休日こそ自分の価値観が表出する時

Shinichi Sasaki
Just A brick in the Wall
3 min readMar 6, 2017

今年に入って自分のミッションとかビジョンなんてものを考えていた。考えるというよりは見つけ出す作業であった。風呂に入ったり、瞑想したり、心を落ち着かせていたりする際に、ふと自分の大事にしていることに気づいたりする。

そういう言葉を集めていざミッションステートメントというものを作っても、それが日々の行動に活かされることがあまりない。

今日も仕事をし、少し本を読み、いつも通りスマートフォンをいじる。自分の生きる理由を探すとか、日々学びを得るとか、生きることに感謝するとか、あの時気づいた自分の価値観とはなんだったのか。

そもそも自分は驚くほどにぐうたらな人間なのだろう。

たまたま他人より少し頭が勉強ができるに過ぎない。たまたま他人よりプログラムを書くことに長けているに過ぎない。いくら世の中の意識の高い人達に憧れて背伸びをしようとも自意識が高いだけに過ぎない。

驚くほどに残酷に自分を見ると、こうなる。

これまで、オープンソースで貢献するとか、自分でWebサービス作るとか、新しい技術を勉強するとか、何回も決断はしたが、結局何もやらなかった。残念ではあるが、僕はできない人間なのだ。

それがよく分かるのが休みの日の過ごし方だ。たとえ一人の時間ができたとしても、漫画を見たり、テレビを見たり、ネットをしたり、ちっとも「たった少し前にやろうと決断したこと」に着手ができない。時間がないという言い訳をするにも関わらず、休みの日は仕事の疲れをとるためと言い訳して何もやらない。

休日というのは、普段の仕事とは切り離され、解放される日であるため、その人の本当の姿が表出するのではないかと思う。そりゃそうだ。休みの日にまで、会社の仕事をするほうがそもそも異常なのだ。

それでも仕事が好きでたまらない、仕事を通じて社会に貢献したい思いが強すぎる人は休日も働いたり、それに近い活動ができるのだろう。一方で家族を大事にしたい人は家族サービスに精を出すだろうし、きっと多くいるだろうぐーたら人間は休日は寝たりゲームをする日でありたいのだ。

ただ一つだけわかったのが、休日に家族と楽しい日々を過ごすと大変に幸せな気分になるということ。仲間と遊んだり、酒を呑むことが楽しいということ。僕の価値観なんて、家族と友人と楽しく幸せな時間を過ごすというとてもありふれたものなんだと、気がついた。

これまで僕を支配していたギークであるべきというドグマは、自分のプログラマとしての生存戦略として長く根付いていたものだ。それが崩れる音がする。それまで信じていたものを簡単に変えられるのだろうか?でもこれこそが「見つけ出す」行為なのだろう。

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