大ヒット・ゲーム「Pokémon Go」はいかにして生まれ、これからどう進化するのか?

開発の中心人物が語る前代未聞の大ヒット・ゲームが生まれた舞台裏

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By Steven Levy

Niantic社のCEO、Pokémon GoのデザイナーであるJohn Hanke氏とDennis Hwang氏。2016年12月13日、サンフランシスコのオフィスにて。

この夏、皆さんが何に夢中になっていたか、もちろん分かります。

iPhoneを目の前に掲げて街を練り歩きながら、ドードーやコダック、フシギダネを探していたんじゃないですか?何キロ、何十キロも歩きながら、私たちのリアルな世界に暮らすかわいいポケモンたちを探し歩いたのでしょう。でも肉眼で彼らを見つけることは出来ません。スマホのスクリーンを通してだけなのです。

彼らが発生する場所に赴き、モンスターボールを投げて捕まえ、街中に散らばる「ジム」でポケモンを育てるのですが、これらは全てスクリーンを通してです。そのスクリーンは、たとえるならランチボックスやトレーディングカードから飛び出して地下鉄の入口や学校、史跡に現れたポケモンたちが住む世界へ通じる小窓のようなものなのです。

多くの人が「Pokémon Go」に「取り憑かれていた」と言っても過言ではないでしょう。何千もの人々がこのゲームにのめり込みすぎて危ない目に遭いました。木に突っ込んだり、海沿いの90フィートの崖から落ちたり洞窟で迷子になったり、さらには立入禁止区域の原子力発電所に迷い込んだり。国務省の首席報道官は、記者会見の最中にポケモンを捕まえようとしていた人までいると嘆いていました。また、真夜中のセントラルパークにレアキャラの「シャワーズ」が現れた時は、何百人もの人々が殺到し、ホワイトハウスの報道官はこれについて「安全上の適法性の問題が生じている」と述べていたのも記憶に新しいです。

一方、大半の人々は家の周辺を探索したり、それまで行ったことのない場所までポケモンを探しに足を伸ばしたりしていました。新鮮な空気を楽しんだりしながら。ポケモンたちが実在しないのは分かっているけれども、デジタルな世界であっても彼らが自分たちのすぐそばに存在することが新鮮で楽しいのです。60年代の『メアリー・ポピンズ』の映画みたいに非現実のキャラとリアルな人間が混在するバカげたミュージカル・ナンバーのように自分の人生が見えたとしても。でも、このゲームのおかげで人々はヴァーチャルとフィジカルな世界が混在するのが、近い将来当たり前になるだろうという事が実感出来たに違いありません。

そうです。なんだかんだ言いながらも、あなたは「Pokémon Go」をやりましたよね?

当時それほど知られていなかったNianticという企業によって7月6日にリリースされて以来、「Pokémon Go」はソシャゲとして前代未聞の大ヒットを記録しました。夏が終わる頃までには5億人がダウンロードし、AppleとAndroidの無料アプリとして異例の人気アプリとして突然人々の日常生活に飛び込んできたのです。「拡張現実(AR)」という言葉がまだテック業界の内輪なバズワードで、「マイクロソフトがごく初期のプロトタイプを開発した」だとか「FacebookやAppleが開発に取り組んでいる」と噂されたり、フロリダのミステリアスな企業が他社を出し抜き市場を席巻するようなシステムのリリース予定日を何とか確定しようと四苦八苦していると囁かれる中で、「Pokémon Go」はもう実現してしまったのです。90年代に日本で大ヒットしたカードゲームの「dramatis personae(訳者注:ラテン語で「登場人物」)」を私たちの世界に取り込み、ヴァーチャルなビーチボールを投げてゲットする簡単な操作法で。

とはいえ、あなたはもうプレイするのを止めてしまったかもしれません。ビートルズ旋風にも似た「Pokémon Go」ブームが、落ち葉の季節には終わる夏のロマンスのように必然的に鎮まっていったために。 でも、それでもまだ多くの人が「Pokémon Go」を楽しんでいますし、最新アップデートでは今まで足りていなかった要素を補うようにもなってきています。年末までにNiantic社はデータを発表する予定ですが、同社によるとユーザーは今までに87億km(54億マイル)歩き、880億匹のポケモンを捕まえたとしています。

