高野山 in the sun

お盆休み、家で毎日高校野球を見ながらだらだら過ごすのも悪くないが、せっかくの休みだからどこかへ行こうと思い、以前から気になっていた高野山へお参りすることにした。高野山は今年でちょうど開山1202年という節目の年らしい。ちなみに高野山は和歌山県にある標高約1000メートルほどの山々の総称で(高野山だからといって標高583メートルではない)、平安時代に弘法大師、またの名を空海(英語名スカイ・シー)が修行の場として開いた真言宗の聖地といわれ、総本山である金剛峯寺(こんごうぶじ)を中心に数多くの寺院が密集する場所でもある。そういや、そんなことも習ったなあと薄れゆく記憶を呼び戻し、いざ出発。事前に調べたルートを電車、ケーブルカー、バスに乗って移動する。高野山に近づくにつれ、標高もしだいに高くなっていき、耳がキーンとしてくる。こんな状態でかき氷を食べたら頭と耳が同時にキーンだなと思った。

そんな中、外国人観光客の集団がでかい荷物を携え、車内に乗り込んできた。体のごつい男性がムキムキの筋肉をふるわせながら荷物を次々に私の頭上の荷物棚に乗せ始める。私の隣には金髪の外国人女性が座った。なぜか知らないが胸がドキドキする。耳はキーン、胸はドキドキ、いい香りがプワーン。目的地は京都ではないが、やけにギオンが多い旅だ。

そうこうしているうちに高野山に到着。まずは高野山の信仰の中心である奥之院を目指す。当日の和歌山県の最高気温は32度。しかし、奥之院までの杉林に囲まれた道のりでは、体感温度が20度を切っているかのようだ。数々のお墓や供養塔から発せられているであろう霊的なものも、暑さを感じさせない一役を買っているのかもしれない。

ハート型の門扉。お墓もいまや個性の時代か。

彼は石の上にも三年どころか、いったい何年そこに座っているのだろうか。

やけに注意をうながす看板だ。頭上と足元、そしてもちろん前方も見なくてはいけない。左右にも見所はたくさんあって、こんな指示に従っている場合ではない。

姿見の井戸に到着。姿見の井戸とは、【昔からこの姿見の井戸を覗き込んで、自分の影が映らなければ、三年以内に亡くなってしまうと言う、怖い言い伝えがあります。しかし最近では、自分の寿命を試そうと覗き込む勇気有る人も多いようです】とのこと。姿見の井戸には人だかりができていて、順番に井戸を覗き込んでいる。もちろん私も覗き込んでみた。結果はここでは公表しないが、もしいまから三年後、ブログの更新がぴたりと止まってしまったら、「ああ、あのとき影が映らなかったんだな」と察してください。

水向け地蔵に水をかける参拝客の方々。水をかけ、願をかけ、中には肩にかばんをかけている人もいる。かけるのに忙しい人だ。よく見たらメガネもかけているではないか。

そしていよいよ奥之院のゴール地点、弘法大師がいまも眠っているといわれる御廟(ごびょう)に到着。が、まさかの撮影禁止。仕方なくカメラをかばんにしまい、建物内に入り、ここはちゃんとお参りする。「三年後もブログが続いていますように」

奥之院の涼しい杉林を抜けると、容赦ない8月の太陽の光が全身に降りかかってくる。

日陰のアスファルトをたどるように不自然な歩き方で無事に金剛峯寺に到着。参拝前にまずは手を清める。清めなければならないのは手以外にもあるのは承知だが、ここは手だけで我慢。

思えばここに来るのは小学校の林間学習以来、およそ20年ぶりのことだ。当時がなつかしく思い出される。と思ったのは気のせいで、結局何も覚えていなかった。

「帰りのバスとケーブルカーと電車が空いていますように」お参りをしてから境内をぶらぶら。

20年前にもこの鐘はあったのだろうか? まったく覚えていない。

空よりも池に映った空のほうが青い不思議。

願いごとが書かれた護摩木を積み上げたもの。何だかひきわり納豆みたいだ。

もうひとつの名所、壇上伽藍(だんじょうがらん)はがらんとしていた。

どうでもいい写真を撮っていたら30分に一本のバスに乗り遅れてしまった。

ああ、高野山楽しかったな。また来よう。