Hiroshi Takeuchi
Sep 17, 2015 · 23 min read

By Hossein Derakhshan
Illustrations by Tim McDonagh


7ヶ月前、活気に満ちたテヘランの中央にそびえ立つ1960年代に建てられたアパートの最上階で、僕はキッチンの小さなテーブルに腰掛けていた。過去に何千回とやってきたように、僕はラップトップを開いて新しいブログに記事を投稿した。でも実はこれをするのはここ6年間で初めてのことだった。そして僕の心はボロボロになってしまった。

数週間前に突然僕は恩赦を与えられ、テヘランの北にあるEvin刑務所から釈放された。残りの人生の殆どをあの檻の中で過ごすと思っていた。2008年11月に僕はブログに書いた内容を理由に懲役20年を言い渡された。

その日がくるなんて想像もしていなかった。僕はキッチンで囚人仲間の一人とタバコを吸って、他の囚人と共有している部屋に戻った。一杯のお茶をみんなで回し飲みしているとアナウンスが聞こえた…別の囚人の声…そのアナウンスは施設中に届いた。アナウンサーは平坦な声のペルシャ語でこう言った。「諸君、幸運の鳥が今日またしても諸君の中の一人の肩に降りた。Mr. Hossein Derakhshan、君は今この時点から自由の身だ。」


というわけでその日の午後は僕が初めて自由の身として刑務所の外へ出た。肌寒い秋の風、近くの橋から聴こえてくる車の騒音、匂い、僕が人生のほとんどを過ごしてきた街の色、そのすべてが新鮮だった。

そこは僕の知っているテヘランじゃなかった。馴染みのある小さな家は新しくて厚かましい高級マンションに置き換わっていた。新しい道、新しいハイウェイ、街を侵略するかのようなSUVの大集団。巨大なビルボードに映し出されるスイス製時計や韓国製フラットスクリーンTVの広告。カラフルなスカーフと黒いコートを身にまとった女性、髪を染めてあご髭を生やした男性、そしてヒップな西洋音楽と女性店員がウリのチャーミングなカフェが何百と立ち並んでいた。人々にジワジワと近づいて気づいた頃にはもう昔の普通の生活はどこかへ消えてしまっている…僕が見た変化はそういったものだった。

2週間後僕は再び書くことを始めた。何人かの友達が彼らのアートマガジンの一部として僕にブログを書かせてくれることになったのだ。僕はそれをKetabkhanと名付けた…ペルシャ語で”本を読む人”という意味だ。

6年間という歳月は刑務所生活には長い時間だったけど、オンラインにとっては一つの時代だ。インターネット上で何かを書くことは変わっていなかった。でも読むこと…少なくとも何かを読むこと…は劇的に変わってしまっていた。僕がいない間にソーシャルネットワークというものがすごく重要なものになったということを教えてもらった。そしてあることを知った…もし僕が書いたことを誰かに読んで欲しかったら、ソーシャルメディアを使う必要があるということだ。

ということで僕は書いた記事のリンクをFacebookに投稿してみた。するとFacebookは僕のリンクをうまく扱ってくれないことがわかった。貼ったリンクは退屈な広告リンクのように表示されるだけ。説明文も画像も何も表示されない。3人が”いいね”を押してくれた。たった3人だよ!それで終わり。

それではっきりわかった、もう昔とは違うんだと。僕はこのゲームに参加する準備ができていない…僕の今までの投資や努力はすべて灰となっていた。ものすごくショックを受けた。

僕が逮捕された2008年、ブログは金塊でブロガーはロックスターだった。当時はイランから僕のブログへのアクセスはアメリカによってブロックされていたにもかかわらず、僕のブログには毎日20,000人の読者がいた。僕がブログにリンクを乗せれば、そのリンク先はたちまちものすごいアクセス量となった。やろうと思えば僕はどんなものにでも力を与えたり、逆に炎上させることができた。

