日本でホームスクーリングをするために知っておきたい最低限のコト

--

ホームスクールに関する情報を書きためています。長期休みが終わり、検討を始める家族も多くなる頃ではないでしょうか。始める前に、大前提として知っておきたいことを書き出して見ました。

1、子ども自身がホームスクールを希望していないとできない。

よく「ホームスクールをしています」というと、「義務教育なのにいいの?」という質問をいただく。これには義務教育というのを「学校に行かないといけない」という解釈をしている人が多いことを感じさせられるのだが、義務教育とは子どもに課せられた義務ではなく、大人が子どもに「(働かせたりしないで)教育を受けさせる義務」であることをまず確認しておきたい。

結論から言えば、親は子どもに教育を受けさせる義務があるのであって、無理にでも学校に行かせなければいけない義務ではないのだ。

「教育環境の設定を保証する」というのが義務教育に従う態度であるといってよいだろう。

また、親の希望で「ホームスクールをさせたい」という理由も通らない。原理原則として、子ども本人から何も希望がなければ、「学校に通う」ということが今の日本では唯一の選択肢である。

したがって、ホームスクールは子ども自身が「なんらかの理由で学校に行きたくない=学校以外の教育環境を必要としている場合」でないと認められないというのが基本ルールだ。

ただ現実問題、小・中学生の年齢で自分の学習環境の選択が的確にできるかというと難しいだろう。その子の特性を見極めて、良い意味で親が誘導し家庭を含む学校外の学習環境を整えていくことも覚えておきたい。

2、ホームスクールでも学校基準は捨てられない。

また、日本は教育システムがしっかりしておりその歴史に公教育の充実がある。文化習慣的に日本においては、学習環境のデフォルトは学校なのだ。

多くのホームスクーラーが言うように、学校教育の肥大化した環境や、集団主義の思想が今後の時代に不利に働くことは想像できるだろう。

一方で、学校教育は当然国が国民のために準備してくれている最もわかりやすく安い機関であることからほぼ全ての人が行くことも事実だ。先述の「教育環境の設定」といった面でも基準になってくるのは学校であろう。

こと学力に関しては、視覚的なスタンダードは学校である。

例えば3年生の子が1年生の学習項目を理解できていないということになるとホームスクーラーが対外的な優位性を説明をするのは苦しくなる。現実として、ホームスクールをしているが基礎学習(読み書き計算)がおぼつかなければ世間は眉をしかめるのだ。

つまりは、学校でやっていることが基準になることは避けられない。守破離の精神ではないが、まず同年代の子どもができて当たり前のことができなければ「ホームスクール」での成果も霞む現実がある。

さかなクンのように、一芸に秀でれば(彼の場合、一芸にとどまらないが)世間の注目は浴びるだろう。その場合、結果的には基礎学習云々は問題ではないのも事実だ。

しかし、そう言った光り輝く才能が開花するケースは非常に少なくあくまでも現実的に言って「文才がある」「絵が得意」「音楽のセンスがある」なども客観的に見て評価されるレベルにまで磨き上げる必要があり、そこにいたるまでには相当な苦労を強いられるだろう。

日本人の評価基準はやはり学校にあると考えるのが妥当だ。であれば、ホームスクーラーが日の目を浴びる(嫌な思いをしない)ためにはそう言った社会的な目から見ても「がんばってるなぁ」と思われる必要があると考える。年齢基準以上のことができれば評価されるのだ。「あたりまえ」ができて初めて「すごい」に挑戦できる。

ホームスクーラーとして最も怖いのは、ある日突然「それって、ホームスクールじゃないとできないことだったの?」ということに気付くことだ。

「すべて人との比較ではない」ということは頭に入れつつも、日本の教育の社会的評価軸はあくまでも学校にあるということは理解しなければいけない。

3、日本では「ホームスクール=不登校」である。

再三言っているようにホームスクールという学習の方法はスタイルとして芽吹いているとは言え、国内において確立された学習方法ではない。不登校生が「家や塾などで何かしらの勉強をしている」「学びを得ている」という状態を西洋的に表現したいわば「そういった人たち」の呼称であり、ごく一般的にはホームスクール生は「不登校児」という扱いになる。

個人的に不登校という響きにはネガティブな要素があるためホームスクールという言葉を輸入して国内の印象を変えていくことは望ましいことであると考える。

一方で、不登校は消極的不登校(ドロップアウト)と積極的不登校(オプトアウト:ホームスクーラーはこっち)にも分類できることから、一概に全ての不登校児がホームスクール生であるとは考えていない。

