Born In JPN

BGM:Paul Weller「Into The Tomorrow」


ガブリエル・ガルシア=マルケスの『ぼくはスピーチをするために来たのではありません』を読んでいる。『百年の孤独』等を記してノーベル文学賞を受賞した際のスピーチまで読んだのだけれど、ガルシア=マルケスと言えば誰でも思いつくようにラテンアメリカを出自とする彼の歴史認識や記憶が根強く刻み込まれた語りとなっていて面白い。ガルシア=マルケスはスピーチを嫌ったそうだが、私はこんなスピーチなら是非生で聴いてみたいなと思わされた(スペイン語も分からないのに)。

さて、読んでいて彼のそうした出自について思いを巡らせてみたところで、ふとこの自分自身はどうなんだろうという気がしてきた。ありがちな錯覚に反して日本とアメリカ文化の付き合いが戦前からはじまる相当に長いものであることは蓮實重彦『随想』を読めば分かることなのだけれど、生まれ落ちたその時点で既にアメリカやイギリスや諸外国の文化がごちゃまぜになった「日本」という国に生まれ落ちたことは果たして私のアイデンティティ形成に大いに役立ったのか。それとも否か。

ブルーハーツは「生まれたところや皮膚や目の色で/一体この僕の何が分かるというのだろう」と歌った。その歌が看破するように、人のアイデンティティにおいて人種や民族性というものはそれほど大した役割を持たないものなのかもしれない。それもひとつの正論ではあると思いながらも、しかしそれでも私は日本という国に生まれて日本という国で育った日本人である。恐らくはこの国と運命を共にするだろう、とも思っている。

そんな私にとって、日本という国というか環境や風土が齎した影響は計り知れないものがある。私は多分パン食ではなく米食を好み続けるだろうし、ミソスープを飲み続けるだろうし、日本映画や日本文学を愛好し続けることだろう。具体的に言えば小津の映画を観て感動したり、村上春樹氏を原語で読めたり『カウボーイビバップ』に原語で触れられたりすることを幸せに思うことだろう。それがたとえシニカルに言ってしまえば外国で生まれたもののコピーであるとしても、私は日本という国で器用に組み替え直されたそうした文化を愛好し続けるだろう、と思っている。

私は意識していないが、日本に生まれたということはそれほど根強い問題なのだ。文学はしばしば場所に縛られて来た。ガルシア=マルケスにおいてのマコンド、フォークナーのヨクナパトーファ郡、大江健三郎氏の四国の森、中上健次の熊野。いずれも閉鎖的といえば閉鎖的だが、しかしその閉鎖性を突き抜けるというか内側から破ってみせるような迫力に満ちた作品ばかりだ。生まれ育った場所に徹底して拘ってみることで、あるいは辿り着ける普遍性というものがあるのかもしれない。

福田和也氏と宮崎哲弥氏の『愛と幻想の日本主義』を読み返していたら、どうしても日本で生まれ育った人間がものを表現するにあたっては「カントリー」や「ネーションステート」の問題が避けては通れないものとして浮かび上がって来るようだ。歌詞が英語であろうと J-POP が J-POP の特徴を(悪く言えば臭みを)帯びているように、日本から生まれるものには日本特有の何かが付き纏う。それは分かる気がする。だけどそれが何なのかは私には言語化出来ない。私は何を隠そう海外に出たことはないので、自国を客観視したという体験が一度もないからである。これは不幸なことなのだろうと思う。

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