ネットでお金を払う対象が「便利なもの」から「おもしろいもの」に広がった感覚
これまで、ネットでお金を払う対象は「便利なもの」でした。でも今年に入って、便利なものに加えて「おもしろいもの」に払うことができるようになった自分がいます。どういうことなのでしょうか?
まず、いま有料で使っているネットサービスなど
ネットで使っているサービスなどで、お金を払っているものを羅列してみます。
- Amazon
- Kindle
- Evernoteプレミアム
- ブログ運営用サーバ・ドメイン
- はあちゅうのエッセイ(note)
- 石田衣良のメルマガ
(以上も、以下も敬称略)
便利なものと、そうでないもの
で、1〜4はすべて「便利なもの」です。
ネットがなかった頃にはできなかったことが、できるようになったからお金を払っています。
今回注目したいのは5・6です。
どちらも今年になってから購読を始めたもの。わたしの場合、紙の本も好きなので、これらを読まなくても「読み物」には困りません。机に未読の本が積んである状態だし、これらを読むより、積ん読本を先に読め、と言われてしまいそうです。
でも事実として、金を払っている。
さらに5・6は便利でもない。たとえばKindleであれば、本を「どこでも買えて」「どこでも読める」という便利さがある。本来であれば、Kindleがあれば、これらは読む必要ない。
でも事実として、金を払っている(大事なので繰り返してます)。
どうして金を払っているのか?
短く言えば「おもしろいから」に尽きるでしょう。
だけど同じくらいおもしろいものは、本屋に行けばいくらでもあります。いや、ほんと。はあちゅうのエッセイもおもしろいし、石田衣良のメルマガもおもしろいけど、両者とも本を出しているわけですしね。
じゃぁ、なんでだ!? なんで金を払うんだ!?
考えた末に1つの結論に至りました。
わたしなりの結論で、人によって違うのでしょうけど、「無気力で読める、良質のコンテンツをダラダラ読みたい」というのが私の答えかもしれません。
わかりますか?
雑誌って血眼になって読むものじゃないでしょ?
大事なところに線を引いたり、ノートに抜き出したり、必至になって「学び取ろう」とするものじゃないでしょ?
テーブルの上に置いてあったりして、暇なときに手にとって、ダラーッと寝っ転がって、パラパラめくって、惹かれたページだけしっかり読んで、飽きたら閉じて、あとでまた開いて、……みたいに牛が反芻するように、くちゃくちゃと味わうものだと思うんです。
それが雑誌のおもしろさ。
それをネットに求めていたんですが、巷にゃブログが溢れかえっていて、良質の記事を探すための労力が大きくなってきました。いや、ほんと。
そんな中で、安定した品質のコンテンツが定期的に届く、というのはありがたい。雑誌の購読に近い感覚なんです。
そういう意味ではやっぱり「便利」なのかもしれません。
無気力に読める良質のコンテンツが定期的に届く便利さ、に金を払っているのかも。
有料だからできること
無料だと有象無象が混ざり込むんです。
つまらないコンテンツが混ざり込むとそれを選ぶという労力が発生する。だから有料であることの価値のひとつは『発信者側が「これは有料に値しない」というコンテンツを配信しないこと』にあるとさえ思っています。
ある程度の品質のものが届くという安心感。
やっぱりこれは雑誌に近い感覚だと思います。
これからの有料コンテンツで大事な要素は
- この人のコンテンツなら毎回クオリティが安定しているという安心感
- 毎回同じようなフォーマットで届くこと(突然長文になったりしない)
- コンテンツの方向性がいつも同じ
どれも共通して言えるのは「安心感」。水戸黄門を見るときの安心感と同じです。いつ見ても必ず印籠が出て終わるのは分かっているけど見ちゃう。むしろ安心して見ちゃう。
「どうなるの?」とハラハラする物語もいいけど、最後にちゃんと気持ちよくなれると分かっていて見る物語もいいものです。
わたしが今のところネットで見たいコンテンツってそういう安心感のあるコンテンツなのかもしれない。尖っている人はいつも尖っていていほしいし、丸い人はいつも丸い記事を届けてほしい。
はあちゅうさんはその辺分かってる感じがして好きです。ちゃんと熱量とか方向性の違う記事は別の連載にしている。見たいものだけ見られる。そういう心遣いがネットには必要なのでしょう。