しかし、私たちBackchannelが「Pokémon Go」(とNiantic社、そして同社の創業者でありCEOでもあるJohn Hanke氏)を私たちのBig Idea賞の映えある第1回の受賞に選んだ理由は、「Pokémon Go」のダウンロード数でもなければ、実在しない生き物にモンスターボールをフリップして投げつける馬鹿げたスタイルにあるわけでもありません。明らかに今年の社会現象になったゲームではあるのですが、「Pokémon Go」はただの流行でも、ただのゲームでも、ただのアプリでもなく、それ以上の存在なのです。それは「未来の前触れ」で、すなわち「現実」という概念が柔軟性を持ったものであり、フィジカルな世界がDavid Foster Wallaceの『Infinite Jest』(訳者注:この作品はかなりの長編)で描かれるよりももっと深みがあり、コンピューターのコードによって書かれた幻がエンターテイメントや情報の形をとって天空に現れ、私たちの生活様式を変えていくことを暗示したものなのです。

Niantic社のJohn Hanke氏。2016年12月13日、サンフランシスコのオフィスにて。

2016年、「Pokémon Go」は私たちを家から出しただけではありません。「時間」と「空間」の概念を歪め「現実」という名のベールを引き裂く事で、現実からソフトウェアを、原子からビットを、「リアルと呼ばれていたもの」からヴァーチャルを切り離したのです。しかし、Backchannelの今年のBig Idea賞では一夜限りのヒットを選んだりはしません。「Pokémon Go」は幾つもの起源を持つ長い道のりの1つのランドマークなのです。SF作家や哲学者のイマジネーション、10年以上にわたる何百人ものエンジニアたちの苦労、数多くの人工衛星からの写真、そして、少年の頃、自分の世界をもっと拡げたくて必死に『ナショナル・ジオグラフィック』のページを繰っていたテキサス生まれのアントレプレナーのヴィジョンの集大成なのです。

もし私が「Pokémon Go」の映画を撮るなら、アプリを立ち上げた時に表示されるいつものマップとは違う世界にするでしょう。どこまでも続く2レーンの州道沿いで営業する埃まみれのガソリンスタンド、そこで皺がよって色あせた大判の地図を買ったことは皆さんもきっとあるでしょう。その地図こそがテキサスで、どこまでも広がるその景色のどこかに人口1,000人程度の街、Cross Plainsがあります。

Niantic社のCEO、John Hanke氏はそこで生まれ育ちました。地理とビットに夢中になった少年時代の経験が、知らず知らずのうちに何億ものポケモン・ファンに新次元を開くきっかけになったのかもしれません。「私の生まれ育った場所?点滅する赤信号とデイリー・クイーンばかりが目につくところだよ。」とHanke氏は幼少時代を思い出して語ります。

「他のどんな場所でもCross Plainsよりは魅力的に見えた」からこそ、まだ見知らぬ地域を知りたいという欲求に突き動かされることになりましたし、さらにその欲求は買い物袋いっぱいに『ナショナル・ジオグラフィック』を持っていた隣人の存在によって一層高められることになりました。「あれが私にとって本質的なエンターテイメントだった。地図を引っ張り出して、火星や他の様々な写真を眺めていたんだ。」とHanke氏は感慨深げに語ります。10代前半にはコンピューター熱に浮かされ、アタリのコンピューターでゲームをしたりプログラミングを学んだりしていました。しかし、Austinのテキサス大学で学生向けプログラムに選抜されたのをきっかけに状況は変わります。「文学と歴史を学ぶために、テクノロジーに関わることから距離を置くことにしたんだ。聡明な人は文学や歴史を学ぶように思えたからね。」とHanke氏。

卒業後、Hanke氏は幾つかの企業に勤務します。彼が開発に携わったワールドビューや他の一連のプロダクトの1つ1つがNiantic社と「Pokémon Go」へと続くステップだったのでしょう。

手始めに彼は国務省で働き始めました。初めて世界を見るチャンスが訪れたのです。複雑な政治情勢のビルマに配属され、3年間勤務した後でバークレーのビジネススクールに通うために退職しました。小論文のテーマには彼が心酔するTrip Hawkins氏を選びました。当時「3DO」という3Dゲームの会社を起業したばかりの人物です。Hanke氏は当時を振り返ります。「ビルマで古代の寺院を見たのだが、そういう体験を出来るアプリをどうやったら開発出来るかずっと考え続けていた。」。MBAを取得した後、彼はクラスメイトと会社を設立しました。そして、「Meridian 59」というごく初期のMMO(多人数オンラインゲーム)の1つをリリースしました。そして、1996年に会社を3DO社に売却したのですが、その時点で50,000人のユーザーを獲得していました。

