『メディアアート原論』考察

— メディアアートとはなにか。—

メディアアートという言葉は、世の中ではただ漠然と「コンピュータを用いて作られるテクノロジカルなアート」として認識・処理されている。そして良くも悪くも連想される作品はチームラボである。メディアアートの厄介な点は、他のアートと比べて指定されるアートの範囲が大きく曖昧であり、用いられる「メディア」自身についても明確なくくりがないことにある。しかし、これらの厄介さが、メディアアートがメディアアートとしての価値を持っている理由としても挙げられると私は考える。

そんな中、『メディアアート原論』を読み、私はメディアアートを「さまざまな媒体をハイブリットに繋ぎ、自己言及的にある事柄を問い続ける表現・アート」と解釈した。媒体と媒体とをつなぐ媒質としてのメディアは、その性質上必然的にハイブリットになる。メディアアートは、これまでの芸術の範疇の外にあった技術との「混合」であり、「芸術表現・科学技術・それらが接する場所としての社会」の3要素が混じり合う場所として存在している。

そしてさらにメディアアートにおいて取るべき大切な態度として、常に「懐疑的なスタンス」であることが重要であると書いてある。これは言い換えると「自己言及的な問い」とも言え、マジョリティや常識を比較しながら疑ってかかり、そこにある誤解や真実を見つける「スペキュラティブな精神」が必要である。

つまりメディアアートとは、雑踏のカオスの中から問題を洗い出し、提起し、解決の糸口を探る表現であるのだと考える。そしてそのツールとして、最適なメディアをハイブリットに組み合わせた新たな使い方で用いるのだろうと思う。

この際、「最適なメディア」とは単に最先端で新進気鋭の技術ではなく、作品を見る者にいかに共感してもらえるかが重要である。最先端というのは「世間ウケ」「ビジネス面」という点でいわば保守的なものであり、大切なのはメディアの使い方・組み合わせ方である。

またその「メディア」に対する議論として、メディアとはなにかを本質的に問う正攻法は、常にエラーや破壊といった「逸脱」を見逃さず迎え入れることであると書かれていた。これは先人の歴史からも明らかであり、常に成功のみを追い求めていては本質には気づけないという点に共感した。

しかし私は、メディアアートにおける「メディア」に対する定義が非常に難しいと感じた。本では、メディアを語る上でメディア論は欠かせないと書かれている。またそれは、先端性は重んじず、自分の表現にあったメディアであることが重要だそうだ。これを踏まえると、新しい先端のメディアには、当然未知の芸術や新しい概念を提起するなにかが潜んでいるかもしれないが、既存の・我々の生活に溶け込んだメディアは、身近なだけによりインパクトのある表現ができるのではないか。

例えば、2001年に行われたアイドルグループSMAPデビュー10周年キャンペーンのクリエイティブ・ディレクターを務めた佐藤可士和氏は、新たな発想として街中の路駐車両を「メディア」と捉え直し、そのすべてにSMAPのアイコニックなロゴの入ったカバーをかぶせて人々の目を引く広告を行った。これはアートではなくあくまで広告という側面が強く、文脈は多少異なるものの、路駐という日常に浸りきった当たり前の現象・存在に着目し、その生活・風景への関わりの強さから、メディアとはなにかを自己言及的に問い直すプロジェクトだと私は考える。

同じカバー関連で言えば、環境を題材にしたアーティストであるクリストとジャンヌによる、建造物を布で覆い隠す作品が有名である。最近ではパリの凱旋門に布を覆いかぶせた作品があったが、これも歴史的建造物をメディアと捉え直すことで、都市において市民に慣れ親しんだランドマーク的存在の絶対性を改めて問い直される作品になっているのではないだろうか。その結果、より強烈に自己言及的な表現が可能になっている。

このような例は、日常にありふれているが身近なためメッセージ性のある作品となっており、「メディア」を考える上で大きな視点の転換を促すものだと思う。

課題本におけるメディアアートの定義に照らし合わせても、これらはある種メディアアートと呼ぶことができるのではないだろうか。

ではこのように身近で親近感のあるものが「メディア」として強烈でインパクトを与えることができる中、なぜメディアアートにはその時代時代の最先端技術を用いたものが多いのだろうか。(これは現在ではAIのことを指すと思う。)

それは、「どの時代も最先端の技術特有の先端性が、その時代を最大限に映し出す自己言及性を内在させている」からではないだろうか。最先端は保守という側面があったのは事実だが、一方で最先端は、広がり続ける人間の限界と未知領域のキワキワに位置していてまだ不安定な存在なのだから、その時点での人間を「不安定に」映し出すことが可能だ。例えば現代のAIは、最先端のツールとされ世の中に広がりつつあるが、その使用法はまだまだ広がり始めたばかりという意味で「不安定」だ。これは当時のコンピュータやインターネットの登場時期でも同じであったと思う。

しかしこの「不安定」が自己言及的な表現を可能とする余地を残すのだと思う。不安定さはそのツールの「誤用」につながり、その誤用は人間の意図しないところで発生すると、それまであった使い方、人間との接点、そのツール自身を自ら問い直すことができるのではないだろうか。

メディアアートにおいて、身近で人々に浸透したモノを「メディア」とするのがありとした一方で、最先端の技術は最先端にしか持ち得ないメッセージを発信できることも事実である。

メディアアートの「メディア」には、世の中のすべてのものがなり得るが、なにか自分を問い直すような性質が、メディアアートをメディアアートたらしめていると考える。

この本はメディアアートの定義やそれの示す範囲を考えることで、メディアとはなにか、アートとはなにか、デジタル、インターネットなどの関わりも考え直すとても良い機会になった。

参考文献:久保田晃弘, 畠中実. メディア・アート原論. フィルムアート社, 2018年.

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Shotaro Yoshida
Keio SFC — メディアアート実践 2021

吉田翔太郎 -Keio SFC 環境情報学部 [Keio University SFC Faculty of Environment and Information Studies]