「共感」の先にあるデザイン

デザイナーが目指すべきソリューションについて

By Michael Chapman

Illustrations by Jonathan Mueller

私は週末になるとよくランニングをします。朝早くに家を出て数マイルを走るのです。街中を走る楽しみは色々とありますが、その1つは近所のそれぞれ異なった雰囲気をゆっくり眺めることにあります。私の場合はまず、角に住むボリビア人の数学教師とFDAに勤務する奥さんが住む家の前を通り過ぎ、サッカーやバスケをする子供たちで賑わう公園を抜けます。それから、見守る親の心配を傍目にティーンがスケートボードのトリックを見せびらかし合う横を走って、ホームレスが幹線道路下で野営しているのを目に留めながら家に戻るのです。

私はデザイナーとしてあらゆる人々のためにデザインをしています。私と同じような仕事をしている人のためのこともありますが、もっと大切に考えているのは、デザインと無関係な人々のための仕事です。そのため私は日頃から注意していることがあります。それは、たとえ近所に住んだり職場を共にしていたとしても、個人の空間、対象、ブランド、シンボルへの理解や解釈はそれぞれ異なり、それらに違った対応を示すということです。

最近は「共感」について語られることが増えてきました。例えばNew York Timesの記事に幾つか目を通してみても、政治神経科学テクノロジー、そしてデザイン思考まで「共感」との関係で多くが語られています。

しかし、デザイナーが「共感」という言葉を用いる時は、日常会話における感情以上のものとして意識する必要があります。「人の立場で物を考える」というのは簡単なことのように聞こえるかもしれませんが、相手を表面的にざっと理解する以上のことをしたいなら、時間や努力だけでなく容易に身につけられないオープンな態度も必要になります。

デザインの対象となる人々の生活の細部に至るまで思いを馳せ、彼らの物事への解釈の仕方を理解し、彼らの経験や観点、文化に対して深い敬意を抱くことが、価値あるものを市場に送り出す手助けになるのです。

「同情」よりも「共感」を

かつて私は血友病(血液が固まりにくい遺伝的疾患)の患者への点滴の仕方を改善したいと望むクライアントと仕事をしていました。クライアントは私たちに、患者を理解して彼らの生活を少しでも良くして欲しがっていたのです。

ごく初期のステージでは、血友病の患者は薬を点滴するために、週に何回も小さな注射針を肌に刺さなければなりませんでした。フィールドワークが終わって私たちのチームが発見した事をクライアントと話し合うことになった時、彼らは私たちに尋ねました。

「君たちは患者の普段の生活や点滴の習慣を観察するのにとても多くの時間を割いていたね。でも、日々の注射針による点滴で、彼らには肉体的、精神的にトラウマが生じているだろうから、それを解決するためにもっと多くの時間を費やすべきだったんじゃないだろうか?」と。

この時、彼らはまさに「同情」していたのです。

私たちは「ここにいる皆さんのうち何人の方が、今まで1度でも点滴をした事がありますか?」と尋ねました。すると、手を挙げた人は1人もいませんでした。

この調査の早い段階で私たちが学んだことが2つあります。1つは患者にとって点滴の動作というものは、頻繁に繰り返されるが故に深く身についた習慣であるということ、もう1つは大半の人にとって注射針はそれでもやはり怖いものだと感じられるということでした。多くの患者は片手で注射を打ちながら、もう片方の手で電話をするなど、怖がりながらも注射という行為自体に全く注意を払っていませんでした。幾人かにとってはそれは単なる習慣でしかなく、クライアントが想像していたような恐ろしく神聖なトラウマが生じる儀式ではなかったのです。

つまり、クライアントは問題の本質を見誤っていたのです。ここでは顧客である患者への「同情」は認められるのですが、大切な患者との「結びつき」を失っています。すなわち、人への「同情」は何か変化を起こそうとする時の触媒にはなり得るのですが、「人間中心の」解決策には必ずしもならないのです。

経験、そして理解が「共感」を生む

その人の生活環境を物理的に経験することだけでは、「共感」を伴うデザインには十分ではありません。私は今までに様々な人々の生活を実際にシミュレートして大変多くの経験を得てきました。例えば、お年寄りが運転する時の状況を理解するために重い手袋や傷だらけの眼鏡かけて運転してみたり、ホームレスの生活を理解するために何週間も路上生活をしてみたりです。

このやり方は、人々が実際の物理的世界をどのように生きているかをより深く理解するための素晴らしいテクニックではあるのですが、他方で五感で感じ取れる経験に重きを置きすぎているきらいがあり、さらに問題なのはそこから得られた経験を独善的に解釈しがちだということです。