人々は慎重に僕の記事を読み、たくさんのコメントを残していった。人々の多くは僕の意見に強く反対していたけど、そんな人たちも僕の記事を読み続けた。他の人はブログに僕のブログへのリンクを追記して、僕の主張について議論した。王様にでもなったかのような気分だった。

iPhoneは1歳と数ヶ月で、当時はまだスマートフォンは電話をかけたり、SMSを送ったり、メールを送ったり、ネットをブラウジングすることに使われていた。現在の僕らが考える本物のアプリ、そんなもの一つもなかった。

代わりに僕らにはウェブがあって、ウェブ上にはブログがあった…新しい意見、ニュース、見解を見つけることができる最高の場所。僕の人生だった。


ことの始まりは9/11。僕はトロントにいて、親父が僕を訪ねてちょうどテヘランから到着したときだった。2機目の飛行機がワールドトレードセンターを直撃した瞬間、僕らは朝食をとっていた。何が起こったのか理解できず混乱し、この出来事についての見識と説明を求めていろんなところを探した末にブログを見つけた。あるブログを少し読んで…これだ、自分も今すぐ始めるべきだ、他のイラン人も始めるべきだ、と考えた。それでWindowsのメモ帳を使って色々試して、すぐにhoder.comに辿りついた…Googleが買収する以前のBloggerのパプリッシングプラットフォームを使っていたサービスだ。

そして2001年11月5日、僕はブログを始めたい人のための初級ガイドを書いた。その記事はものすごい人気となった、後に言うブログ革命の始まりだ。すぐに数百数千のイラン人がブログを書き始め、イランはブログの数で世界5位にまで急上昇した。この前代未聞の書くことの民主化の立役者の一人となれたことを僕は誇りに思った。

当時僕はペルシャ語のすべてのブログをリスト化していた…しばらくの間僕はイランの新しいブロガーが最初にコンタクトを取る人物になっていて、そして彼らは僕からそのリストをもらっていた。20代半ばにしてみんなが僕を”the blogfather(ブログの父)”と呼んだのはそれが所以だ。変なあだ名だったけど、僕がどれだけブログを大切にしていたかは伝わる名前だった。

毎朝トロントのダウンタウンにある小さなアパートメントからコンピュータを開き新しいブログをチェックして、そのブログが日の目をみるように、たくさんの人に読んでもらえるように手助けをした。ものすごく広くて混雑した場所…放浪作家やジャーナリスト、女性日記作家、テクノロジーの専門家、それに地元のジャーナリスト、政治家、聖職者や退役軍人まで様々な人がいた…そして僕はもっと大きなものにしようと頑張った。もっと信仰心の強い人々、イスラム共和制を支持する男女、それにイラン国内に住んでいる人々をブロガーとして招き入れた。

当時僕らがアクセスできる情報の幅はすごく広くて、僕らはいつも驚かされていた。それが僕が本気でブログを書くことを広めていた理由の一つでもあった。僕は2000年の終わり頃にイランを離れて欧米で生活することにして、でも母国の動向の急激な変化がいつも気になっていて、そのことでびくびくしていた。でもトロントでイラン人のブログを読んでいると、僕はなんだかテヘランの共有タクシーに乗っておしゃべりなドライバーと他の乗客たちのごちゃごちゃした会話を耳にしているような感覚に浸ることができた。

コーランにはこんな一節がある…虐待から逃れたキリスト教信者たちが洞穴に隠れる場所を見つけた。彼らとその一匹の飼い犬はそこで深い眠りに落ちた。彼らは昼寝をした感覚だったが、目を覚ますと実は300年も経っていた…これは僕が監禁されていた最初の8ヶ月間何度も考えたことだ。コーランの別版の同じ一節では目を覚ました彼らの中の一人が外に出て食べ物を買う話が書かれている…300年後に目覚めた彼らがどんなに空腹であったか想像できるのは僕だけじゃないだろうか…彼は自分の持っているお金が時代遅れで、美術館に展示する以外使い道がないと知るのだ。その時こそ彼が、自分たちがどれだけ長い間世間から離れていたか気づく瞬間なのだ。

