トゥルトゥク村へと続くカラコラム山脈

シャングリ・ラに僕と行こうよ

インド最北流域からの報告

Hiroshi Takeuchi

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by Henry Wismayer

ケララ州出身のフランシスの100ペダルほど後ろには死が待っていた。彼の目は血走り、頭は力なく垂れ下がっていた。目の前に広がる終わりのない焦げつくような山地砂漠に顔は青ざめていた。彼はこのインドの最北端に、インド南部の蒸し暑い故郷から2,400マイルも離れたこの場所にバイクで来たのだ。

そして今、この旅で最も過酷な試練が彼の目の前に立ちはだかっていた…バイクで通ることができる中で最も高い山道、ラダックのカルドゥン峠への最後の12マイルだ。

シェアされた彼のストーリー、落ち込んだ気分、僕は激励の言葉や持ちあわせのボンベイミックス — 持っているものは何でも差し出した 。そしてまたトヨタにまたがり(後ろには緊急用酸素ボンベが搭載されている)、ドライバーのトゥンドゥプはときおり頭を振りながら孤独なモーターサイクリストの挑戦は続いていった。

遥か下には、レーの北部郊外のブリキ屋根たちが、まるで霧の中できらきら輝く雲母の塵のように広がっていた。

バイクで行くことのできる道の中でも世界最高峰であるカルドゥン峠の頂上に向かうモーターサイクリスト

1時間後、僕はバイクから降り、耳の周りのフリースを締め直し、カルドゥン峠の17,600フィートの頂点をその目に焼き付けた。

斜面を下っていると祈りの旗が冷たい風に音を立ててなびいた。ロイヤルエンフィールドのバイクに跨ったたくましいスカンジナビア人グループと出会った。彼らはレーからここまで旅をし、撮りためた写真を見ながら自分たちの功績を祝っていた。

カルドゥン峠に挑む冒険好き達に愛されるロイヤルエンフィールドのバイク

またある人たちはマギーインスタントヌードルとお茶しかメニューがない陳腐なレストランで身を寄せ合っていた。旅の途中にある巨大な広告看板に「1863年のスイス、ジュリアス・ミカエル・ジョアンヌ・マギーは食卓へ新しい味をもたらす化学調味料を開発しました。」と書かれていた。この食材とこの旅は同義語なのだ。

多くの点で、サイクリストのフランシスと僕の偶然の出会いがそれを証明しているように、カルドゥン峠への旅は満足のいく冒険だった。しかし僕はいつしかその頂上の向こうを目指していた。ここより更に北、ラダックとカラコラム山脈の間にあるヌブラ渓谷だ。

様々な意味でヌブラ渓谷は直感的に人々が想像するような伝説の楽園…シャングリ・ラとは正反対の場所だ。うねうねとした道を数マイル走った後、今も危険地帯であるパキスタンとの国境付近にたどり着いた。ここを通過するためには政府の許可を得て、いくつかのインド軍隊のチェックポイントを通過しなければならない。

しかしインドの少数派仏教民族の住居地であるラダックは、これまでも沢山の訪問者を迎え入れている。ラダックはヌブラのように、いつも何かが起こることを期待している僕たち旅行者を惹きつける辺境の地なのだ。

カルドゥン峠の尾根を着飾るプレイヤーフラグ

長年に渡る敵対意識に反し、僕が耳にした限りでは、そこは信じられないくらい穏やかな場所だった。まるで現代とは別の人種のるつぼのようだった。そしてこのラダックたらしめている静寂の空気こそが僕がこの旅で求めていたものだったのだ。

ナブラ渓谷の巨大な壁

モーターサイクリスト達が500ccエンジンの回転数を上げて引き返す中、僕たちは進み続けた。道が欠け落ちた谷道と歪んだ壁、所々に黒い斑点のように見える草食動物の群れが広がる草原地帯、そして僕たちは草木がまだらに生えているヌブラ川の氾濫原にたどり着いた。

広大なインダス川の支流であるシュヨク川とヌブラが交わる地点から南へ少し行ったところにあるディスキトという荒れ果てた村に到着する頃にはもう日が沈んでいた。この山道にある中では最も大きい集落であるその場所は、夕闇時にはすでに静かで、荒れた道をとおるのは人間よりも牛の方が多いくらいだった。

そこで僕達を歓迎したのは、ツェリング・アンチャクと呼ばれる、赤ワイン色のずきんを被った細身の僧だった。彼は僕達の共通の友人からのリクエストに応え、僕達に寝る場所を提供してくれた。

その夜、僕は大昔の旅行かばんにもたれかかった枕とともに彼のリビングで眠りについた。足先にはラダックで最も尊敬されている仏教修道院長 — シクス・リンポチェの写真が僕に向かって慈悲深く微笑んでいた。

東へと続くヌブラ渓谷の情景

翌日ディスキットとその周辺を探索するために僕たちは出発した。すぐにこの地域が長い間戦争と貿易によって形作られた場所 — 変革のフロンティアであったということがひしひしと伝わったきた。

