お母さんの請求書

「お母さんの請求書」という題材で道徳の授業参観がありました。長男が四年生の頃です。

「ある子どもが家のお手伝いをした際に500円請求してお小遣いをもらいました。」

「今度は、子どもがお母さんから請求書をもらいました。優しくしてあげた代・看病代・衣服代・おもちゃ代・食事代・部屋代・・・」

さて、お母さんからの請求はいくらだったのでしょうという先生の問いです。話の流れを知らなかった私は、頭の中で計算しました。自分の労力や福利厚生まで考えると子育ての時給っていくらくらいだろう。そして、何時間くらい育児に当てているのだろう。

物語は、「お母さんの請求書は、合計が0円でした。お母さんの仕事は大変なのにお金をもらっていません。子どもは500円を返しました。」という内容でした。

冷や汗をかいた私。よかった当てられなくて・・・。妥当な請求金額を発表してしまうところでした。

それにしても、この道徳の授業にいたたまれない気持ちをしている人はどれくらいいたのでしょうか。

「お母さんがいる」「家事をお母さんがしている」「病気の時はお母さんが看病してくれる」「お母さんが優しくしてくれる」ということが大前提にあります。この子たちの中に、お母さんがいない子もいることを思い胸が痛みました。

他にも、仕事が忙しかったり、病気や介護など、何か事情があって家事育児に手が回らないお母さんもいるかもしれない。

また、核家族の共働き世帯では、言われなくてもお手伝いしている子どもはたくさんいるでしょうし、お小遣いをもらおうがもらうまいが、そんなことは家庭の自由です。

授業の方向としては、「お母さんの無償の愛に応えるべく、すすんでお手伝いしたり、感謝したりしましょう」という落としどころでした。このお話が悪いのではなく、今の時代に、道徳の授業でとりあげるべき題材なのかと疑問です。

私は子どもに感謝してほしいなんて思っていません。「無償の愛」が素晴らしいとも思いません。「無償の愛」という名の呪いで、親と子が縛られます。子どもは親がみるもの、親は子どもがみるものだという決めつけ。そうでしょうか。親も子も、社会の中で生きて行くのです。それぞれに別の人生があります。

日本では、自己犠牲が貴ばれる風潮が根強くて、不満を言わずに耐え忍ぶことが美しいとされています。学校でも、忍耐強く頑張る子が褒められます。自分の本当の気持ちを素直に伝えることが、学校では「辛抱の足りない子、わがままな子、思いやりのない子」として扱われます。

共働き世代が、生活費・教育費のために稼ぎ、おじいちゃんおばあちゃんに子どもを預けていることがあります。孫がいくらかわいくても、親でさえ大変な育児をまるまる引き受けることは、お年寄りには大きな負担です。

また、夫婦共働きで、家のことは全て妻が引き受けていることがあります。夫は有給で釣りに行くけど、妻は子供のことで有給を使い果たします。

家族だから、親子だから、「愛」という名のもとに、時に図々しくなり、時に耐え忍びます。いつしか不満がたまり、体調を崩し、悪循環に陥る可能性があります。そうなると、感謝だとか無償の愛だとか言ってる場合ではありません。

仕事で疲れて帰ってきた母親が夕飯の支度をしているときに、夫や子供がテレビを見ながら「お母さん、いつもありがとう。」と感謝してくれることは幸福でしょうか。日本の女性はこうあるべきだという無意識の前提がありはしないでしょうか。その前提はどこで刷り込まれたのでしょうか。男性だって、一人で暮らしていれば、ごはんも作るし洗濯もするはずです。世の中には、出張の際の荷造りを妻にしてもらう男性もたくさんいますが、女性は家政婦ではありません。

私は、家庭内においてもWin=Winな関係を作っていく方が健全だと考えています。ほしいゲームがあるという子どもと、洗濯の負担を減らしたい母親が、1回100円で洗濯という労務を契約することは卑しいのでしょうか。お金でしか動かない人間になってしまうのでしょうか。私はそうは思いません。洗濯を手伝いながら、洗剤や洗濯機の扱いなど覚えますし、いずれ請求しなくなることもわかっています。

ゲームを手に入れたからと言って、手伝いをしなくなるということはありません。彼らは将来、当たり前のように洗濯をするでしょう。また、地道に貯めたお小遣いは大事に使いますし、ゲームソフトを手に入れた時に味わう達成感はいわずもがなです。

「無償の愛」とは、押し付けることでも、習うことでもないのです。ある日ふいに感じるものです。自分で気づくことです。

オランダでは公立でも私立でも、小学校の校長が教師を選び、教師は教科書を選びます。保護者が学校を選ぶことが出来るので、授業を見て気に入らなければ違うところに決めるでしょう。学校の評判が悪いと生徒が減り、校長はクビになります。

日本では、校長は教員を選べないし、教員は教科書を選べません。そして保護者は学校を選べません。選ぶことは出来ますが、公立なら教師も教科書もほぼ同じです。保護者や現場の教員の声は、文部省や教育委員会を動かせません。

当時学校に通っていた長男には後々「あの時、実は妥当な金額を計算してたんだよね」と話すと「請求すんのかよ!最悪な母親だな!」と驚き、当てられなくてよかったね、先生困っちゃうよね、他のお母さんたちにも白い目で見られること間違いなしと笑いあいました。

そして、「お父さんとお母さんは、あなたたちに感謝してほしいなんてこれっぽちも思っていない」ということも伝えました。

--

--