ジュンさんへ 2017年4月26日
朝弘佳央理
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佳央理さんへ 2017年4月29日

ツツジがわらわらと咲いてきたよ。花はいいね。

ご近所さんの庭には赤や白のツツジが咲いていて、通行人の目を楽しませてくれている。

ツツジを見ると、子供の頃、3つ上の姉ちゃんとよく、ツツジの蜜をチュウチュウすって遊んでいたことを思い出す。もちろん佳央理さんも経験あるよね?

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いくつかの花は、思い出をひっぱりだしてくる。

黄色いチューリップは、中2のときに、ちょっと好きだった女の子にプレゼントしたときのドキドキと、うけとって戸惑っているそのコの表情と一緒に保存されている。

高校のときには、バンドでプロデビューすることが決まったひとつ年上のコに、一万円分のかすみ草をプレゼントした。抱えきれないほどのかすみ草と、そのコがギターを一生懸命弾く姿を思い出す。

バラの思い出はたくさんある。初めてお付き合いしたアメリカ人の彼女がつけていたバラの香水のむせるような香りや、お世話になっていたピアニストのお別れ会で祭壇にしたグランドピアノへ手向けられた山盛りのバラ、僕の17歳の誕生日に母親がテーブルに飾ってくれた一輪のバラ、etc…。

僕は花を贈る行為が好きなんだけど、それはまだほんの子どもだったころに、道に咲いていた野の花を摘んで母親にあげた時の、それまで見たことがないほどの笑顔が、とっても嬉しかったからなんだとおもう。

音楽と記憶が分かちがたく結びつくように、花もいろんな記憶とともにある。

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花は好きなんだけど、花の名前はなかなかおぼえられないんだよ。

結婚式のバイトを長くやっていたし、葬儀業界で働いていたときには葬儀専門の花屋さんへ派遣されることも多かった。若い頃に働いていたBARでは、スタッフ全員が生け花を習うことが必須だった。

そんなかんじでこれまで花と接する機会が多かったし、花が好きだから、平均的な同年代の人よりも花の名前を知っててもおかしくないんだけど、どうにもおぼえがわるい。

花の名前って、名は体をあらわさないことが多くない?おぼえられないのはそのせいかも。

たとえば、春を告げる花の一つの「オオイヌノフグリ」って、ネーミングセンスがひどすぎる。命名者にそんな名前をつけた理由を聞いてみたい。ちなみにこの花の別名を知ってる? なんと「星の瞳」。ちょっとキラキラ感が強いけど、こっちのほうがいい。

それから、シクラメンの別名、「ブタノマンジュウ」だって知ってた?モノ言えぬシクラメンに対するヘイトスピーチなんじゃなかろうか。シクラメンのみなさんは怒ってもいい。

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名前って、他人がつける名前と、自分が名乗る名前があるよね。

他人がつける名前は、その人にとってのイメージを反映させたものにすぎない。対象よりも名づけた人の内面が反映される。

自分が自分につける名前は、他人からこう見られたい、自分はこうありたい、っていう願望があらわれる。できるだけ僕は本人がつけた名前を尊重したい。

ネット上のアカウントネームは、その人の自己イメージが表現されていて興味深い。僕はずっと実名でやってきてるんだけど、佳央理さんのTwitterネームの「@amayadori」はどういう意味をこめたんだっけ?

