「ハックスクール」を輸入する

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ホームスクールで育った子どもがTEDxで生み出した言葉

僕にはこの言葉がすごーくしっくりくる。

だからこれからは、ホームスクーラーというよりも「ハックスクールをしている」と言っていきたい。

何が違うのか、ざっくりいうと

学校に行ってないからすごいとか、そういうなんかゆがんだ優越感みたいなものをこの言葉は感じさせない。

僕はそもそも学校に対してなんら嫌悪感があるわけではない。

「じゃあなんでホームスクールとかやってんの?」と思われるかもしれないが、それは「教育」というマーケットで、学校を1つの商品として見た時、単純にそそられないからだ。

お金を払って、学校という商品をわざわざ買う気になれない。

それだけだ。

もちろん、既存の学校制度には色々な欠点があるし、昔ながらの教育スタイルをいつまでも脱せず、教員もピンキリだということについては、SNSなどでたびたび触れてきた。

でもそれらはすべて「~であるから商品としての魅力を感じない」と言っているだけであって、ちまたのネトサヨにみられるような「学校行っている奴はまじ終わってる」みたいなことはみじんも思っていない。

だから、「ハックスクール」という言葉がものすごくしっくりくる。

ホームスクールの世界は学校以上に多様性に富んでいる。

「学校に行かない」というある種、勇気を必要とする選択をしている人たちだから、相当にアツい考えを持っていたり、時には偏っていたり…。

最近は前述のネトサヨ系ホームスクーラーの声が非常に大きいということを感じるようになった。

この空気感は、僕と息子のような、あくまでも学校からoptoutしているスタイルのホームスクーラーにとっては非常に残念なことだ。

はじめに弁明しておくが、そういった方々は、なんら悪いことをしているわけではない。彼らは彼らで、思ったことを好きに発信しているだけだ。

ただ、別のクラスタがひとまとめに「ホームスクールをやっている人」としてくくられるのは、なんだか合点がいかないところがあるのである。

いわゆるメディアに出てくるような声のでかい「ホームスクールをやっている人」のイメージは、既存の「国家」という、もはやリアルには存在しない制度や体制に反発的な集団だ。

彼らが社会にヤンキー的姿勢で臨む理由などについては、僕は関係がないのでノーコメントだが、そういう人たちが目立てば目立つほど、社会からは「ああ、ホームスクーラーがまたなんか言ってる」とおもわれ、その他大勢のoptoutホームスクーラーが色眼鏡で見られるようになってしまう。

つまり、偏った集団価値をつけられてしまっているんじゃないかと心配になる。これではフェアじゃない。

だからと言って、「お前らはホームスクーラーを名乗るなよ」とはいえるはずもないし、多くの場合はかなり古株だったりもするわけだから、これまた「う~ん」と頭をひねらすのだ。

そんな時に「ハックスクーリング」という言葉をきいて、僕は「これだ!」と思った。

ホームスクールという概念があいまいなら、別の概念を作ってしまえばいい。

世の中には頭のいい人もいたもんだ。

通常、ホームスクールといえば、学校には行かずに家庭をベースとして教育を完結する。

ここでは「家庭か、学校か」といった考えが2極化してしまいがちだが、実はどこで勉強するかなんて言うことは本来どうでもいいはずだ。

少なくとも、僕は「そんなことはどうでもいい」と思ってホームスクールをしている。

「ハックスクーリング」のすごいところは、「学校とか、家とか面倒くさいこと言ってないで、好きなことを実現できるリソースさえあればいいんじゃないか」という今のホームスクーラーに平手打ちを食らわせるようなハジけた発想を持ってきたことだ。

どこで、だれに?とかではなく。”何を”学ぶかが大事。

インターネットが普及して、勉強したいことはいくらでも調べられる。場所はどこでもいい。目標設定や、ガイダンスの援助は必要だが、正直な感覚として、レクチャーの段階からは、リソースさえそろえば親も先生もいらない。

やりたいことを実現するためにはリソースを集めればいいのだ。

リソースは学校の家庭科室にあるミシンかもしれないし、どこかの大学の教授の知識かもしれない、もしかしたらゆっくり本が読める自分の部屋のベッドかもしれない。

場所や環境設定などの固定概念に縛られず、ほしい教育をほしい時に手に入れる。

これが、ハックスクーリングだ。

僕や、ある1つの思想にとらわれない、いわばライフハック的な自由な生き方を目指している人たちはおそらくわかってもらえるんじゃないかと思う。

リソースがほしいから、(なぜか敵対していないといけないはずの?)学校を含む各種機関へも必要なら全然行くよ。と。そういう スタイルだ。

ここで、ちょっとだけ、「アンスクーリング」にも触れておこう。

メインストリームの一つに「アンスクーリング」と呼ばれるアプローチがある。欧米で生まれた時は、子どもの興味に寄り添う形で親がリードしながら教育を行う、「カリキュラムを持たない家庭学習法」を指していたのだが、昨今ではアンスクーリング=子どもが自然に育つのを見守る、何もしない、といったように拡大解釈されており、これはソフトなネグレクトじゃないか、みたいな議論がニッチで巻き起こっている。

で、その主張が強すぎた人たちは捕まったりしている。

日本で「うちはアンスクーリングだから、子どもの好きにさせています。学校になんて行かせません。」などといえば法律的にだいぶグレーな部分があるのはわかってもらえるだろうか?

ただ、前述の通り、アンスクーリングにはもともと「何もしない」という解釈はなく、むしろ親が積極的に早期から読み書き計算などを教えている場合が多い。少し考えれば当然のことで、「学校に行かずに家庭で好きなことに没頭してもらおう!」というのが本来のスタンスなのだから、当然子どもが外部の情報から「好きなこと」を見つけられるように、情報を読み取るための基礎能力はガンガン伸ばす必要がある。

しかし、現実は厳しい。

日本で、「アンスクーリング」というと、すでに「やばいやつら」といった認識の土壌ができつつある。ヤバくないのに。

要はアンフェアな認識、社会的なマイナスイメージがもうすでにできてしまったのだ。

僕は、本来の「アンスクール」を頑張ってきちんと運用している人は、早く「ハックスクール」にタイトルを変えてほしいと思っている。

その方が今後絶対に得をする。

今、頑張って体制批判をしている声のでかい「アンスクーラー」はおそらくハックスクールをこれからも名乗らないだろう。というか名乗れない。

ハックスクールでは、学校や体制、デジタルデバイスをはじめとしたITをガンガン利用していくから、そういったことに批判的な人たちはハックスクーラーにはなりえないからだ。

新しいものに寛容で、好奇心の強い、僕らoptout組はさっさとタイトルを変えて、本当に自分たちがいいと思うものを堂々と続けていったらいいのだと思う。

それが、愛する子どもたちにたいしてできる親としての道の開拓なのではないかと思う。

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