それでも生きていたい

葛西善蔵「湖畔手記」より


1.

酒に浸り、自暴自棄になった生活の中で、忍び寄る死の影と対話しているような小説である。主人公は郷里に妻子を置いてきぼりにして、東京で執筆活動をしながら貧しい生活を凌いでいる。仲間のK は肺病に冒されている、自身と同じ病である……。

冒頭は東京新聞の栃木版に、船の衝突の事件が報じられたことから始まる。「生ける屍の船長夫妻」という見出しの「生ける屍」という言葉が、自分の境遇にぴたりときた主人公は、様々な想いをつらつらと書き出す。

「生ける屍か……」と、自分はふと口の中で呟いた。
白根山一帯を蔽うて湧き立つ入道雲の群れは、動くともなく、こちらを圧しているように寄せ来つある。そして湖面は死のように憂鬱だ。自分の胸は弱い。そして痛む。人、境、俱不奪[ともにうばわず]――なつかしき、遠い郷里の老妻よ!自分は今ほんとうに泣けそうな気持だ。山も湖水も、樹木も、白い雲も、薄緑の空も、そうだ、彼等は無関心過ぎる!
『哀しき父 椎の若葉』葛西善蔵(講談社文芸文庫)湖畔手記より p.186

葛西善蔵は、個人的に詩人であったら、もっと幸福な人生を送れたのではないだろうかと思っている。時おり、このように詩的な文章がキラリと光る。

正午近い日を浴びて、銀色に輝く樹肌の、二抱えに余る楢の巨木の林の美しさに見惚れたりしながらも、自分は何となく淡い幻滅感をそそられて、淋しく口笛を吹きながら阪道を登って来た。二三日前から禁漁となった湖は、黄、紅白、濃淡の緑と、とりどりに彩られた山の姿を逆さに、鮮やかに映していた。が斯うしたこの湖の誇りも、やがてひと月の後には、氷と雪に封じられて死の湖として永い冬を過さなければならないのだ。(同) p.215

そして自然の風景を絵画的に愛した人である。郷里は青森である。雪や冬の風景の描写は、特に際立って美しい。

何の意味? ……否! 好き山の乙女達よ、いつまでも清く美しくあれよ。そして自分の芸術? ……自分は思わず溜息をついた。(同)p.197-198
2.

主人公には妻子があり、愛人おせいに子ができたことを知る。現代社会では考えられないが、本妻とおせいを挨拶させたとのことである。そして主人公は、事がおさまると考えていたらしい。

「湖畔手記」は主人公の独白によると、「さびしき妻より」と手紙を送ってきた妻へ宛てた返信のつもりであった。謝罪の気持ちを込めて。この事実は小説がほぼ後半に差しかかる頃、突然読者に明らかにされる。

これは驚きである。なぜなら、前半から自分の身の上を嘆いているだけだから。上の引用部分では「老妻」などと書いてあり、ちょっとひどいという気もしてくる。

葛西善蔵の小説はこのように突然、また気まぐれに、ある事実が発表される。語り口調が急に変わったりするのは、酒を呑みつつ、切れ切れに書いていたからだろう。

一日に二枚書ければ祝杯をあげたという話は有名である。書くのが苦痛というよりも、やはり詩人向きだったのだろう。アルコール中毒で長くひとつの思考を保つことができなくなったのも、理由のひとつかもしれない。

3.

同じ肺病のK の病状が悪化していく様子は、主人公の自分の嘆きの隙間に時おり書かれている。(電報のによって、彼はキムラサンという名であることが判明する)

「湖畔手記」の底辺に流れているのは、間近に迫った死の足音である。予感があるのに、それはなかなか来ない。同時に、自分はいつ逝くのだろうかという不安。二つの死に対する感情が対峙している。

ついに「ゴゼン三ジニシス」という電報が主人公のもとに来る。Kの絶筆となった作品は「欺く」というタイトルであった。

「それにしても、もう一欺き二欺きしても、生き延びれなかったのかなあ……」唯一の飲み相棒であった彼に、自分は心の中で盃をささげた。(同)P.218

急に主人公の様子は変化する。死は、別のところに訪れたという安心感なのだろうか。

そしてこの、「欺く」の作者ほど、自[みずから]をも他をも欺き得なかった人を、自分はほとんど知らない。(同)p.220

小説の最後は、なぜかK への追悼が語られる。読者はちょっぴり拍子抜けする。

-作家 葛西善蔵という人-

四十二年の生涯に、四十数篇の小説しか残さなかった。私小説家として知られ、自身の生活をほぼそのまま書いたと伝わる。この「湖畔手記」は、主人公=葛西善蔵という捉え方もあるが、それはあまりにも短絡的な解釈であろう。

愛人おせいとの関係、自分の酒癖を責めている話が多いが(そのエピソードはたびたび繰り返される! 書いたことを忘れていたのかもしれない)、一方「雪女」など幻想的な作品も残している。

人生を倦み、自身を倦み、芸術を倦む。疲労感や倦怠感が強い内容が多いけれども、小説に登場する人物たちはなぜか生命力にあふれている。感情的で、発作的な行動に出る者もあり、人情に溢れた者もあり。

それは自身が死という鑑になって、彼らを映し出しているからではないだろうか? 生ける屍は、生ける鑑となって、生きている人間のそれぞれの人生を映し出している。

私はそこに、生への願望を感じる。葛西善蔵は熱意をもって生きた人である。悲哀の中に沈み、どこまで沈めるか、試した人であると思う。どん底にあっても、人間という実態を失ってただの鑑となっても、「それでも生きていたい」とたたかっていたのではないだろうか。

(了)

※引用部分はくの字点、一部踊り字を入力の関係上、ひらがな表記しています。