6年前、ハイパーリンクは僕にとって通貨のようなものだった。ハイパーテキストのアイデアから派生したハイパーリンクは、現実の世界に欠けていた多様性と脱中央集権化を僕らに提供してくれた。ハイパーリンクはオープンで、相互に繋がったワールドワイドウェブの精神を象徴していた…発明者であるTim Berners-Leeの目指していたものだ。ハイパーリンクは中央集権化…すべてのリンク、ライン、階層構造…を捨て去る一つの方法であり、それに置き換わる分散化した、ノードとネットワークで構成されたシステムだった。

ブログはその脱中央集権化の精神に形式を与えた。ブログは君がほとんど知る由もない情報に命を与える窓であり、異なる命同士をつなげる橋だった。ブログによって命自体も形を変えた。ブログは人々が様々なアイデアを交換することができるカフェのような場所だった、そこでは君が興味のあるトピックならなんでも話せる。ブログはテヘランのタクシーの大集団だった。

でも刑務所の外に出てから僕が目にしたのは、ハイパーリンクの価値が下がっている、あるいはもう時代遅れであるという現実だ。

今やほとんどのソーシャルネットワークはリンクを(写真やテキストといった)他のオブジェクトと同じように扱う…リッチなテキストとしてじゃなくだ。そして君は一つのハイパーリンクを投稿して、”いいね”とか”プラス”とか”ハート”のボタンを押す擬似民主的プロセスにそのリンクを晒すように促される。複数のリンクは通常では許されない。ハイパーリンクはオブジェクト化され、孤立化され、本来の力を剥ぎ取られるのだ。

それと同時にそういったソーシャルネットワーク上では、ネイティヴなテキストと写真…つまり直接投稿されたもの…はウェブページの外のそれらよりも配慮される傾向にある。写真家の友達が、彼がFacebookに直接アップロードした写真がどのように大量の”いいね”を貰うか…つまりその写真がどのようにたくさんの友達のニュースフィードに表示されるか…について教えてくれた。一方で、彼がFacebookではない場所に投稿した同じ写真のリンクをFacebookに投稿すると…例えばもう使われていない彼のブログとかね…その画像は前者と比較するとニュースフィードに出る頻度は極端に少なくなる。結果として”いいね”の数は少なくなるというわけだ。そうしてこのサイクルはどんどん強くなっていくのだ。

Twitterなどの幾つかのネットワークはハイパーリンクをもう少しだけ良く扱ってくれている。 一方で、セキュアでないソーシャルサービスたちはもっと頭がおかしい。Instagram…Facebookの所有物…はユーザーが何か付け足すことを一切許可しない。ウェブアドレスを写真に付け加えることはできるけど、それじゃ何の役にも立たない。たくさんの人々が毎日オンラインの日課の始まりにそういった袋小路のソーシャルメディアを使って、彼らの旅はその中で終わる。人々の多くは彼らがInstagramの写真に”いいね”を押したりFacebook上にある友達のビデオにコメントを残した時、インターネットのインフラを使っているということに気づいてすらいない。それはただのアプリだ。

でもハイパーリンクはただのウェブの骨格というだけじゃない。目なのだ。魂へと続く道なのだ。ハイパーリンクのない、盲目のウェブページは他のウェブページを見ることも凝視することもできない…これはウェブ上の力のダイナミクスにとてつもなく大きな影響を与えるだろう。

多少なりとも全ての理論家は凝視することと力の関係について考えていて、その殆どは否定的な意見だ。凝視することは相手を剥ぎ取り、力のないオブジェクト、知性の欠けた、媒体の欠けたものに変えてしまう。でもウェブページの世界では、凝視することは別の働きをする。力を与える以上のことをしているのだ。パワフルなウェブサイト…例えばGoogleやFacebook…が別のウェブページを凝視したり、リンクを貼ったとしよう。それはただ単に繋がったと言うだけじゃない…存在を、生命を与えるのだ。比喩的に表現すれば、この力を与える凝視がなければ、君のウェブページは呼吸すらできないのだ。君がどれだけ多くのリンクをウェブページに貼ったかどうかに関わらず、他の人がそのリンクを見なければ君のウェブページは死んでいるかあるいは盲目であると同然…つまりウェブページの外側にパワーを転送する能力がないということになる。