別のゲーム会社を創業して売り払った後、Hanke氏は元Silicon Graphics (SGI)社のエンジニアで、ゲーム開発者が複数のゲームシステムを公開するのをサポートするツールを開発していたIntrinsic Graphics社を創業した何人かと会いました(その中には現在Uberのマップ担当責任者であるBrian McClendon氏や長年Googleでチーフ・テクノロジー・アドヴォケイトの地位にあったMichael Jones氏も含まれています。)。プログラミングの妙技が披露されるなかで、Intrinsic社は低スペックのPC上で「Space to Face」と呼ばれるよく知られたSGI社の3Dグラフィック・デモを再構築して見せたのです。それは人工衛星からの地表のイメージをズームイン出来るハイレゾ画像を売りにしていました。Intrinsic社のチームはHanke氏に「このデモについていいアイデアはないか?」と聞いてきました。うってつけの人物にたずねたと言えるでしょう。すぐにチームは最近商業利用が可能になったばかりの企業とパートナーシップ契約を締結しました。

Niantic社のDennis Hwang氏とJohn Hanke氏。2016年12月13日、サンフランシスコのオフィスにて。

「私たちはスーパー『MapQuest』を作ろうというアイデアを持っていた。画像、地図、ビジネスのすべてのデータを集めてくれば、周りの世界にゲームのような3Dインターフェースをかぶせることが出来るはず。」とHanke氏は言います。しかし、それだけではありません。このテクノロジーを使えば、街中の様々なロケーションにより詳しい情報を付与し、例えばそこでどのような店が営業していて、近くにどういったランドマークや歴史上の史跡があるのか分かるようになります。Hanke氏は「全く新しい可能性を開くことになる。まるでテレポーテーションだ。そこに実際に足を運ばなくてもその場所についてのデータを手に入れられるようになるのだから。」と述べています。

会社の名称はKeyhole社にしました。同社の思想的な基盤には2冊の本があります。1冊はDavid Gelernterの『Mirror Worlds』で、もう1冊はNeal Stephensonの『Snow Crash』です。前者は優れたコンピューター・サイエンティストの手による大型本で、フィジカルな世界がいかにして何層もの情報のレイヤー(ロケーションや建造物等)によってデジタルなそっくりの世界とリンクするのかについて書かれましたが、あまり評価されていませんでした。一方、SF作家のStephensonの古典的な作品は、人々がヴァーチャル・リアリティーの擬似的な世界に耽溺する様子を描いた草分け的な名作です。

最初の大手の顧客はテレビ局のニュース制作担当でした。このソフトウェアを使って、宇宙からニュースの現場までズームする映像を作りたがったのです。これはニュース報道にライブ感を与えることになりました。ところが、2004年になってGoogleの共同創業者であるSergey Brin氏がこのプロダクトを見て、すぐさま買収の提案をしてきました。Hanke氏と彼のパートナーはそれを受け入れました。「おそらく私たちの独創的なグランド・ヴィジョンを実現するにはGoogleのサポートが不可欠だったんだ。」とHanke氏。

その後、Hanke氏はKeyholeの後継となるGoogle Earthを開発しました。そして、ゆっくりとそれを姉妹関係にあるGoogle Mapsに統合しました。マウスの1クリックで実際の場所のフォト・キャプチャーとデジタルなマップの切り替えが出来ます。Google Mapsはユーザーが自由に情報のレイヤーを追加出来るオープンAPIを採用していたので、幾つかの意味合いにおいて、現実の場所よりもこのデジタルなヴァージョンの方が遥かに多くの情報を含んでいました。YelpやFlickr、そしてUberといったアプリが様々なレビューや写真、ドライバーの位置を地図上にどんどんと追加していきました。終わりのないデータのマッシュアップがマップを「ジオ・インフォグラフィックス」へと変容させたのです。

Googleは鏡の世界を作ろうとしていました。1931年にポーランド系アメリカ人の哲学者Alfred Korzybskiは「地図は現地そのものではない」と言いました。ですが、地図はある意味、現地そのものなのです。ロケーションにタグ付けされた地理情報で地図を「拡張」させることで、物理的なロケーション、すなわち「現地」の持つ意味や価値が問い直されるようになったのです。ひょっとすると「現地」とは実際にはそのロケーションに関わるありとあらゆる情報によって拡張された場所を指すのかもしれません。

ひと言でまとめるとGoogle Mapsも他の同様のプロダクトも「拡張現実」になります。ですが、その可能性に魅了されているとHanke氏は語ります。「『現実』は膨大なデジタル・ライブラリーによって拡張され、目の前の事象を理解する能力が『拡張』されていくのです。」と同氏。

