むちゃぶり

2050年の社会課題解決のために、大学と企業がなすべきことを提言せよ

Chiaki Hirai
Inside Hitachi Design
Jul 7, 2021

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「2050年の社会課題解決のために、大学と企業がなすべきことを提言せよ」。むちゃぶりは、芸人の世界の話だけではない。組織の中で働いていれば、時々思い出したようにそれはやってくる。会社の副社長から突然に「指令」が舞い降りてきたのは、2016年上半期。「京都大学と日立の共同研究テーマとして推進せよ。以上」 みたいな。アサインされたメンバーは4人ほど。何から手をつけどう進めるべきか見当もつかなかった。

先に結果を紹介すると、4年後、「Beyond Smart Life」 という本の出版へと結実した。2021年5月には、当時の日立社長が、今を時めくオードリー・タン氏(台湾のデジタル担当大臣)に、このプロジェクトの内容を紹介した(記事)。

副社長の命で始まり、社長が社外向けに使ったのだから、このプロジェクト、さぞや支援厚く、優秀なブレインを集め、先進的な分析手法など駆使して推進したのだろうと思われるかも知れぬがさにあらず。研究費はほぼゼロ、時折「今時そんな悠長なことやっていていいのか?」との声がどこからか聞こえてくる。佳境に入ったところでメンバーほぼ全員が異動でいなくなる。それでも完遂できたのは、実働組織の長が意志を持ってこのプロジェクトを守ってくれたからで、まことに、「遠くの幹部より近くの上長」である。ちなみに、チームが駆使した「先進的な分析手法」はと言うと、ほぼ「放課後のサークル部屋の雑談」。会社トップの発信には、こういう雰囲気でできた(こういう雰囲気だからこそできた)ものもあるということは特筆しておきたい。組織の中で生きる人には思い当たる節もあるのではないかと思う。

かような雰囲気で出来上がった本であるがゆえ、そう説教くさいことが書いてあるわけではない。京都大学の多くの先生方との対話を通し、我々が考えたことをまとめている。その先生方とは、人類学・霊長類学、西洋史学、経済学、東南アジア研究、社会心理学、宇宙物理学、不便益、昆虫生態学、応用生命科学、神経生理学、アフリカ研究、公共政策、哲学。

これだけの先生との対話を雑談の鍋に入れて煮詰めたら、一体何が出てくるか。やってみて驚いたのは、関係ないと思っていた分野間の意外な共通性である。宇宙や昆虫であっても、やはり人間についての問いを発しているということから来ているように思う。そして、この本の結論として、「いたれりつくせりの便利のSmart社会ではなく、多様な人が主体的に参加して貢献する余地のあるIncomplete な社会」の価値を訴えた。キーワードは、「主体性」である。主体性を発揮して社会に参加しよう。美しい。一件落着。大団円。

しかし、である。この稿の最初に書いたが、このプロジェクトはむちゃぶりから始まった。そこに主体性はなかった。むちゃぶりがなければ主体性の重要性を主張するこの本は生まれなかった。この皮肉をどう考えるのか。といって、やれと言われたからやっていただけでもない。兵糧攻めのような中を耐えたこともあった。そこに主体性は確かにあった。そこで浮かんでくるのは、そもそも主体性ってなんだ? という問いである。

本の中では、主体性に対する疑問を、神経生理学の話題に絡めてまず出している。主体性だと思っているのは、脳内の無数の独立回路の情動の総体に過ぎないのでは。これは、カントとヒュームが18世紀に論争して以来の哲学的問題だそうだが、科学がその領域をいよいよ明らかにするかもしれないという内容である。

そして、本の最終章で哲学者の出口先生が主体性について「われわれとしての自己」と題して語るが、実は日立側執筆メンバーの頭の中も“???”と疑問符で一杯である。その説明を引用すると、

“システムとしての自己は、「多数」のエージェントからなる「一つ」のシステムという点で、多数性と単一性を併せ持った存在であり、同様の二面性を持つ(「わたし」ではなく)「われわれ」と呼ぶべき存在である。”

