メディアアートの特性と区別

メディアアートとは何か? 他のアートフォームとメディアアートを区別する要素があるとしたらそれは何か?

メディアアートとは何か。それは「メディアアート言論」によると様々な物質を繋げる「メディア」としての役割を果たしている芸術活動である。

「「メディア」の原義は「媒質」つまり「何かとなにかをつなぐ」ものなので、メディアアートの言い換えとしての「ハイブリッドアート」」位置No281/2296引用

新しい技術は今まで扱ってきた物質・概念に新たな側面を見せるような役割を果たす。たとえば、パイクが様々なコンテクストを持った映像をザッピングして流したことにより、今まで一方向に流れてきた文脈や時間をテレビという新しいメディアによって混乱させるという新しい表現を生み出してきた。

しかし、この定義だと例えば単純な絵画でも紙と絵の具という二つの物質を繋ぐメディアアートだと捉えることも可能なのではないか(この点については後に詳しく触れる)

だが、一般的にはメディアアートという言葉は1980年代以降に使われるようになった言葉であり、このことから使用するメディアはいわゆる電子機器的なテクノロジーを使用したメディアであると推察される。

それでは、何が他のアートフォームとメディアアートを区別するのか。この本には以下のように定義されている。

「つまりメディアアートとは、ICCの展覧会名にもあったように、まず「メディアコンシャス」な表現であり「メディアとは何か」ということを自己言及的に問い続けるものだ」位置No329/2296引用

再度、パイクの作品を例に挙げる。「マグネットTV」という作品ではテレビの上に磁石を置くことで、画面を乱れさせる。つまり、我々はただ画面に映った映像を楽しむのではなく、それを映すディスプレイ自体に対して興味が向かう。

この本からの比喩を引用するのならば、窓があり、その向こうに遠近法的空間が広がっている様子を絵画として描くのがコンテンポラリーなアートだとしたら、その窓自体に影響を及ぼすのがメディアアートである。 位置No364/2296から位置No372/2296参照

しかしながら私は2021年現在の立場から、本当にこのパイクの作品が有効であるか、またコンテンポラリーアートはメディアアートとはかけ離れたものなのかを考えたい。

確かにマグネットTVが発表された1965年は、まだ今のようにテレビは普及しておらず物珍しいものとして認知されていた。それゆえ、映像が映ること自体に感動をしていた観客が映像がゆがんだときに、そのディスプレイ(ブラウン管)に対して意識が向かうのは想定できる。

しかし、我々は今メディアの洪水の中にいる。大小様々な液晶に囲まれて過ごし、高画質の映像を垂れ流す。あるいはインスタグラムでは古い映像調のフィルターをかけることに慣れてしまっている。

このような状況で、ブラウン管の映像がゆがんでもおそらく観客は「そういうものだ」と認識するだろう。「ゆがんでいる映像」は「ゆがんでいる映像」としか認識されず、メディアに興味が行くことなんてない。

大量のメディアを摂取した現在の我々は最新のメディアアートに対してある種の不感症になっていると考えられる。

人気アーティストの歌や踊りに合わせて動くレーザーや3D映像は光という古来からの人間のそばにあるメディアを自由に操り、彫刻のように扱うことに成功したメディアアートだと捉えることも可能ではあるだろう。

しかし、結局「すごい映像」ぐらいにしか捉えられていないのではないだろう。コンピューターと光の関係について思いを巡らせる人が果たしているだろうか。

つまり、生まれた時から最新のメディアからの作品を浴びてきた世代にとって、そのメディア自体を認識することは容易ではない。空気のようにそこにあるのが自然であるからだ。それゆえ、単純にメディアを使った「美しい作品」ではもう2021年にそれをメディアアートと認めさせるのは難しく、ある種のハードコアな何か突出したものがないと人々にメディアアートだと認識させるのは難しいだろう。

また、コンテンポラリーアートの可能性についても触れておきたい。

この文の最初の方に、絵の具と紙はメディアアートではないのか?という問いが導き出された。私個人の体験を交えて、それについて答えたい。

ポーラ美術館で開催されている「ロニ・ホーン:水の中にあなたを見るとき、あなたの中に水を感じる?」を観に行った時のことである。

ロニ・ホーンは写真、彫刻、ドローイングなど様々な手法を使って制作を行うアーティストである。その中でも、同じ女性を同じ時間にとり続けた作品群は時間と写真の関係を力強く表現したすぐれたアートだと思った。

しかし、私がポーラ美術館で印象に残ったのは、同時に開催されていたモネの作品である。展示されていたのは油彩の風景画である。モネの作品を直接観たのは初めてだったが、私は一見してその風景画の繊細さに驚いた。遠くから眺めていても作品が立ち上がってくるようなリアリティがあった。しかし、近づいてみると更に驚いたのはタッチの荒さである。つまり、(大げさに言えば)絵の具の置き方が「雑」だと感じた。遠くから見たときはきっと細かな線の集合体なのだろうと思ったが、ベタッと絵の具を紙に置くように描かれていた。ここで私は、絵の具と紙というアナログな機材のその情報量を再発見したことになる。

これはメディアに対しての問いかけをすることがメディアアートだとするのなら、間違いなくモネの作品群はメディアアートではないだろうか。

つまり、先ほどの窓の例を使うのなら、コンテンポラリーアートは窓からの景色をただ描くだけだがその方法によってはメディアに対して新鮮な感覚をもたらし、メディアアートと呼ばれているものが最新の技術を使ってただ窓に影響を与えてもそれは今までに感じた感覚をなぞっているだけになってしまうという逆転現象が起こり得るのだ。

これは言い換えると優れた作品はどのようなメディアを使った作品であれ「メディアアート的な要素」を含んだ作品になってしまうと考えられないだろうか。

こう行った経緯から、必ずしもメディアアートとコンテンポラリーアートはくっきりと区別することの可能なものではない。そしてメディアアートとは単なる近年の流行などではなく、アートの本質と関わっている概念なのではないかと私は考えた。

引用・参照した本は全て「メディアアート言論」より

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