線にならなかった点たちのこと

なんでも自由に書いてみようと思ってとうとう50回目の投稿となりました。なんでも書いてみよう。これは案外くせものです。今までに書いたものに引きずられる。特に前回の投稿がそこそこ読まれた(と言ってもしれているけど)ものだとなおさらです。好きで勝手にMediumをやっているので、特に締め切りなんてないし、自分が好きなことを書けばいい、あるいはまったく書かなくったっていいというのに、次に書くことは今まで書いていたことと矛盾しないだろうか?と気になってきて、だんだん不自由な感じがする。

10何年も同じトーンで淡々と続いているブログがたまにありますが、あれは本当にすごいと思います。

日本の建築には「外国は全体から部分へ行くが、日本は部分から全体に行く」という傾向があるそうです。「神は細部に宿る」というドイツ人の言葉もありますが、これは要するに細かい部分「まで」気をぬくなよという教えであり、全体が存在しないというわけではない(多分)。

全体から始める文章を最近ウェブでよく見かけます。流し読みなら1分もかからないような文章にすら「目次」があったり。アウトラインをはっきりさせて、効率的に伝えようという意図でしょう。しかし世界に問いかける渾身の論文ならともかく、ちょっとしたライフハック記事をああいう風に語られるのは、個人的には興ざめします。

むしろ、なんの役にも立たないこだわり、それも好きでやっているのではなく、本人もくだらないとわかっているのに、どうしても気になって仕方ないというような個人的なこだわりが感じられる瞬間が好きです。

全体なんてあまり当てにならないような気がしています。ひとりの人間だって時と場合で豹変するし、10年も経てば細胞は全部入れ替わるのです。どちらがその人の「本質」でどちらが「意外な一面」なのか、そんなことは自分自身にもわかりません。目の前にあるのは今この瞬間という断片だけ。それをあとで振り返ってみて、昔の人が夜空に星座を描いたように、何か全体のようなものが浮かび上がる、そういうイメージが最近強くなってきました。

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