一方でものすごくパワフルなウェブページはそういった目をたくさん持ったウェブページでもある。何百万人もの人々に凝視されてそこから力を得ているセレブのように、ウェブページはハイパーリンクを通して力を捉え、またある時は力を放つ。

でもInstagramのようなアプリたちは盲目…あるいは殆ど盲目だ。そういったアプリの凝視はアプリの外ヘ一切出ることはなくて、そのアプリの持つ大きな力を他の場所へ行かせることを拒み、そして他の場所には静かな死が待っている。最終的にはソーシャルメディアの外のウェブサイトは死ぬことになるだろう。

でも僕が刑務所に入る前でさえ、ハイパーリンクの持つ力は抑制されていた。その最大の敵はある哲学だった。若いセレブ達に支配された現実世界を反映した”目新しさ”と”人気”…それは現代において最も支配的、そして最も過大評価されている2大バリューで、その哲学がその2つをつなぎ合わせたのだ。その哲学を僕らはStreamと呼ぶ。

Streamは今や人々がウェブから情報を受け取る術を支配している。数少ないユーザーしか専門のウェブページの情報を直接チェックしていないのだ。その代わり人々は複雑で(そしてシークレットな)アルゴリズムによってピックアップされた、終わりのない情報の流れを食べさせられているのだ。

Streamとはつまり君がもうたくさんのウェブページを開く必要がないという意味だ。ブラウザのタブもいらない。というかブラウザすら必要ない。スマートフォンのTwitterかFacebookアプリを開いたらあとはスワイプしていくだけでいい。そうすれば情報の山のほうから君に向かって来てくれるのだ。アルゴリズムがすべてをピックアップしてくれる。君や君の友達が以前に何を読んだかによって、アルゴリズムが君の読みたいものを予測してくれる。面白い情報を見つけるためにたくさんのウェブサイトを回って時間を無駄にすることもないから、最高だ。

でも何か見逃していないか?効率性と引き換えに何かを失っていないか?

多くのアプリでは、僕らの投票…いいねとかプラスとか星とかハートとか…は可愛いアバターとかセレブのステータスに関係していて、投稿された内容にはあまり関係していない。ごく普通の見た目の人が最高に素晴らしい一節をStreamの外に書いたって、セレブが書いたどうでもいい話のほうがインスタントインターネットで注目を浴びるのだ。

そしてStreamの背後にあるアルゴリズムは目新しさと人気の両方を重要と捉えるだけでなく、僕らはがすでに”いいね”したものと似たようなものを表示する傾向にある。こういったサービスは僕らの行動を入念にスキャンし、ニュースフィードを微妙に変えているのだ…アルゴリズムが僕らが好きそうな投稿、写真、ビデオを考え、それを表示しているというわけだ。

人気というものはそれ自体間違ってはいない、でもそれ自体に危険を孕んでいる。フリーマーケットの経済では品質が悪い商品を間違った価格で売ると、失敗に終わる。出てくるラテがまずくてサーバーの音がうるさいブルックリンの静かなカフェが廃業したところで、誰も怒らない。でも意見というものは物やサービスと同じではない。人気がなくても、どんなに悪くても、意見が消えることはない。ものすごく大きなアイデア(と多くのバッドアイデア)は往々にして不人気であることは長い歴史が証明していて、そのアイデアのほんの少しのステータスだけがそのアイデア自体を優位にしている。少数派は意見が伝わらなかったり認められなかったりすると、過激派に変わる。

今日のデジタルメディアの情報を組織化する支配形式はStreamだ。Streamはすべてのソーシャルネットワークとモバイルアプリの中にある。自由を手に入れた瞬間から、立ち止まって振り返るとどんな場所でも僕はStreamを目にした。僕が推測するに、同じ原理でニュースウェブサイトが全体のコンテンツを組織化するまでにそんなに時間はかからないだろう。Streamの重要な点はコンテンツの品質に関係なく、大量のインターネットの塊をユーザーの好みに変えるという点だけじゃない…それはワールドワイドウェブが思い描いていた多様性に対する深い裏切りをも意味しているのだ。

