“Optout” と “Dropout”の違い

離脱と、脱落の違い

ホームスクールは学校に行っていないというその見た目から、いわゆる「不登校児」との区別がされないのが一般的です。

私はいちホームスクーラーとして、通学しないという意味での「不登校」という表現に何ら違和感はありません。

しかし、多くのホームスクーラーが悩んでいるように、この「不登校」という言葉には社会的にネガティブなイメージが詰め込まれているのも知っています。


社会不適合者というレッテル

不登校→不適合という考え方があるのかもしれません。これは誰も言いませんが、不登校であることは少なからず「なにか理由があって」とか「かわいそう」「助けが必要」というニュアンスを含みがちです。

これには、とても頭を悩まされます。


「社会から脱落」といった印象が強い

なぜこういったネガティブイメージがつきまとっているのか。

それはおそらく社会全体が

<正解主義だから>

です。

「こうしないといけない」「みんなやってる」という集合主義は「正解」を生みます。

いわゆる「みんながやってる普通」が正解で、それ以外は不正解、といった思想ですね。

これが教育で言えば、ドロップアウトという考え方につながっています。

ドロップアウト(脱落)は「かわいそう」だし「助けが必要」

学校に行っていない→不登校→ドロップアウト→oh, no

です。


ただ、ここで忘れないでほしいのは積極的離脱を実践する人たちもいるということ

ホームスクールは世界的に見ても広がりつつある教育の選択肢で、「学校に行けない」のではなくて、「行かない」ということを前向きに実践しています。

離脱していくこと

“Optout”

オプトアウトといいます。

既存の環境から離脱していくこと。

たとえば「留学」はオプトアウトの好例ですね。

日本という環境から積極的に出ていっています。

ホームスクールも教育の選択肢の1つで既存の「日本の学校の授業」というサービスから出ていく、という思想です。


正解は無い、という事実。

「大人の言う正解のパスライン」を通ってきたのに、この道が「正解だった」と思っている人はどれだけいるのでしょうか?

今の仕事、生活、自分に満足しているひとはどれくらいいますか?

「私は平均的に見て幸せ」

という人はいるかもしれません。

でも、「平均的に見た幸せ」とは誰の幸せのことでしょう?平均的な幸せのレベルが上がればあなたの幸せも自動的にあがり、レベルが下がればあなたは幸せでなくなっても良いと思えるのでしょうか?

OPTOUTという考え方の人たちは、既存の学校社会で求められる平均的な力ではなく、自分の興味・能力が活かせる社会クラスタを見つけ活躍をしようとしています。

つまり、「自分にとっての正解」を創造する動きです。

学歴が人生の成功を意味する時代はすでに終わりました。

働くにしても、企業一択の社会構造はもうすでに崩壊しています。

現に企業に属さず個人で生計を立てる人たちは増えており、学歴はもちろん、国籍、性別、年齢など一切無視した価値創造が進んでいます。

これからは個人が各々の強みで食べていくような時代になります。

そういった中で、教育の内容を見直すこと、「今、目の前の子どもに何が必要なのか」を考えた一つの結果が積極的な離脱-Optout-なら、それはひとえに「不登校」としてくくられるべきではないと思うのです。


Optoutであるということに誇りを持とう

今、教育の先駆者としてホームスクールをやられている家庭には、こういった心づもりで取り組んでほしいのです。

不登校というあいまいな言葉をあえて使わず、DropoutとOptoutという考え方をいつも持てば少しだけ説明が楽になるような気もします。