最近はSNSのアカウントを複数持つ人が増えてるらしいけど、そういう人たちは自身のペルソナを、どうやって使い分けてるんだろう。僕はそのへんが不器用でとても真似出来そうにないよ。

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佳央理さんと出会って間もない頃にやった僕の写真展、『女性の美しさについての考察』の撮影をしていたとき、僕は被写体になってくれた人に、無表情でレンズを見ることをお願いした。

多くの人はカメラを向けるとすぐに得意の笑顔を作ってくれる。でも、笑顔って自分の内面を隠す鎧だったりするから、それを脱いだ状態を撮りたかった。振り返って、それは間違いだった気がしている。

その人が笑顔の自分を撮られたいと思っているのなら、無理やり鎧をはぎ取るなんて失礼で、本人が他人に見せたいイメージを丁寧に掬い取ればいいのではないか。今はそんなふうに考えている。

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「本当の自分」は自分の中のどこかに埋もれてるなんてのは幻想で、「自分」は自分で作り上げるしかないものなのかもしれない。

ジェミノイド研究で有名な石黒浩さんが『人と芸術とアンドロイド (日本評論社)』の中で、映画『サロゲート』を引用しながらこんなことを述べておられた。

「化粧をした自分と、化粧をしない自分のどちらが本当の自分ですか?」という質問に、我々はどう答えるだろう。

これは興味深い問いで、しばらく考えこんじゃったよ。

SNSアカウントやアバターに「本来あるべき自分」の姿を投影させて生きる。これは現実逃避にも見えるけど、いまの社会を読み解くヒントのひとつになる気がしている。

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世界の事物に名前をつけることは佳央理さんの言うように、「世界の他のものからしっかり区分されるけれど、同時にその名前に縛られ支配されることになる」。

名前に支配されないようにするためには、自分に自分で名前をつけて、服を着替えるように取り替えていくしかないんだろうか。Twitterのタイムラインをながめてて、ときどき強い非現実感を感じることがあるのは、このことと無関係じゃないかもしれない。

マルセル・マルソーの「Mask Maker」みたいに、いつか自分の作った仮面が顔から離れなくなって発狂してしまうんじゃないだろうか。

パーソナル(個人)の語源がペルソナ(仮面)であることは興味深い。

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「名付け」と写真の共通点といえば、僕はモノクロ写真のことをイメージする。

佳央理さんも知ってるように、僕は基本的にモノクロ写真しか撮らない。これは写真を始めた20年前はモノクロの自家現像がカラープロセスよりもランニングコストが安かったから、という理由だけじゃない。

僕はかるい色覚異常があるんだけど、そのことにたいしてちょっとしたコンプレックスのような感情がある。他の人が見ている色を僕は見ることができない、ということに。

だから、僕はたとえば花や景色の色彩に心動かされて写真におさめても、その写真を介して他の人と感動を共有することはできない。だったらいっそのこと色を奪ってしまって、世界を白から黒へのグラデーションに押し込めてしまえば、色は各自が好きなように脳内補正をすればいいじゃないか、って思ったんだよね。

でも、いまはまたちょっと違う考えになっている。

色覚異常があろうがなかろうが、ひとりひとりがどんな色を見ているかなんて、確かめようがない。

名前をつけたとしても、それはどこまでいっても識別記号の域をでることはない。ライラックの花を伝える正確な言葉を僕は持っていない。便宜上その花には「ライラック」という名前が付与され、その色はパソコン上では「#C8A2C8」みたいなことになってるけど、それはなにも伝えてないに等しい。

名前とか外形的なことにあまりとらわれても仕方ないんだよね。

人は自分が見たいようにしか世界を見ない。見てる世界を誰かと共有することもできない。その孤独と諦観を腹の底に抱きながら他人とどうコミュニケートしていくのか、それが大切な気がしている。

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色といえば、最近、染織家の志村ふくみさんと作家の石牟礼道子さんの対談・往復書簡集『遺言(筑摩書房)』を読んだよ。

その中で、藍についてのやりとりがあるのね。藍を発酵させるのは満月の夜じゃなくちゃだめなんだって。

月の光がふつふつと発酵している藍の液面をやさしく照らす話がとても美しい。その時の藍は藍色というよりも紫に近い、と。もちろん僕は見たことがないんだけど、その情景が目に浮かぶ気がした。

いつか志村ふくみさんの染めた布を手にとってみたい。その時どんなことを感じるんだろう。

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ながくなった。
今日はこのへんで。

おやすみ。

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