ぼっこでっこ建築隊、KRIOSへゆく。
建築家の自邸訪問/Bokko Dekko Kenchikutai goes to ‘KRIOS’/石井良平
連載第6回/2016年3 月 26日/設計:橋本健治
ぼっこでっこ建築隊は、真面目と不真面目のふたつをもって住空間を楽しむ。飲み食い語り、歌い笑ってその空間を共有する。ヤベ隊長はいつの間にか、私を「リョーヘイ顧問」と呼んでいた。隊長命令は今回の訪問記寄稿にまで及んだ。「顧問」です。いやいやそれは勘弁していただきたい。しかし、隊員と共にこの活動の美味を知った限り、「顧問」とやらも書かなければならないかと考え直す。そもそも隊長が私を「顧問」としたのはなぜか。今回の訪問先で説明するのが一番手っ取り早い。KRIOSは 意匠人設計房、橋本健治さんの自邸である。橋本さんは「顧問」より10歳上の敬愛する先輩、ヤベ隊長は10歳下の敬愛する後輩。事務所の名前からも人柄が香り立つ橋本さんはたいへん手強い先輩であるのです。ベテランの先輩建築家には、いきなり迫らず 「顧問」を盾にして攻めようというヤベ隊長の戦略です。
澄み切った青空にはまだ冬の空気が居座って、もうすぐ四月を迎えるというのに今日はかなり肌寒く感じる。阪急電鉄岡本駅の改札を出ると隊員たちはすでに集結を完了していた。今回は「顧問」の仕事として、このややこしい隊のことを橋本さんに説明し「よく分からんけどまあ来てもらっていいよ」と快諾を得ての訪問である。阪急の踏切を渡って北に進むと阪神淡路大震災後にほとんどが 建て替わった高級住宅街を通り抜ける。明らかに同業の仕業と思われる何軒かが建ち並ぶ。坂道を登りながら隊員たちから、それぞれに好き勝手な批評が矢継ぎ早に飛びかい、お互いうんうんと顔を見合わせて頷く。坂道が急になる頃、沢筋の東の山が迫り川の水音が聞こえてきた。水音とともに鶯の谷渡りが沢の木々に溶け込む。最後の難関、道が左にカーブしながら斜度が最大限になった地点でKRIOSが姿を現した。隊員は急斜面に全隊止まれの状態で仰ぎ見る。

家族の名前の頭文字からなるKRIOSは 意匠人設計房のアトリエでもある。RC造+S造の4層が最大斜度25度の道路に2面で接している。前面道路から地階にアトリエ玄関、2階半に住戸玄関。なんと前面道路の一番高い所と一番低い所からの二つのアプローチが用意されている。敷地は急斜面のうえにほぼ3角形の変形だ。この土地に橋本さんが出会ったのはまだ30代であるのに、おそらくここでしか生まれない建築ができると強い確信があったに違いない。橋本さんが40歳の1985年、夫婦と3人の子どものための住まいが完成する。住まいというよりは、家族のための「地球の基地」が完成したのだと思う。1968年に坂倉事務所に入所した20代の橋本さんのまわりには、坂倉先生もおられ西澤さんや諸先輩から多大な影響を受けたに違いない。おそらく「塔の家」(1966年)をかなり意識しての自邸である。また「塔の家」の前には屋上庭園の「サニーボックス」(1963年)、橋本さんが入所した年には立体緑化住居の「上坂邸」(1968年)が竣工したことも忘れてはならない。


アトリエ玄関前の坂道で意匠人は何やら制作中である。「こっちこっち」と手招きされて近づいてゆくと、隊員たちに「ちょっとここ持って」と。橋本さんの一番弟子がまず手伝わなぁと隊長命令が下る。どうやらボランティアらしく、これに掛時計を取付けて少し離れた近隣の集会所にセットされ町の時計台になるという。透明波板のアール屋根と角材の柱脚の納まりはまさに意匠人好みである。

1980年代の坂倉大阪事務所は各地に青少年野外活動センターやスポーツセンター、文化会館、博物館、集合住宅とどんどん設計していく。そんな状況のなかKRIOSの設計はいつ行われたのか。どうやら自宅に帰ってから毎日コツコツと寝ずに図面を仕上げたようだ。事務所の仕事では叶えられない自分の思いを設計したという橋本さん、まだ30代である。身を削りながら眠りのない夢の時間であったにちがいない。その頃、橋本さんの担当は「堺の緑化センター」であり「伊丹の緑道」と、緑に深く関わる仕事をしていたことも見逃せない。西澤さんからは「建築でなすべきことは何か。建築を設計する姿勢と生き方を学んだ」また当時の所内では「縦に抜ける空間はなかなか設計させてもらえなかった」とも。
時計台の組み立てが終わると「ここからどうぞ」となり、全員が地階のアトリエ玄関からお邪魔する。両開きスチールドアは上下にも分割されて4枚建てとなっている。風との相性も良さそうだ。入って天井を見上げると上に抜ける丸い孔にはツリーサークルがはめ込まれている。その孔は上階で円形透明の机と掘り炬燵になる。独立した子どもたちはここで寄り添ってみんなで勉強したそうだ。平面プランは階段ゾーンを決める壁に穿たれた様々な孔で両側の矩形と三角ゾーンと微妙につながる。地階では整形5角プランだが上階に昇るにつれて、3つのゾーンそれぞれが外部を孔で切り取り、外部を内部に取り込む。飛び出す3角バルコニーは上下で重なり5角プランが変形してゆく。




