アジアで唯一独立を保ったという歴史の事実の背景に、緻密に考え抜かれたタイ王国の戦略的外交があったという事実に、唸らずにはいられなかったという話です。文字数は3000弱。時間にして5分ほど要することはご容赦ください。また、ぼくは歴史専門家でもありません。

タイという国の歴史をざっくりいうと

中国南部地域に位置していたタイ族が6〜7世紀あたりに南下して、メコン川・チャオプラヤ川流域に移動して勢力が発展したのがタイという国の起源。13世紀に誕生したスコータイ朝がタイ族最初の王朝と言われています。

タイの西側に位置するビルマとは、18世紀後半に至るまで国境紛争を展開。19世紀前半以降は欧州列強に東南アジア各国を占領される中で、タイも西欧と不平等条約を締結。

建国以来、常に周辺国や列強の侵略の危機にさらされてきたのがタイ王国の歴史です。

タイという国が直面した歴史上の危機

タイという国は近現代以降、侵略による危機を実に3度迎えます。

一つ目が、西欧による植民地化政策が進んだ19世紀前半。東南アジア諸国が次々と侵略され、プランテーション農業が勃興した時代。

二つ目が、英仏と独墺が対立した第一次世界大戦。周辺の西欧各国と対峙しようと、この当時のタイはドイツとの関係を深めていました。

三つ目が、米英仏と日独伊が対立した第二次世界大戦。英仏に対して宣戦布告をしたタイは、敗戦国として終戦を迎えます。

これらの危機的状況にも関わらず、他の東南アジア各国が独立を奪われる中、タイ王国のみが独立を保持し続けた背景には一体何が隠されているのか、というのがこの話の論点です。

タイに隠された外交的したたかさが舌を巻くレベルである

独立保持の背景には、どれもタイ王朝の戦略的外交手腕がありました。

まず、西欧の植民地化政策が侵攻する中、自国の独立を維持するために出た政策が「コメの輸出」。タイ以外東南アジア諸国では、西欧主導で付加価値の高いプランテーション農業が発展したため、それらの国では当然コメの生産高が減少します。タイ王国は、周辺各国でのコメ需要を逆手に取り、関税収入を増強し、自国の軍隊強化に投資します。西欧各国もタイのコメ供給は欠かせなくなり、タイへの侵略機会を逃します。

二つ目。第一次世界大戦でも戦略的姿勢が特徴的です。英仏との対立と、独との接近の文脈では、英仏へ報復する絶好の機会。独墺側に加勢するかと思いまものですが、そこは中立。劣勢を確信した時点で独に宣戦布告、戦勝国入りを実現し、西欧諸国からの圧迫を逃れます。

そして、最も目を張るのが、第二次世界大戦。この時、国際連盟における「満州事変に関する日本に不利な決議」を放棄し、中立姿勢を保とうとしたのがタイでした。しかし、この時ばかりは中立を維持できず、日本サイドに立ち、米英へ宣戦布告。その後、タイは敗戦国として終戦を迎えたため、この時ばかりはついに英仏の支配下に入るはずでした。

しかし、ここに来て、タイ王国は「宣戦布告無効宣言」を発令します。まさかです。タイ王国は、米英への宣戦布告が無効であったと主張し始めます。そんなことが受け入れられる状況だろうと誰が思うでしょうか。ただ、その後のタイ王国が、敗戦国中初の国連加盟であったことが、「宣戦布告無効化宣言」が戦勝国に認められたという事実を大きく物語っています。

この気違いにも思える政治的外交手腕が、宣戦布告前のタイ王政が意図したシナリオ通りの戦略だったとしたら、皆さんはどのように感じるでしょうか。この事実に、僕が大きな唸りを上げたのは言うまでもなく、実はこれこそがこの記事を書いているモチベーションです。

第二次世界大戦当初は中立を保っていたタイですが、連合国か同盟国いずれに加勢するか、国際社会で決断を迫られた状況に陥った事実はすでにお伝えしたとおりです。

タイという国は、歴史上長年周辺国であるビルマ及び西欧列強との争いを、「一国に加担しない」という方針で乗り越えてきた歴史があります。第一次世界大戦で戦勝国という立場を勝ち取ったのは、鉄道敷設権を与え関係性を強化していた独にさえも、政治的中立を保持し、独の劣勢を見るやいなや、独墺に宣戦布告したからこそなせる技だったのです。

第二次世界大戦では、ついに宣戦布告を迫られたタイでしたが、実はここにドラマが有りました。当時9歳だったタイ国王はスイスへ留学中。国王不在中時の発令には、本来3人の摂政印を必要とするところ、2人分の摂政印で宣戦布告宣言を発令していたのです。

タイのローカルルールでは、タイ王不在時の発令には摂政3人の印が必要であると定めています。つまり、一人分の摂政印が欠けているといえますね。さて、あと一人の摂政はなぜ不在だったのでしょう。実は、意図的な地方視察というのが不在理由なのです。この摂政は、日独伊が劣勢となり自国も敗戦国となることを見越し、押印不足の宣戦布告の発令を敢行、敗戦後に「宣戦布告無効宣言」を発令するということを、この時点で戦略的に企んでいたというから圧巻です。

「宣戦布告無効宣言」を戦勝国側が易易と受け入れるわけがありません。しかし、そこには米国がいました。荒廃した日本を占領した食料難を危惧する米国に接近、コメの輸出という外交カードで仲介を獲得することまで見越していた戦略には舌を巻きます。

タイ王国は明らかにストラテジストである。

この話に出会ってから、僕のタイに対する印象は激変しました。近年発展を続け、自動車部品や半導体の工場が林立する東南アジア経済の中心国という印象はなくならないものの、それ以上に、とてつもなく高度な戦略的政治判断を下す国であるという印象を突きつけられたことは言うまでもない。外務省の南東アジア第一課が、さぞこの国に対して鋭い眼差しを向けていることでしょう。(←もちろん完全な憶測です。)

おわりに

この記事には、参考文献はありません。インターネットで仕入れた情報でもありません。3週間前に縁あって出会った方の主催する2時間の歴史セミナーに出席しただけというのが種明かし。彼の講義に興奮した僕は、この通り午前4:00にも関わらず、3000文字をタイピングする手が止まらない。

「歴史は暗記科目ではない。その事実の背景に潜むドラマを通じて、自分の人生や社会を見つめ直す機会を与えてくれる。その体験の面白さを少しでも多くの方に伝えたい」

彼の3月の少人数型歴史セミナーの予定はこちら

Twitter @1minute_history

強調しておくと、この記事は決して彼に頼まれての紹介記事ではなく、ただ率直な素直な感想と素敵なセミナーの備忘録に過ぎません。また、この文章によって彼の講義の素晴らしさが曇ってしまったなら、全力で謝罪したいです。

次回テーマは「徳川幕府成立に学ぶ組織運営と人材マネジメント」近頃また脚光の浴びている「貞観政要」の帝王学の内容に触れられるのではと勝手に想像しています。勝手にです。

歴史ってこうやって楽しむものなんだなっていう型のできた日でした。李さん、ありがとうございました!

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