しかし、自分のヴィジョンを実現するためにHanke氏はGoogle Maps部門を離れ、新しい会社を起業する必要を感じていました。しかし、同氏を手放したくないGoogleの経営陣は、2010年、同社内でヴェンチャーを立ち上げるのが賢策だと同氏を納得させることに成功し、Hanke氏は「自治的なユニット」として社内に一定期間残ることになりました。彼は自分のユニットを「Niantic」と名付けました。ゴールドラッシュの頃、サンフランシスコに金鉱掘りたちを運んでいた捕鯨船から取った名です。1849年に役目を終えてからはホテルの建築資材となり、数年後にそのホテルが焼け落ちるまで使われていました。サンフランシスコの街が発展する過程でホテル跡地も様々に利用されてきましたが、1978年頃にNiantic号の残りが再発見され、その船体の一部にシャンパンの貯蔵室があることが分かりました。

Niantic社のモットーは「アドヴェンチャーは徒歩で」ですが、最初のプロダクトにはこのモットーが生き生きと表れています。そのプロダクトは「Field Trip」というアプリで、周囲の情報(変なトリビアも)をユーザーに通知するものでした。あまり知られていない史跡、著名な作家が住んでいた家、近くで映画が撮影された場所、もしくは単に郵便局や動物園の場所といった情報です。このアプリはユーザーのいるロケーションの過去と現在両方の情報を提供していました。それ故、必然的に「Field Trip」のユーザーは一種のタイムトラベルを経験することになります。ちょうど掘削作業員たちがかつてのサンフランシスコを再発見するように、ユーザーはNiantic社によって今まで知らなかった街の情報を知ることが出来たのです。「Field Trip」は21世紀の街角で何十年も前の同じ場所の情報にアクセスすることを可能にするものでした。

また、「Field Trip」は人々がデスクを離れ、街を探索することにリワードを用意したりもしました。「ごく初期の頃でさえ、こういったゲーミフィケーション的な試みでユーザーにもっと活動的になってもらおうとしていた」とNiantic社のヴィジュアル&インタラクション・デザイン・ディレクターで2011年にGoogle Doodleチームから移籍してきたDennis Hwang氏は説明します。

しかし、「『Field Trip』のユーザーは増えなかった。」とHanke氏。「私は気に入ってるし、まだダウンロードも出来る。でもナードなPBSショーみたいなものだったんだ。」。

ですが、「Field Trip」は豊富な情報のデータベースを構築するのにも役立ちました。例えば、博物館、公共建造物、史跡、ちょっと変わったランドマーク、その他GPSスポットに紐づいた地理的要素、そういったロケーション情報です。それら1つ1つは些細な情報で住民も知らないようなものでした。「そこで私たちは考え始めたんだ。もっとユーザーを引きつけ、ずっと使い続けてもらえるようなメカニズムにするにはどうすれば良いのかと。ゲームのダイナミクスを活用出来るのではないか?」とHwang氏。

その答えが「Ingress」でした。Niantic社はゲーム&スクリーンライターで、スパイ小説と「the Risk」というボードゲームの要素を組み合わせたシナリオを書いたFlint Dille氏を雇いました。「それは一風変わったアイデアでした。SFがテーマのゲームを街中のアートや史跡と組み合わせるのですから」とHanke氏は言います。社中秘でも何でもないですが、彼のやるべき事はもちろん「外に出て遊ぶ」というフィロソフィーや周辺を探検する事への情熱をさらに一歩前へ進める事でした。「Pokémon Go」のプレイヤーには馴染み深いマップのレイアウトで拡張現実を使い、輝く「ポータル」が特定のランドマークに現れる事がゲームのカギとなっていたのです。

「Ingress」体験はカルト的なファンを生み、彼らの多くが今もプレイし続けています。ですが「Ingress」は何よりも実際の地理を基盤とする、タイムトラベリング的な、拡張現実のモバイルゲームの時代がついに来た事の証明として人々の記憶に残るのでしょう。

「Ingress」によって構築された地理を利用した拡張現実のプラットフォームとポケモンが出会ったのはエイプリル・フールのジョークからでした。Google MapsのエンジニアであるTatsuo Nomura氏は以前8ビットのビデオゲームとGoogle Mapsを使ったエイプリル・フールのプロジェクトに関わっていました。子供の頃からポケモンのファンだったので、Nomura氏はポケモンのキャラを使ったゲームのアイデアを思いつきました。そこで、日本に帰国している間に彼はThe Pokémon Companyから許諾を得て、2014年の4月にGoogleの「Pokémon Challenge」(Google Mapsのレイヤー上にポケモンのキャラを配置し、ユーザーがモンスターボールで捕まえるゲーム)が始まることになりました。