リサーチを行うために人々が実際に生活している場に赴くフィールドワークは、その人々と深く繋がりあうための出発点です。私たちはそこで彼らが何者で、どんな振る舞いを見せるかを学び、彼らが必要としているものを明らかにしていくのです。そこで私たちは彼らの情動反応やボディランゲージ、コンテクスト、生活空間の使い方を目の当たりにします。

フィールドで1人1人と向き合うことで、彼ら自身のストーリーやものの見方を情報として収集することが出来ます。例えば、ある時には糖尿病の検査は何となく人に罪悪感を覚えさせ、自分が病気なのだと意識させてしまうため患者はなかなか検査を受けたがらないということを学びました。

また、精神疾患を抱えた人がどのようにして充実した生活を送っているかや、彼らは他人から冷たい目で見られるような時に恥ずかしさを覚えがちだという事実も学びました。

さらに、引退生活に不安を覚える結果、人々がどのように年金や貯蓄につぎ込んで行くかの様子も学びました。

対象との間に「共感」を生み出すには、彼らの話を聞いたり、生活を実体験するだけでは足りません。彼らの価値観や歴史、信仰、文化のレンズを通して世界を解釈することで初めて、彼らのために共にデザインを始められるのです。

全体性を大切にし問題解決に資するスウィートスポットを探求しましょう。

「共感」から行動へ

価値あるデザインへと至る「共感」から学べることをどのように活かすかこそが大切です。そのためには、本人と第三者の視点から問題を眺めるにあたって最も効果的なスウィートスポットがどこかを見定める必要があります。

著名な人類学者であるクリフォード・ギアツ氏はこれを「厚い記述(Thick Description)」と呼んでいます。デザイン研究者たちの「ウサギの巣穴に降りる」(不思議の国のアリスの童話から幻覚的で不思議な体験をすることを指す)ことなくデザインについて語ろうとする時、なぜこの「厚い記述」という概念がそれ程重要になってくるのか、次に説明させて下さい。

まず、ギアツの言う「エミック」について説明します。これは個人やコミュニティーの内部組織、振る舞い、その世界全体への概括的な認識等を含めて完全に理解することを言います。

この方向性でどこまでも進めば「ネイティブ化する」おそれがあります。そうすると、客観性や対象からの適切な距離を失ってしまいます。

そうすると革新的であったり誰の目にも明らかである解決法を思いつけなくなることがあります。自分が属する社会やコミュニティーに既存の制約要因が目に入らなくなってしまうのです。例えば、一夫一妻制の結婚や社会的に成功するには高等教育が必須であるといった私たちの文化規範は長年疑われることのなかった制約要因と言えます。

他方で「エティック」という考え方があります。こちらでは部外者の視点に固執し、誰もが自分たちと同じように考え、行動すると推測してしまい、問題を解決しようとしているグループにとって何が1番大切かを考慮しようとしません(特に問題なのは、デザイナーという人種の大半がかなり同質性の高い集団であることでしょう)。「エティック」の立場では、グループのワークフロー、判断や意見、役割、受け入れられやすい概念がどのようなものなのか無視されるため、上手くいくプロダクトやサービスをデザイン出来るチャンスがほとんどないのです。

ここまで述べたスウィートスポットや「厚い記述」を通して、デザイン・チームは自分たちが役立とうとしている集団をより深く理解することが出来ます。「同情」と「共感」の双方を抱き、グループのモチベーション、歴史、価値観をより深くそして広く分かろうとする観点を持つことが、客観的で優れたデザインへと繋がるのです。

ほとんどのデザイナーにとってのゴールというものは、ユニークなやり方で問題を解決しつつ、人の役に立ち、感情の共鳴を生み出す機能美のあるものを作り上げることにあります。しっかりとしたリサーチを行えば「共感」が生まれます。客観性や思慮に富んだ解釈を心掛ければリサーチ全体を把握し、深い理解に至ることが出来ます。ものの見方のスウィートスポットを見つけることで、単にソリューションを提供するのではなく、そこに至った理由まで理解出来るようになります。なぜなら、解決しようとしている問題の本質を知ることは、解決法を知ることと同じくらい大切だからです。

週末のランニングと、そこで体験した様々なサインや匂い、色彩を思い出すとき、私はその1つ1つの趣きや味わいにいつも刺激を受けます。そして、それがデザイナーとしての私に思い出させてくれるのです。私は自分のためではなく私を必要としてくれている1人1人のために働いているのであり、彼らが何を求めているのかを見出し、より良い生活へと導くことは私に与えられた機会であり責務でもあるのだと。

私がこのストーリーを書き上げる手助けをしてくれたジョナサン・ミューラーとジェシカ・ハーマンに感謝します。