縦に抜ける床の孔は1階で丸、2階で三角、3階で四角となって屋上のトップライトが最後の孔となる。その位置は微妙にずれながら、光と風と家族の気配を上下に伝える。外壁と内壁には小さないろいろな孔が穿たれている。アクリルやガラスが埋められて、アスロック断面使いの通気口や建具枠もある。「透ける」は西澤さんの言葉であり、透かされた建築が自然と一体になる。憶測だが「建築に何が可能か/有孔体理論」(1967年)を読んだであろう橋本さんは自邸KRIOSを「多孔環境」と呼び、自然と一体となれる住居をめざしたのだろう。







透かすための重要な仕掛けは階段にもあった。先ほどのツリーサークルもそうだが既成の工業製品を転用し建築化するのが意匠人好みだ。階段の踏板は亜鉛メッキ縞鋼板の側溝蓋である。4隅が切り掛かれて端部は R加工されている。既製品のままだという。こんな溝蓋は今まで見たことがない。階段は右足用と左足用の一段飛ばしの踏板だ。そのため見透しがきいてスキップフロアの玄関ゾーン、洗面ゾーンと一体性を高めている。慣れない隊員たちは右足か左足かどっちが先かと頭を使いながら、ようやく本日の待ちに待った居場所の食堂にたどり着いた。



テーブルには馴染みの「ほたる食堂」の三段重が並べられる。いつものように料理を楽しみビールからワインへと進んだところで、橋本さんの奥様が先ほど近所で収穫したアミガサタケをソテーし、いい香りが食堂に充満する。奥様は詩人でありキノコとそして瓢箪笛の先生でもある。「ことばによる原色きのこ図鑑」という詩集を隊員全員がお土産にいただいたうえ、いくつかの詩を朗読してもらう。オオタ隊員、オクワダ隊員もいつにない真剣な表情である。これこそがぼっこでっこ建築隊でしか味わえない貴重な空間だ。
食堂に限らずKRIOS全体にいろんな物があちらこちらに存在する。この住居というよりは基地のなかに地球の各地から人や自然が形作った物が蒐集され堆積している。独立した子どもたちの記憶が圧縮され、うえには新しく孫の記憶が重ねられる。外壁の孔から内部に侵入してきた緑も増殖しながら共存する。物はこの家族の時間の「記念品」として「地球の基地」の床壁天井を埋めていく。
いつの間にか奥様の瓢箪笛の演奏が終わり今度は橋本さんの尺八演奏と続く。いつもは賑やかな隊長率いる結束バンド(Vo.ヤベ隊長Gt.オオタ隊員Per.ブン隊員)も今日はなかなか出番が廻ってこない。ほろ酔い加減のなか橋本さんから階段ディテールの説明を受け、ブン隊員と聞いて盛り上がっているその片隅でひとりギターをかかえて歌う隊長の姿をカメラが捉えていた。





KRIOSの外装と屋上の詳細図である。構造は地階RC造上部S造の4層となるが、S造部の外壁はラムダの素地仕上げだ。そしてよく観察しないと気づかないのだがその外装のまとい方が普通ではない。上階にいくほど外壁はせり出しシールなしで納まっている。ラムダが衣をまとうように納められて襞をつくり優しい表情を見せている。またS造にもかかわらず各階のバルコニーと屋上には土がのせられて豊かな緑に覆われている。
最初の外観写真をもう一度見てもらいたい。屋上の樹木は5m超え、その幹のそばに置かれた養蜂箱から収穫されたおいしい蜂蜜を先ほどいただいた。2階のバルコニーに置かれた水槽の真上の枝に、どこから訪問してきたのかカエルが卵を生む。


KRIOSが生まれる53年前に焼失した「二楽荘」はすぐ西側の山上にあった。二楽には「山を楽しみ、水を楽しむ」の意味があるという。六甲山系の自然と一体となりながら海を望むこの塔状住居も阪神間のこの地で、そして橋本さんの手からしか生まれなかっただろう。ぼっこでっこ建築隊が撤退する頃、まだ冬の気配を残して澄み切った空気のなか、眼下には神戸と海の向こうに大阪の街が美しくきらめいていた。自然を楽しみ、人生を楽しむための「地球の基地」KRIOSは時間の「記念品」をこれからも蓄積しながら生き続けていく。


ぼっこでっこ建築隊とは、建築家が設計した住宅に酒と料理を持参し、食事のひとときを通じて住空間をも味わおうと目論むパーティである。
隊員:矢部達也(隊長)、岡文右衛門、奥和田健、太田康仁、石井良平(顧問)
石井良平
建築家。1955年生まれ。1983年、早稲田大学理工学部建築学科卒業。1983–95年、坂倉建築研究所大阪事務所勤務。1995年石井良平建築研究所開設。2017年〜大阪工業大学客員教授。