この時、Nomura氏は知らなかったのですが、Niantic社はすでにポケモンのプロジェクトに取り掛かっていました。そして、このエイプリル・フールのプロジェクトによって同社はポケモンを自社のプラットフォームに取り込むと大ヒットになるだろうと確信したのです。Hanke氏はNomura氏に連絡を取り、日本のThe Pokémon Companyの経営陣をIngress社に紹介してくれるように頼んだのです。「彼らはモバイル部門を始めたばかりでしたのでちょうど良いタイミングでした。」とNomura氏。しかし、彼が日本を離れるまでに確証は得られませんでした。「全く反応が読めませんでした。興奮しているようでも困惑しているようでもありました。」と同氏。ですが、実際は前者だったのです。The Pokémon CompanyのCEO、Tsunekazu Ishihara氏は実は「Ingress」でレベル8のプレイヤーだったのです(この当時の最高レベルでした)。「私はアイデアをきっと理解してくれたと思っていました。」とNomura氏はこの後すぐにNiantic社に加わった当時を振り返ります。

しかし、まだ安心は出来ませんでした。ポケモンの貴重な知的財産を利用するのに単に金銭だけでは心もとなかったのです。入念に考え抜かれた相手のカルチャーへの敬意に示し方が大切でした。The Pokémon Companyはピカチュウやピジョンから得られる利益について密接に関わり合いのある3つの企業による連結によって成り立っていました。Game Freak社、 Creatures社、そしてNintendoです。The Pokémon Company自体を除いて、Niantic社にとって最も重要だったのはNintendoでした。なぜならNintendoはノウハウを持つゲーム会社であり、ポケモンのキャラに関わるデジタル面でのビジネスに大きな利害関係があったからです。最終的にHanke氏は京都にあるNintendoの本社で同社の伝説的なリーダーであるSatoru Iwata氏にプレゼンをすることになりました。Iwata氏はファミリー向けのゲームやNintendo Wiiのヒットで同社を復活させた人物であり、同時に1人のゲーマーでもあります。

Hanke氏の目にIwata氏はスリーピースのスーツに身を包んだ魅力的な人物で、あたかもゲームに出てくる聡明な教授のような人だと写りました。「彼は以前はプログラマーであったから、そういうメンタルがあるはずなのに、それを上手く『品が良い教授』、もしくは『優しいおじさん』といった印象にまとめていた。」とHanke氏(彼は知りませんでしたが55歳のIwata氏は末期の病に苦しんでいました。)。彼はIwata氏に説明しました。自分が目指しているのは家族みんなで楽しめるソーシャルな体験を生み出すことで、それによって人々が互いにつながり、さらには世界とつながるようになるのが目標なのだと。それを聞いたIwata氏は彼のヴィジョンに頷いて、続けてこう言いました。「Nintendoが目指しているのも同じ価値観なのだ」と。その場の誰もがほっとしたのは言うまでもありません。

Niantic社のサンフランシスコのオフィスにて。2016年12月13日。

ここでNiantic社には決断の時が訪れました。GoogleはLarry Page氏のAlphabet構想によって幾つかのユニットに分かれたのです。そこでHanke氏と彼のチームは独立したユニットとなりました。それからGoogle、Nintendo、The Pokémon CompanyがNiantic社に融資し、その見返りとして持ち株を受け取る仕組みを構築し始めました(2015年の夏にIwata氏が亡くなった時にはややこしくなりましたが)。しかし、交渉は首尾良くまとまり、Niantic社はポケモンをベースにしたゲームを作り始めたのです。

「Pokémon Go」は基本的にはHanke氏が何十年もかけて築いてきたプラットフォーム、特に「Ingress」の系譜にあります。「Ingress」のプレイヤーは「Field Trip」の史跡や公共空間のロケーション・データを登録出来ました。検討した後でNiantic社はこのデータを新しいゲームに取り入れることにしました。「『Pokémon Go』で私たちがまず行ったのはこれです。ジムやポケストップの場所はこのデータに基づきます。それから公園や海岸の位置データとポケモンの発生場所を関連づけました。それから一般の人が立ち入り出来る場所はどこなのかや環境データについても取り込みました。例えば、地形のタイプやどんな種類の生態系なのかといったものです。水属性のポケモンは水の近くで、地属性のポケモンは山で発生するようにしたのです。」とHanke氏は説明します。