過去と比較して、現在のオンライン上ではテーマと意見の多様性が縮小しているとしても、僕は全然不思議には思わない。新しくて、今までとは違う、難題なアイデアは今日のソーシャルネットワークによって支えられている、ソーシャルネットワークのランキング戦略が人気と習慣化のプライオリティーを決めているからだ。(Appleが自身のニュースアプリのために人間の編集者を雇うのも不思議じゃない。)でも多様性は別の方法で、別の目的のためにどんどん減少しているのだ。

目に見えるものもある。そう、僕のTwitterやFacebookへの投稿は個人的なブログに似ている…すべての記事は書いた時と逆の順に、指定されたウェブページ上に並べられていて、それぞれの投稿はウェブアドレスを持っている。でもその見た目に関しては僕はほんの少ししかコントロールできない。思った通りの自分個人のものに変えることができないのだ。マイページは僕のためにソーシャルネットワークのデザイナーが決めた統一されたデザインで、僕らはそれに従わなければならないのだ。

情報の中央集権化は物事を簡単に消せてしまうという点も悩ましい。僕の逮捕後、僕が使っていたホスティングサービスは僕のアカウントを抹消した。逮捕されていたので月額料金が払えなくなっていたからだ。でも少なくとも僕はウェブサーバ上のデータベースにあるすべての投稿のバックアップを取っていた。(当時のブログプラットフォームには君の投稿やアーカイブを君自身のウェブスペースへ転送する機能があった…でも今ではほとんどのプラットフォームにはそんな機能は付いていない。)もしバックアップを取っていなくても、インターネットアーカイブ上にきっとコピーが残っている。でももしFacebookまたはTwitter上の僕のアカウントが何らかの理由でシャットダウンされてしまったら?それらのサービス自体はすぐに無くなることはないだろう、でも現在の制裁体制の結果として多くのアメリカのサービスがイラン人のアカウントをシャットダウンするのを想像するのはそんなに難しくなないだろう。でももしそんなことになっても、僕の投稿の幾つかはダウンロードできるかもしれない。そしてまた仮に簡単に他のプラットフォームにそのバックアップをインポートできると仮定しよう。でも僕のソーシャルネットワーク上のユニークなウェブアドレスはどうなる?誰かがそれを手に入れた後で僕に返すように要求できるのだろうか?ドメインネームも手を変えるだろう。でもそのプロセスを管理するのはもっと簡単でもっと明快になる…君と売り手は金銭的な関係を持っていて、その売り手が突然に不透明な決定を下すことはないからだ。

でもこのソーシャルネットワーク時代における情報の中央集権化で最も恐ろしい点は他にある…ソーシャルネットワークは政府や企業に対する僕らの発言力をものすごく弱くしているのだ。

監視は現代の生活の中でますますいろんな場面に課せられるべきものに変わってきていて、時を追うごとに事態は悪化していっている。莫大な数の監視装置から逃れる唯一の術は洞穴へ逃げ込んで眠ることだけだ…300年間は眠れないだろうけど。

監視されることに僕らはいつか慣れて生活の一部として暮らしていくしかないし、悲しいけど僕らの国の住人にはどうすることもできない。皮肉にもFacebookやTwitterと協力している州の方が、イランのようなインターネットの支配権を持っているけどソーシャルメディア企業への法的なアクセス権がない国よりも自身の市民のことを知っているのだ。

でも監視されるよりもっと恐ろしいことは、コントロールされることだ。Facebookはたったの150の”いいね”で両親よりも僕らを知ることができて、300の”いいね”で僕らのパートナーよりも知ることができる。政府にとってもビジネスにとっても、世界は予測しやすい場所になっている。そして人々を予測できるということは人々をコントロールできるということだ。

中流階級のイラン人は、世界のほとんどの人々のように、新しいトレンドに目がない。実用性とクオリティーは2番以降で、いつも流行っていることが一番だ。2000年代の始めはブログを書くことがクールで流行の最先端だった。そして2008年あたりからFacebookが現れて、次にTwitterがやってきた。2014年からの誇大広告は全部Istagramについてのことで、次に何が来るかなんて誰も知らない。でも僕がこれらの変化について考えれば考えるほど、僕の懸念が誤った方向を向いていることに気づかされる。多分僕は過ちを犯さないか心配しているんだ。きっとハイパーリンクは死なないし、完全なる情報の中央集権化も怒らないだろう。

