「夢を持て」はやめない。

ただし、現実的であれとは思う。

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お笑い、そして映画界の巨匠、北野武さんが現代の教育に関連することを言っています。

いろいろな観点で、とても参考になる、考えさせられる記事です。

さて、こちらでは、「清貧」の美しさについて触れています。

「大人は、夢を見ろ、と子どもたちにきれいごとを伝え、社会に出るとその夢を叩き潰している。だからこそ初めから質素に、堅実に生きるべきだ。夢を見るよりも、消費、無駄をなくすことが大切なんだ。」

僕にはそのように聞こえました。

でもはたしてわたしたちは子どもたちに「夢を見るな。質素に生きろ。」というメッセージを送るべきなのでしょうか?

一教育者としてとても悩ましい点です。

質素に生きるというのは、多くを求めずにあくまでも現実的に目の前の事柄を淡々とこなしていく作業です。

実際にこんな子どもがいます。

まったく何も努力らしいことはせず、口では「~~になりたい」という。

そんな子に対しては、「~~という努力をしなければ~~には絶対になれないよ。」と現実を伝えるべきでしょう。

できないことを「絶対にできるよ」と感情に任せて教え、結果できなかったとき、責任は誰にあるでしょうか?

おそらくその責任は大人にあると思います。

それは本当に悲しい。だから、現実的であることは非常に大切です。

また、さらに悲劇的なことですが、「才能がなさそうなこと」、「競争が激しく勝ち目がないこと」を一生懸命やらせるのもまた酷であると私は考えています。

才能の見極めは親がやるべきです。

向いていないと思ったことからはなるべく遠ざける働きかけをしないと、近い将来子どもが現実を見たときに大きな挫折感を味わわせることになるでしょう。

これらの観点から、「求めすぎない」生き方は大切かのように思えます。

ただそれだけではつまらない。

親として、教育者として、現実的であることはとても簡単です。

しかし、それだけではあまりにも機械的でつまらない。そう思うのです。

「失うものがなければ、失う悲しみがない。」

ある種、そういった消極的な姿勢です。ノーリスク、ノーリターン。

目標設定をせずに足のつま先だけを見ながら生活をするというのは、面白みがなく、また子どもたちの可能性もとい成長を妨げるといってもいいでしょう。

先述の通り、現実的であることは教育においてとても重要です。一方で、子どもたちをやる気にさせ、学習に積極的に取り組ませるものはやはり「夢」なんです。

この両者を何とか共存させられないか?

というところで多くの 教育者は悩んでいるのだと思います。

「夢を見よ」と「現実的であれ」が教育における大きな矛盾になっている原因は集団教育にあります。

集団教育(Mass Education)では効率化/機械化されたスタイルが当たり前です。環境として、夢や希望ではなく「現実的であること」が求められているのです。

そんな環境で、「夢」「希望」といっても実現は難しいでしょう。なぜなら、そこで求められているのはあくまでも平均的な能力の育成、夢、希望を語るのではなく、現実的に目の前の作業を文句を言わずにこなせる人材の育成です。

当然、子どもたちの夢をかなえたいと思いつつ頑張っている大人もいるでしょう。しかし、残念ながら環境的にそれが許されず、あくまでも「現実的であれ」というのが今の集団教育のリアルなのではないかと思います。

教育「産業」が悪なんじゃないか。

ここで、はっきりとさせておきたいのは、今、「個性を伸ばしましょうね!」などと言いながら子どもの個性をつぶしている物は「教育産業」であって、「教育」ではないということ。

僕はこれをいろいろなところで言ってきていますが、今、社会が教育にたいして「?」を宿しているとすればそれは「産業」と「あるべき姿」のギャップが原因でしょう。

武さんが言う、「夢を見ろなんてのは...」という部分は、教育産業の矛盾点をさしているものだと思います。

教育産業が目指すものはあくまでも利益。子ども個人の価値の向上ではありません。だからお金のない家庭は教育産業からはお払い箱ですし、「現実的な利用価値」を生み出せない生徒は教育産業にとっては目の上のたんこぶです。

たとえるなら、教育産業とは大きな人材派遣会社です。

使えない人材(子ども)はそもそも雇いません(受験)し、雇った後でも業績(成績)が悪く会社としてのネームバリューを下げるのであれば最悪クビ(自主退学)です。

そして、顧客は親です。子どもではない。

不思議なのはそれに誰も気づかないということ。

そうなんです。

みんなそれが当たり前だと思って今日もサービスを買っています。

こんな中で、子どもたちは「夢」を見ることができるでしょうか?

当然できませんね。しかし、周りの大人は「夢を持ちなさい」などという。ここが矛盾点です。

「教育」では夢は持っていい。

この「なんでもできる」世の中で「現実を見ろ(出来ないだろ)」というのはナンセンスだと僕は思います。だから子どもは夢を見ていい。

では、そのために何が必要なのか。

まず、「教育産業」から抜け出すことが必要です。

具体的には、家庭での教育体制の確立。または、「教育」を行う場所を探しましょう。(手前味噌ですが、ルミオハナはそういった機関を目指しています。)

産業ではなく、本当の「教育」を行うために必要なもの...

それは、大人の覚悟です。

大人が全力で最後までサポートしきる気持ちがなく、それなのに「夢を持て」といったとき、このシステムは崩壊します。これが、今の教育産業。

一方で、真の教育は大人も覚悟がありますから、目の前の子たちにとってのベストを引き出すためにいくらでも時間を費やします。これが教育。

真の教育現場には効率もへったくれもありません。いかに子どもと向き合う時間があるか、話を聞けるか、実現のサポートができるか、です。

今の教育産業に覚悟はありません。

自分たちのサポートする努力、時間を惜しみ「慎ましく生きることの美徳」「サステイナビリティ」などというのはは問題の先延ばしで、責任のすり替えです。

できることはやらなくてはいけない。

そうでしょう?

ここに教育の根源はあります。これは教育者に限らず、親の責任でもあります。

子どもたちはなんでもできる世の中に生まれました。なので、それに向けた正当な努力をすることは彼らの責任だし、大人はその可能性を「清貧」という言葉で叩き潰してはいけないと思うんです。

「夢を見るな。現実的であれ。」ではなく「夢をみろ。現実的でもあれ。」

文中では地球温暖化のことまたそれに対して何かしらの対応を人類が迫られていることが書かれています。 そしてその解決方法があたかも人間が慎ましく生活をすることのみのように書かれています。

成長段階の中で人間は間違いをおかすし、 さらなる成長を目指すのであれば それに対しては寛容でないといけない。

違いますか?過去の過ちを正す、という大義名分を掲げ、子どもに罪を背負わせようとしていませんか?

これは筋が通っていない。

資本主義肯定だとかそういった次元の話ではなく、 清貧というのは視野が狭かった時代の産物で、今は人類が成長を止めるというのと同義です。

慎ましく消費を続けるのか、現代の子供に未来を託して投資をするのか。

その判断は私たち親が決めることになりそうです。

答えを言ってしまうようですが、「現実的であるなら、子どもに夢を見させなければいけない」と僕は思っています。

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