不登校>ホームスクール

といった構図で、ホームスクールは不登校の一種だが、不登校が全てホームスクールであるとは限らない。

ただ、ホームスクールをこれから始める人にとって、必ず押さえておきたいのは不登校がすでに容認されている日本国内において、ホームスクールが認められない、ということはないということだ。本人が不登校を希望しており、家庭で学習を進める環境が確立できるのであれば、胸を張ってホームスクールを行うことができる。

ちなみに、地域差はあるが、ホームスクールに対して否定的な対応を取りがちな教育現場の存在も耳にする。これは希望者側(家庭側)の表現の仕方により誤解を生んでいることも考えられるのでここで少し触れておきたい。

いたってシンプルにいって、教育現場は「ホームスクール」という新しい呼び方に過剰反応している。学校としては、学校には来ることが当然なわけで、ここで「ホームスクールをするので大丈夫です」となっても、「それはいいの?」となって当然だ。

さらに保護者が「うちは不登校ではなく、ホームスクールなんです。」といったわかりにくい表現をしている場合はさらに現場を混乱させる。上記の通り、ホームスクールは不登校希望者なのだから、教育現場への説明は「本人が不登校を希望している」で十分なのだ。

不登校児はそれなりにいるため、(おかしな話ではあるが)「ホームスクールをします」というよりもスムーズに話が通りやすい。

その上で、家庭での学習環境が整っていることや、実際のホームスクーリングに対する意気込みなどを説明できればお子さんも保護者も「学校」という強力な協力者を得ることになるだろう。(実際我が家も図書館を使用させていただいた経験がある。)

公教育機関へのアプローチの仕方を事前に検討しておくことはスムーズなホームスクール開始を助けるだろう。

4、ホームスクールの内容は各家庭での裁量による。だから第3者機関の冷静な目を。

大抵のホームスクール家庭の方針としては、

「子どもの興味関心に沿ってゆったりと学習を進められる環境を設定すること」

またはそれに似通ったものであることが多いように思う。

その子に合った学習環境を提供するという原理原則こそあれ、それ以上の進め方はあくまでも自分たちで見つけて行かなくてはいけな現状がある。(一緒に進める親としてはそれが楽しみでもある。)

しかし、義務教育家庭の年齢にある子どもにとっての主目的である、心身の成長、基礎学習の取得に関して「このようにすすめましょう」という明確なガイドラインはない。そして、ホームスクールにおいては今後もそういったものは出てこないと考えるべきだ。なぜなら自由な学習環境こそがホームスクール生が究極的に求めているものであるからだ。

ここでも注意したいのは多くの家庭において、親は教育の専門家ではないということだ。子育てをしていると当然子どものことはなんでもわかるという気にさせられる。僕自身もそうだ。ただし、然るべき情報を仕入れ、独りよがりにならないように気をつけたい。なぜなら子どもは親に従い、その成長は取り返しがつかないものになるからだ。

子どもの発達には客観的なサポートも絶対的に必要だ。つまり親とのツーカーの関係性だけではなく、心が通じ合わない人たちとの理不尽なコミュニケーションも僕は成長の過程には欠かせないものだと考える。とくに学習においては親はバイアスをかけてしまうところがあるため、冷静にその子の能力を分析して、内容をデザインできる第3者の存在は必要だ。

つまり、ホームスクール家庭はホームスクール支援協会など国内のサポート機関や情報が集まっている所へ積極的にアクセスをし、客観的意見を取り入れながら教育環境を整えていく方が良い。

前述の通り、学力に関しては明確な評価基準として見られるためないがしろにはできない部分であるし(だからといってみんながみんな天才である必要はない)、総合的に見て大きな遅れを取っていないことが本人のためでもある。

誰しもが想像できるように、日本社会(に限らず)は身体能力にせよ、学力にせよ、同年代のそれと比べてできなければ本人は嫌な思いをするだろうし、自信もつきにくい。逆にどれも人並み以上にできれば周りからの自信もつきやすい。興味の広がりや好奇心にも拍車がかかるだろう。

そういった「事実」と向き合う冷静さもホームスクール家庭には求められるが、人間冷静であることは非常に難しいものだ。子どものこととなるとなおさら。

各家庭の裁量によるところが大きいホームスクールだからこそ、情報の網は広げておきたいものである。

--

--