私は、共著者ではあっても哲学の徒ではないから解説はできない。以下に書くことは、あくまで個人的な感想文である。

システム技術をバックグラウンドに持つ私にとって、理解の糸口は、この章の自転車に乗る「わたし」のくだりにある。自転車、道路、大気、重力圏といった様々なエージェントが「わたし」の身体行動に参加しており、自転車に乗るということはそれらマルチエージェントによる共同行動なのだという。この説明、自転車に乗るロボットを設計するという立場で考えてみると実に分かりやすい。ロボットの頭脳には、自転車、道路、大気、重力をモデル化したモジュールが組み込まれ、ロボットとこれらモジュールとの相互作用によって自転車の運転がなされるはずである。このときロボットが「主」でそれ以外は「従」だとするのは、開発者の頭の中にある幻想である。プログラムにまで落ちたとき、そこにあるのは、通信し合う複数のモジュール(エージェント)でしかない。

外界と相互作用するシステムは、外界のモデルを内部に持ち、そのモデルを通して外界と相互作用するのである。おそらくは人間も同じように、外界のモデルを頭の中に作っている。例えば、停止したエスカレーターの上を歩いて降りてくるとき、最後にステップの段差が変わって、「かっくん」となった経験はあると思う。人間は、実物の階段の形状を確かめながら降りているのではない。頭の中に作り上げた「段差が等しい階段」の上を歩いているのである。頭の中の階段はまぎれもなく私の一部である。階段に限らない。自分の家族も友人も同僚も、全て自分と相互作用するものは私の頭の中にあるモデルがあり、そのモデルが私の意思決定に加わっているのである。

現在、高度に発達したデジタル制御システムの中にはデジタルで表現した外界のモデルが入っており、これをデジタルツインと呼ぶ。制御ロジックは、外界とではなく、デジタルツインの通信(会話)によって、制御の意思決定を行う。想像するに人間の頭の中には、外界の「ニューラルツイン」があり、「主体」とニューラルツインの会話によって主体の意思決定がなされる。ニューラルツインは、自転車や階段のような無機物だけではない、家族、友人、同僚、隣人も、そのニューラルツインが頭の中に存在し、その中で行われる会話を通して自分の意思決定がなされている。ニューラルツインはまぎれもなく自分の一部である。つまり、自分という存在は自分だと思っている自分だけではなく、多くの他者のコピーされた人格との総体である。いわば、マルチエージェント型人格移植OS。

マルチエージェント。だからなんだ? なんなのだろう。私にとっては少なくとも一つの謎が解けた。昔から、夜見る夢のシナリオは誰が書いているのだろうと不思議に思っていた。自分でしかありえないはずだが、そんな荒唐無稽な発想力など持ち合わせていない。しかし、ニューラルツインが勝手にふるまっているとしたら。昔、ヌーヴェルヴァーグという映画の手法があった。役者の性格付けだけして、シナリオなしに演じさせてストーリーを創発させる。ニューラルツインは、外界のコピーであって自律的に振舞える。シナリオがなくても、その相互作用によってストーリーは生まれる。夢のシナリオは、「われわれとしての自己」が書いていたのである。この脳の動きは、おそらくは寝ているときに限らない。今、こうして書き物をしている間にも、多くのニューラルツインが裏で会話し合っているはずであり、そのある部分を「主体」だと自分が思い込んでいるにすぎない。

マルチエージェント。だからなんだ? なんなのだろう。こうも言える。差別もヘイトも、その対象は自分が作り出したニューラルツインに対して行っているにすぎない。ニューラルツインを離れた現実など存在しないのだ。つまり、自分の脳内の一部を差別し、嫌っているにすぎないのである。だからといってそういった感情から直ちに解脱できるものではないが、そうと知ったらその滑稽さを笑うことはできよう。

さて、むちゃぶりと主体性の話に戻る。本の中の「われわれとしての自己」には、こうもある。

「わたし」のすべての行為は、「わたしが・・・する」として記述され理解されてきた。この定式化は今や、「私は・・・するよう(われわれによって)委ねられていると全面的に書き直されるべきである。”

そうなのだ、むちゃぶりをしたのは、私の中にあるニューラルツインであり、それは、他者であると同時に自己なのだ。私は、このテーマを遂行するようわたしの中のわれわれによって委ねられたのである。それは、むちゃぶりであると同時に主体的でもあったのだ。

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Chiaki Hirai
Inside Hitachi Design

Hitachi, Ltd. Research and Development Group, Global Center for Social Innovation