チョルテンと呼ばれる聖なる仏教のモニュメントが、ディスキット修道院の斜面にそびえ立つ。

そこにあるツェリングの職場 — 修道院は、聖なる場所であると同時に、岬角の岩の上にそびえ立つその白い建物の佇まいは、まるで麓の村を守る砦のようだ。建物の中は古ぼけた菩薩のフレスコ画や、古代チベット通貨網様のシルクがつるされた天井、そして白き守護神マハーカーラが、この谷に旗を立てようとして非行の死を遂げたモンゴルの将軍の黒くシワだらけの頭と腕を丸め込んでいた。

谷を降りると、この文化的集合体の遺産に対する不快な感情は薄れていき、むしろ好奇心を掻き立てられた。フンデル村の外では、カシミールから来た2組の旅行客団体が広大な砂丘を目前に停まっていた。その地域一帯に生息するとりわけ気性が荒い外来動物が生息しているため、観光客たちは予定外の方向転換を余儀なくされていた。

毛が太く、背中に大きな2つの隆起物を持つ、気性の荒い250頭のフタコブラクダがその砂丘に生息していた。遥か遠いモンゴルのゴビ砂漠からやってきた彼らは、1947年のインド・パキスタン分離独立によって突然にシルクロードが分断された際にこの場所に取り残された。その時から、彼らはここに住み着いているのだ。彼らは今僕たちのような訪問者の行く手を阻むことで、まるでその時の仕返しをしているようだ。

フンデル村の砂丘を、フタコブラクダが旅行者の乗せて歩く

そうして僕たちは旅行客達ととも引き返し、ツェリングの質素な家のキッチンで食事をとった。ツァンパ(まずいお粥のようなもの)をバター茶で流し込み、僕たちはMaggiの人気の理由についてあれこれ議論した。しかし話題はいつしかトゥンドゥプとツェリングという乱れ髪二人組の、より礼儀正しく思いやりのある人間になれるのはどちらかという話へと変わっていた。ツェリングは空中でスプーンをぐるぐると回し、トゥンドゥプは守りの姿勢で彼の攻撃を躱していたが、ある直感的な議論に辿りついた時、トゥンドゥプは完全に無抵抗となり、止めどない喜びに浸った。

フンデル村の外の道で出会った巡礼者

遠く離れた場所からやってきた外国人が何か大きな助けを施した時、心からのもてなしでそれに応えるのがヌブラの人々の性分だ(あなたが不誠実なモンゴルの将軍でないかぎりは)。インドの軍隊の存在でさえそこでは穏やかだ。シュヨクとともにコバルト色の空の下西へと向かう朝 — ディスキットの尊大な106フィートの仏像のまっすぐ先 — 僕たちはすぐにソイズ村でまとまりなく広がる軍事基地を通り過ぎた。周辺の歴史的背景に沿って滑走が引かれていた。トゥンドゥプが言うには、冬になりカルドゥン峠に雪が積もると、兵士達が航空機を使って巡回教師を内外へ送り迎えするのだそうだ —いわゆる軍隊の利他主義というもので、これは 近隣のカシミール渓谷との間に手に負えない程の緊張があった以前は想像することもできなかったことだそうだ。

僕たちバイクの前にそびえ立つその谷は、僕たちを抑制から解放するエデンであり続けた。落ちてゆく太陽は長い影をイトスギの木々から救い出した。まるでトゥンドゥプのステレオから聞こえるダミアンギターのきらびやかなメロディーで踊るように、マーモットが大きな岩の間を駆け抜けていった。

山々が迫り、徐々に巨大化し、雪を被った頂上がその後ろから顔を出した。そして僕たちは道の終点に辿り着いた。

果てしなく広がるこの国境地帯を支配する憎悪にも関わらず、トゥルトゥクはこれ以上ないくらい穏やかな村だった。

その場所、小渓谷に佇む緑のオアシスは、ディスキットのまとまりなく広がる乱雑さを見た後では牧歌的な場所だった。人々もまた違っていた — 圧倒的にバルト語派イスラム教徒が多く、1971年の戦争によりインドがパキスタンを破ったあとその村は国境南部で孤立状態となった。外からの訪問者を受け入れるようになったのはほんの2010年からのことだ。

「私がここに最初に来た時は怖かったです」と、この観光業で働く前にトラックドライバーとして働いていたトゥンドゥプは話す。「でもみなさんとてもフレンドリーでした。」そして今でも村人そうだった。

トゥルトゥク村の子供達

丸石で舗装された小道を10分ほど歩き続けていたところだったと思う、優しそうな顔つきの女性が窓から顔を出し、僕たちに家に寄っていきなよと手を降ってくれた。僕たちは居心地の良い部屋であぐらをかくと、彼女の娘が裸足で僕たちに乾燥アプリコットをくれた — 村の特産品だ。そのしわしわの果物は、中庭の木で取れたもので、その木の太枝がこの家の梁を支えているのだと、その女性は身振り手振りで僕たちに教えてくれた。

窓の外の平和なトゥルトゥク村を見渡すと、この村が争いの絶えない国境からとても近くにあり、そしてこの山の楽園が今でも疲れ果てた訪問者へ救いの手を差し伸べる場所であることを知って、僕は安心した。

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Hiroshi Takeuchi

Medium Japanでボランティア翻訳をしていました (現在は違います) 。ここに書いてある記事はすべて当時に翻訳された記事です。私個人の見解または創作物ではありません。引き続き公開はしますが、質問または訂正リクエスト等は受け付けません。ご了承ください。