総合大学がメディアアートをやる必要性 -久保田晃弘+畠中実『メディア・アート原論』を踏まえて-

定義について

まず最初にメディアアートについて軽くまとめたい。この本で定義されているメディア・アートは「メディア・コンシャス」な表現である。一般的には「コンピュータなどのデジタルメディアを用いた芸術作品」という認識が強く、メディアを比較的新しい技術を用いた単なる表現媒体と見なし、それと一本の線で結ばれた形でコンセプトが存在するという意味合いでよく使われている。一方でこの本では、そういったアート&テクノロジーやアート&サイエンスとは区別して、メディアアートにとってメディアというのは主題であるし、だからこそメディアアートと呼ばれてきたのだという。これはメディアはただ単に表現媒体の役割だけでなく(もしくは表現媒体にすらならないときもある)、その作品が提起する概念や価値観にあるということである。P167ではフォンタナの《空間概念 期待》やネットアートの黎明期の作品を例に取り上げて、それらと同様にメディアアートはメディアに意識を向けているからこそメディアアートというのであると、簡潔にまとめられている。私の考えでは、「メディアアート」ではなくもの派のように「メディウム派」などと名付ければここまで「メディアアート」の定義に関する議論が複雑にならなかったのではないかと思う。芸術の言語にしたいなら安易に「アート」などと付けないほうがある種上手にエンタメやデザインとの壁をつくれるからだ。まあおそらく20年後にはメディアアートという言葉は死んでいると思うが。

さてここで、この本の定義におけるメディアアートをまとめてみたが、ここから述べる内容については広義の意味でのメディアアートを用いたいと思う。大事なのは、言葉の定義ではなく、実際に多くの人が捉えている意味であるからだ。そもそも、アートはアートの定義から逃げ続けるからこそアートでいられるのだ。それに私たち表現者は定義やジャンルなど気にせずただただ新しい世界を創りつづければよいのだ。

総合大学とメディア・アート

私は慶應大学SFCの生徒であるため、総合大学であるSFCでメディア・アートを学ぶ意味について考えたい。美術・芸術大学ではないものの、プログラミングスキルやデザインスキルを学べる環境にあるSFCでは、「社会への実装をするメディア・アート」が強みなのではないかと考えている。日本の美大・芸大では、非常にナイーブで主観的な作品が多く、クリエイティブ派と社会派が明らかに分断されている中でのクリエイティブ派な作品が圧倒的に多い。「私」がどう世界を捉えているのかを直に表現したり、「私」が経験した半径が小さすぎる苦痛を共有したり、身内にしか評価されないようなものが世界的なアートシーンとは全く別世界として広がっている。もちろんそういった印象派が好きな日本人が好みそうなアートも非常に素晴らしいものもあるが、人間中心になんでもかんでもアップデートし続ければいいという時代でもない。ときには退化と思われるようなこともしなければならないし、基盤にある価値観を疑い続けなければならないし、もしかしたら人類を滅ぼさなければならないかもしれない。だからこそ、いわゆる社会派な作品、社会に毒を吐き、無理矢理にでも変えていく作品が必要なのだ。

そこで私たちSFC生がやるべきこととは(=メディア・アートを学ぶ意味とは)、「私は」という言葉から一歩外に踏み出し、客観という世界に目を向けた作品をつくることだと思う。アルスに出展する日本人作家は多くが総合大学出身であるように(体感なので実際はわからない)、ヨーロッパやアメリカのアートの文脈に載せやすい作品をつくる技術に長けているのは、大学で美術や芸術だけでなく、生命や法律、インターネットなどを分け隔てなく学ぶことで得られる世界に向けるフィルターの多様性をもつ私たちだ。

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