ポケモンのキャラをゲームに組み込むのはそれ程大変な作業ではありませんでした。しかし、大規模なユーザーを想定してゲームを強化するのは実に大変な仕事でした。7月の初めにアプリをリリースするのに合わせて、コード・ベースを書き直したとしても十分ではないことが明らかになったのです。

「人気が出ることは初めから分かっていた。だってポケモンは20年も愛され続けているのだから。」とHanke氏は言います。しかし、メインのユーザーは若年層になるだろうと彼は考えていました。「私が分からなかったのはミレニアル世代だ。Nintendoやトレーディングカードでポケモンを遊び、まだポケモンが大好きで、チャンスがあれば再び飛びつくであろう20代がどう動くかが分からなかった。」と同氏。その一方で、ゲームデザイナーのHwang氏は、自分たちが狙ったのはまさにそこ、いわば休眠中のポケモン・ファンなのだと言っています。彼は「Pokémon Go」が子供っぽくならないように見た目と操作感に注意して開発したそうです。「カッコ良く見えるように意識して開発したんだ。例えばアバターは13歳の子どもではなく20代に見えるようにね。インターフェースはゲームというよりおしゃれな地図アプリに見えるようにした。パターンはモバイルアプリで1番良いとされるものを参考にしている。こういった試み全てがより広いユーザーにアピールすることを目標に意識的になされたものなんだ。そして、実際うまくいった。」と語るHwang氏の70代の母親はハードコアなレベル25のプレイヤーです。

「Pokémon Go」のヒットは2ヶ月だけで、ユーザーは「単調な作業ゲー」と不満をこぼしてプレイしなくなっているという意見に対してHanke氏は肩をすくめます。「リリースから最初の60日にプレイした人の数は前代未聞と言っていいでしょう。それだけの膨大な数なので、当然その後ユーザーの数は減ってきています。ですが、多くの人はまだプレイしていますし新しいユーザーも増えています。このパターンの繰り返しです。どんなゲームでもこれは普通です。私たちには非常に強固なユーザー・ベースがありますから、『Pokémon Go』は非常に長くヒットを続ける収益性の高いゲームになると確信しています。」とHanke氏は自信を見せます。

Niantic社は最新アップデートでゲーム内イベントを実装し、「Pokémon Go」がさらに楽しく遊べるように気を配っています。ハロウィンのイベントではアメリカのユーザーが前週に比べて20%も増加しました。そして長らく待たれていたApple Watchへの対応も果たしています。

今のところ「Pokémon Go」はアイテム課金や企業の店舗をポケスポットにする方法でも収益を上げています。ビデオゲームのリサーチ会社であるSuperData社によると、今年「Pokémon Go」は7億8,800万ドルの利益(そのうち2億ドルはピークの8月)をもたらしたようです(7月にリリースしたのを忘れずに!)。「私たちが愛する体験を提供し続けるのに十分な利益は今のところ上がっている。外に出かけて身体を動かすきっかけになったり、自分が住むコミュニティーを知ったり、子どもや友達と楽しんだりする体験を提供し、ソフトウェアの側から現在の拡張現実の限界に挑むのに十分なほどには。」とHanke氏。同氏は明言しませんでしたが、2017年には「Pokémon Go」はもっとソーシャルな要素を追加するようです。

テキサスのCross Plainsから「Pokémon Go」までは遥かな道のりでした。

ですが、Hanke氏は自分のプロダクトが昔の自分と同じような子どもの心に響くと確信しています。かつての光沢のある『ナショナル・ジオグラフィック』が、今はある種のテレポーテーション、遠く離れた人々を世界中の場所やコミュニティーでつないでいくものへと変わりはしましたが。

Hanke氏は最後に次のように語ってくれました。

「私たちは『Pokémon Go』をカルチャーやアートに溢れるサンフランシスコのような街だけでなく、もっと小さな街でも楽しめるようにするつもりだ。ゲームであるか否かに関わらず、私たちのプラットフォームで開発される全てのプロダクトを通して私たちはリアルな世界を写す「鏡の世界」とでも呼ぶべきものについてのデータを集め続け、より良いものを生み出すためにそれをどう使えば学ぶつもりなんだ。」。

Creative Art Direction by: Redindhi Studio
Photography by: Jason Henry

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