テキストは無くなってしまうかもしれない。だって、初めの頃ウェブの訪問者はウェブマガジンを読んでいた、そしてブログが登場して、次にFacebook、Twitterがやってきた。今や人々が時間を費やすのはFacebookやInstagram、それにSnapChatだ。ソーシャルネットワーク上ではテキストがますます少なくなってきていて、ビデオと写真はますます増えている。ウェブ上で読む機会が減っているのは僕らが視聴することを選んだからなのだろうか。

このトレンドは人々の文化的習慣が変わったことよって形成されたのだろうか、あるいは僕らがソーシャルネットワークの新しいルールに従っていることによって形成されたのだろうか。僕にはわからない…それは研究者たちの仕事だ…でもこれは昔の文化的闘争のリバイバルのようにも感じる。ウェブは最初本を真似ることから始まり、それが数年続いた。ウェブは長い間テキストに、ハイパーテキストに支配されていた。サーチエンジンが巨大な価値をそこに付け加えて、全ての企業が…全ての独占企業が…それをもとに建て直された。でもたくさんのイメージスキャナーやデジタル写真やビデオカメラが指数関数的に成長してきて、また何かが変わりつつある。検索ツールは最新の画像認識アルゴリズムを導入し始めた。広告のお金は今そっちに流れていっている。

Stream、モバイルアプリ、そして動画…それら全てが本のインターネットからテレビのインターネットへ向けた出発を示している。僕らは一方的でないコミュニケーション…ノード、ネットワーク、そしてリンク…から脱却して、一方的な、中央集権化された、階層構造型のコミュニケーションに向かって進んでいるようだ。

発明当時のウェブの未来はテレビなんか目指していなかった。でも好む好まないは別として、今ウェブはテレビに急速に近づいてきている…一方的で、受動的で、情報の流れが内部の中だけで完結するようにプログラムされたものに。

Facebookにログオンすると、僕のパーソナルテレビが始まる。僕はただスクロールすればいい。友達の新しいプロフィール画像、時事問題に関する短いコメント、短い説明文とともに貼られた新しい記事のリンク、広告、そしてもちろん一人用のゲーム。僕はよく”いいね”ボタンや”シェア”ボタンをクリックして、他人のコメントを読んだりコメントを残したり、あるいは記事を読んだりする。でもその間はずっとFacebookの中にいて、Facebookは僕が好きそうなものを表示し続ける。僕が刑務所に入る時に知っていたウェブはこれとは違う。

これはウェブの未来じゃない。これはテレビの未来だ。


時々僕は、多分年のせいで物事に対して厳格になりすぎてしまっているんだと考えることがある。きっとこれはテクノロジーの自然な進化なんだと。でも今の現状から目を話すことはできない。知的なパワーと多様性の損失、そして可能性ではあるが、僕らはこれから厄介な時代を迎えようとしているのかもしれない。昔のウェブはパワフルで、僕を刑務所に送るには十分な力を持っていた。今はどちらかというとエンターテイメントになってきている。エンターテイメントすぎて、イランでさえソーシャルメディア…例えばInstagram…のアクセスをブロックする必要はないと捉えている。

人々が他とは違った意見を発信したり、長い文章や140文字のテキストを読んで嫌な気持ちになったり、そういったことに時間をかけていた時が懐かしい。ブログに何か書いたり、独自のドメインに投稿したり、記事を広めるためにたくさんのソーシャルネットワーク上で執筆と同じくらいの時間を過ごす必要がなかったあの日々が懐かしい…誰も”いいね”や再シェアのことなんて気にかけていなかった。

それこそが僕が刑務所に入る前に記憶していたウェブだ。それこそが僕らが守るべきウェブだ。

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Thanks to Medium Japan

Translated from original by Hiroshi Takeuchi.

Hiroshi Takeuchi

Written by

Medium Japaneseでボランティア翻訳をしています。

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