佳央理さんへ 2017年4月29日
マスナリジュン
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ジュンさんへ 2017年5月6日

香りが記憶を引き出しやすいというのはよく言われることだよね。
聴覚とか視覚と違って嗅覚は、扁桃体や海馬(記憶や情動を司る部分)に直接信号が行くのだって。しかも、その香りが引き起こす記憶というのは10歳くらいまでのものが多いという話を聞いたことがあるよ。理由は、記憶を司る脳の部分って成長段階で変化してゆくからなのだって。つまり10歳あたりを過ぎると、脳の中心から離れたところが記憶に関わってくるということなんだね。
私もある香りから子どもの頃に通ったエレクトーンの先生の家を思い出す。そこに通っていたのは10歳くらいまでだったな。でもその香りはその辺で嗅げる香りではないので(つまりラベンダーとかジャスミンといったようなよくある匂いではなかった)私の場合この「香りが記憶を引き出しやすい」という話題が「この香りの記憶」を引き出し、その記憶の中の香りが先生のお家に入った瞬間の緊張感のようなものを思い出す…そんなパターンになっている。

「海馬」という言葉をWikipediaで調べたらラテン語でHippocampusなんだって。これは “ギリシャ神話に登場する海神ポセイドンがまたがる海馬の前肢の形に似ていることから※” この名前になったのだそう。(※Wikipediaの「海馬」のページより:https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E6%B5%B7%E9%A6%AC
ちょうど一昨日クリュニー中世美術館に行ったのだけれど、その展示品の中に手のひらに収まりそうなタツノオトシゴの装飾具があったの。タツノオトシゴはフランス語でHippocampeと呼ぶのだけれど「hipp(o)」が付く言葉は馬に関係あるんだよ、と一緒に美術館に行った友人に教えてもらったばかりだった。調べたら、日本語でもタツノオトシゴのことを「海馬」と呼ぶ(アシカとかも海馬と呼ぶみたいだからその辺いい加減だよね)。
脳の海馬を取り出してタツノオトシゴと並べた写真があったのだけれど、その形はとてもそっくりだった。
鯛のタイみたいだね。
……ちょっと違うね。

クリュニー中世美術館は1~3世紀に作られたローマ時代の浴場跡に建てられた美術館なの。その時代にすでに熱いお湯、ぬるいお湯、冷水と浴場が別れていて、プールとか運動をする場所も同時に整備されていたのだって。スーパー銭湯の歴史は案外古かったんだねえ。
外からもお風呂の跡を見ることができるから、通りかかる度にフェリーニの映画に出て来る浴場のシーンとかテルマエ・ロマエとかを想像しながら覗いていたのだけど、美術館の中に入ったのは初めてだった。
冷水浴場が展示室になっているから2000年前のレンガ壁を見ることができる。そこにはノートルダム寺院にもともと設置されていた像が首を失ったり、体を失ったり、顔を欠いたりして立ち並んでいるのだけれど、不思議にどこかから音楽が聞こえてくるような場所だった。
彼らのからだは声を出す穴も、声を響かせる管も通ってないのに、ものを言わぬということが空間中に響き渡って、ものすごい気配だった。

クリュニー中世美術館には有名な «貴婦人と一角獣» のタペストリーがあるのだけれど、6枚のうち5枚は五感を表した絵になっている。一角獣に鏡を見せているシーンが「視覚」、小鳥に実をあげているのが「味覚」、摘んだ花に触れているのが「嗅覚」、鍵盤楽器を中心にしているのが「聴覚」、一角獣の角に触れているのが「触覚」というように。
私は一枚いちまいの前に立って眺めながら「触覚」だけは他のものみたいに頭を中心とした体の真ん中で起こっている出来事じゃないんだなあ、ということを考えていた。匂いは鼻を通じて喉に落ちてゆくし、音もなんとなく鼻や喉に震えがやってくる。目で見ることも頭蓋骨の内部で行われている。なのに触覚だけは、中心から離れてたところに独立しているんだなあ、と。(頭付近にだって触覚はあるのだけれどね)
どうでもいいことなんだけど、でもふと、だから私は感じたり予感したり思い出したり違う景色を見ながら踊ることができるんだなあ、ということを考えた。
踊りとしての動きを作ろうとする時わたしは「自分のからだが外部との関わりによって感じた何ごとか」を身体の動きとして提出することが多い。過去の記憶のワンシーンだったり、考えたことを寓話みたいに置き換えたことだったり、ことばにならぬ何かしらの気配だったり、色のことを考えることもあるし、温度を再現をしたり、文章を考えてそれを動きにすることもある。とにかく自分に触れ、関わったことなら何でもいい。
つまり過去の身体の記憶をひっぱりだしてきてそこから作ることが多い。
過去のすでにここにはないものと、現在の今あるからだということの中でどちらかを増幅させたり、でも実際ある身体のことは否定できやしないので引き戻されたりしながらその幻と遊び、制御する。
皮膚は動ききるという自分の役割を果たしながら、同時に受容し、自分へ感覚を還元する。
この仕事をするのが頭に近い場所だったら(目や耳や舌や鼻や喉の近くだったら)、私は冷静にこの絶え間ない感覚のやりとりの統御ができなかったかもしれない。たぶん自分の実体よりも感覚に溺れちゃう。
だから手や足とか踊りに使う部分が真ん中から離れていてよかったなあ、とそんなことを考えたよ。

