2種類の集中力で学び方を学ぶ

注意欠陥多動性障害の子どもに集中力がありすぎる理由

ブレーキが効かないから落ち着かないように見えるだけ

岡田 康之
岡田康之のブログ

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お子さんの落ち着きがない
と思われたことはありませんか?

学校の授業中に
静かに座っていられないと
「注意欠陥多動性障害」
が疑われたりします。

実際に近年
そういう傾向の強い子どもが
増えていると
私も感じています

注意欠陥多動性障害というと
注意足らないから集中できない
と思われるかもしれません

でもそれは大間違いです

どちらかと言えば
集中力がありすぎることが
多いくらいです

いわゆる集中力は
大きく二つに分けることができます

一つは
「注意しなければいけない事に
集中できる力」

もう一つは
「自分が興味を持った事に
集中できる力」

前者は保護者の皆さんや
学校の先生方が
お子さんに要求したくなる集中力です

大人が子どもに集中して欲しい
学校の授業ですることは
残念なことですが
子どもの方は関心がないことが多い

教科書を書いてる皆さんや
先生方の努力で
興味を引くように
いろいろと工夫はされていても
限界がありますよね

町の誇りということで
江戸時代の言語学者のことを
素晴らしい偉人だと言われても
小学生にしてみれば
「それがどうした」
という程度の話です

そんな訳で
大人が子どもに求める集中力は
実は集中力というよりも
自制心だと言った方が良い力です

そんなことが楽にできる
「良い子」であるためには
自分の心に不正直な部分が
不可欠と言っても良いのです

もう一つの
「自分の興味を持った事に
徹底的に集中できる力」
の方は
その原動力が本人の内側にあります

  • はまったゲームに食事も忘れて熱中する
  • 推理小説を読み始めたら
    止まらなくなって
    気がついたら午前2時だった
  • 芸術家が作品作りに没頭して
    昼ごはんを食べたあとに
    気がついたら朝だった

といった具合です

こんなことは学校では
褒められることではありません

時間がきたら
お片づけに入り
次の時間割という
スケジュールに乗っからないと
あとあと困るからです

ここで求められているのは
集中力というより「自制心」ですよね

注意欠陥多動性障害と
呼ばれる子どもたち(や大人)は
集中力がないのではなく
自制心という名の
ブレーキが効きにくいんです

人間はもともと一つのことに
じーっと集中するようには
できていません

1万年ほど前に
そんなことをしていたら
クマやオオカミに襲われて
食べられてしまったからです

だから集中しているようでも
周りのことが気になるように
できているのです

今していること以外のことに
気が取られてしまうのは
人間にとっては自然なことです

それが問題にされるのは
たとえば学校の授業で
落ち着いて聞いてられず
立ち歩いたりするからです

もちろんほとんどの子どもが
「先生の話を聞かないといけない」
と思っています

でも残念なことに
先生のお話はつまらないことが多い

そこに外から廃品回収のトラックが
大きな声で通り過ぎると
少しは気になりますよね?

先生の話が好きなアニメの話だったり
野球の選手の子どもなら
カーブのかけ方の話だったりすれば
夢中になって
廃品回収なんか気にならない
かもしれません

でも

千年前の会ったことおじさんが
行ったこともない所で戦って
別のおじさんに勝ったのが○○年

テストに出るから覚えよう

とか言われてもねぇ…

そんなところに
廃品回収の声がすれば
部屋で邪魔になってきた
昔のオモチャのことを
思い出したりするわけです

すると
アッという間に先生の話は
どうでも良くなってしまいまます

昔のオモチャから連想して
昨日観たアニメの続きが
気になるのは自然でしょ?

話のついでで晩ごはんのおかずを
想像したりと
連想ゲームが始まるのです

それでも
心のブレーキがかけられれば
それほど妄想に浸ることはなく
「そうだ授業中だった」
と戻って来ることができます

でもブレーキが効かない子どもは
妄想にのめり込んで
あっちの世界に入って
ついつい立ち歩いたりするのです

そうです

保護者の皆さんや先生が
集中して欲しい事にはすぐ飽きるのに
自分が好きなことならのめり込んで
周りが見えなくなっちゃうのが
いわゆる
「注意欠陥多動性障害」
なんて言われちゃう子どもなのです

だってブレーキが効かない上に
集中力が強いのですから

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岡田 康之
岡田康之のブログ

(おかだ やすゆき) 高校数学を教えて計算力の重要性に気づき、計算力の向上に尽力したら生きていく力を培う必要性に行きあたった。600人の個人指導を続けてきたら、自分自身を育てることの欠落に気づき、学び方を再構築している。