*

私のTwitterネームの「@amayadori」は、12年くらい前に始めたブログの名前をそのまま使ったの。
雨が好きだからそれに関する名前にしたくて「トオリアメ」とか「アメアガリ」とか「アメモヨウ」とか「ニワカアメ」とか色々考えたんだけど、読みに来てくれるひとがあまやどりするみたいに立ち寄ってくれたらいいかな、というようなことで「アマヤドリ」に決めたんだ。
なにより「アマヤドリ」という文字の並びは虹っぽくて綺麗な色なの。
ちなみに私の本名の「アサヒロカオリ」も見事に虹色のグラデーションなんだよ。「ア」が熾える赤で始まって、終わりの「リ」はきりりと薄い紫。

色の話をすると私は文字に色が着いて見える性質を持っているけれど、世の中には4原色を感じられるひとがいるのだって。ある種の鳥と同じで紫外線を感じられるから、私にとっては一色に見える色の中に、何色かを見られるらしい。
鳥や魚や昆虫など、からだの色の種類が多いものの方が、感じる原色の種類が多いと聞いたことがある。人間も含む哺乳類は体の色がモノトーンのものが多いし、やはり視覚も、2原色を捉えている視覚を持つものが多いのだそうだ。

そうそう、何年くらい前かな、初めてモネの作品をじっくり見たときから、白にはいろんな色が含まれているように見えるようになった。
細かい色んな色が駆け巡って、結果的に白なんだけど、分解して見えるようになった。

私はね、自分が見ている世界や感じているものが厳密には自分だけのものなのだと子どもの頃知って、胸がつぶれるくらい落胆した。ほんとうの意味で共有することができない孤独に打ちのめされる気持ちだった。
でも同時にその限りのなさに途方に暮れつつ、感嘆もした。
同じこと、同じものがないなんて、奇跡的で永遠みたいなことだから。
それにたとえ自分の感じていることがそのままは伝わらなくても、伝えたい欲求を消すことは無理だ。
素晴らしいなあとか綺麗だなあとかこんな怖いことあったよとかわくわくするようなこととか、そういうことを身振りや言葉を尽くして説明する。
相手は、その人だけが持っている体や感覚、接してきた世界や積み上げてきた時間を以って、私の言葉を聞いてそれを想像してみてくれる。
「共有」というのは、そういう、お互い寄せ合わす水の際のようなのことでいいなと思っている。
ことによると相手に伝わるのは私の興奮だけかもしれない、でもそれでも構わない。
私には知り得ないことがほんのお隣にいるそのひとの中にはあって、私が働きかけた何ごとかによって、そのひとの中に、ことによると世界の中に、新しい何かが生まれるんだから。

*

今日もろくにお返事のようなものが書けずにひとりよがりな文章になってしまった。
感覚に忠実に伝えようとすると、なるべく限定しすぎずに、でもまさにそこに届くことばを掘り出そうとして掘り出せず、どうしても文字数が多くなる。「それ」とか「その」とかぼやけた文章で読みづらくて申し訳ない。
あまり悩みすぎるとお返事が書けなくなってしまうので、送ります。

そうだ、志村ふくみさん、パリに講演会にいらしたときに聴きに行ったよ。
志村ふくみさんの言葉はさすがに色を扱う方だなあと思うのだけれど、文字を見てもとてもいい色合いで文章が並んでいて、まるくて真摯できりりとしている。
石牟礼道子さんとの往復書簡、私も読みたいな。

ではでは、またお便りします。