まちをきれいにする・ひとをきれいにする(論考:川端美季)

|065|202207|特集:清掃のハードコア

川端美季
建築討論
Jul 30, 2022

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はじめに

新型コロナウイルスという未知の感染症が世界的に流行し始めたとき、多くの人たちは、感染に対する大きな不安に襲われた。いつどこで感染するのか、誰から感染するのか。人々は過敏にならざるをえなかった。

そうして感染を避けるべく、世界各地でロックダウン、一斉休業、一斉休校、テレワークがとられることになった。パンデミックから数年たち、多くの国では経済的ダメージが大きいということで、封鎖・閉じ込めの策は忌避されるようになった。

しかし、現在でもコロナ疲れが出てきたとはいえ、どのようにすれば感染せずに済むのかということへの人々の関心は高い。感染への恐れや不安は深く沈潜しながら、遍在しているといえるかもしれない。2022年7月に日本ではコロナ禍第七波となり、1日の感染者数が過去最高を上回る事態となっている。一時閑散としていたワクチン接種会場に多くの人が出向くのは、そうした沈潜、遍在の証左といえるかもしれない。

それとともに、そうした恐れや不安は多くのひとに普段は忘れていた場所(住環境や仕事環境など)への問いを呼び起こすものであった。

少なくとも日本では、自分たちが普段暮らしている場所は清潔な場であることは自明な前提であり、わざわざ意識するまでもないことだった。しかし、パンデミックによって、感染リスクはないか、感染から守るにはどうしたらいいのかを考えざるを得なくなった。それは、この場所は感染が及ばない清潔な空間であるという、それまでの自明な前提の問い直しを促すものだった。こうして、普段暮らしている場所の衛生環境が問題として立ち現れたのである。

感染症の歴史を振り返ると、場所の衛生環境という問題は空間的にひとつの部屋、建物のみに限られていないことがわかる。より広くその地域の環境が問われてきたのである。特に人口密集が顕著な都市においては、感染症の広がりが早いため、衛生環境は都市基盤の整備事項のひとつであったといえる。それは都市のインフラ整備や市住民の家屋や集落などの住環境などに関する大がかりな制度から、清潔さを維持するための清掃作業やそもそも公的空間にごみを捨てないといったことのような、個々人に対する細かな規範化ということに及ぶものであった。

ここでは、そうした場所の衛生環境という問題を、都市と清掃という観点から歴史的に振り返ってみたい。

1 近代都市における清掃

ごみと衛生の関係が明確に結びつけられるのは近代以降になってからである。それ以前も都市におけるごみ問題はあったことが指摘されている。京都では、平安京の頃からごみの問題があり、とくに、街路の溝(側溝)の溢水や溝のせき止めに対して法的に注意されていた。弘仁年間(810年-824年)には、溝の清掃が街路の役所や官吏の清掃義務とされていたが、効果があがらなかったといわれる。こうした溝は生活排水が流れるところでもあり、江戸期でもごみが投棄されることがあった(高橋[2015:56–60])。また、溝だけでなく街路などの路上もごみが廃棄される場でもあった。役所や個人の清掃を義務づけようとするだけではうまくいかず、平安後期以降、街路の清掃は、犯罪の取締や都の治安維持にあたる検非違使の管轄となった。(高橋[2015:65–66])。

さらに、江戸期では河川へのごみ投棄が問題となっていた。治水や川の運行や農業用水の点において支障がでていた。京都のみならず、江戸や大阪やなどで幾度となくごみ規制の法的命令が出されていた。京都では、具体的な対処として塵捨場を設置している(山口[2017:80–83])。こうした対処は、街の規模で「ごみはごみ箱へ」という決まりをつくり、それを徹底させようとする動きともいえる。

では、近代以降は、どのようにごみ問題に対処していったのか。明治期以降の日本の清掃行政は、1900(明治33)年の「汚物掃除法」、1954(昭和29)年の「清掃法」、1970(昭和45)年の「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」などの法律によって成り立ってきた。1900年の「汚物掃除法」は日本で最初の廃棄物に関する法律である。この法制度ができた背景には、それまで幾度も猛威をふるっていたコレラや大きな流行ではなかったが日本では新しい伝染病であったペストの存在があり、そうした感染症対策として廃棄物の処理や清掃が法的に位置づけられるようになったことがある(溝入[2007:6])。

ただし、こうした全国的な法制度が確立する前から都市のごみ処理に独自に取り組む地域はあった。たとえば、京都では、1869(明治2)年にごみ処理に関する告諭が出され、町ごとに清掃や道の溝掃除に取り掛かることが決められた。同年から塵捨場が複数指定された。こうした塵捨場は行政がトップダウン的に定めるものだけではなく、住民が独自に設け、その許可を京都府にとっているものもあった。さらに1875(明治8)年には「化芥所塵芥分析規則」が定められ、化芥所を設けごみ収集(定期収集・臨時収集)が行われ、収集したごみを有価物や肥料などに選り分けるようになった。こうした作業には貧民が従事することと定められていた。貧民救助・授産としてごみ収集の仕事があてがわれたということである。ただし、人数はそれほど多いものではなかった(山崎[2017:86–88])。

このように、都市におけるごみの扱いが少しずつシステム化されていった。そのことをうかがわせる近世・近代のごみ処理の問題や法制度については、山崎や溝入の文献で詳細に検討されており、参照されたい。

2 個人に対する清掃のすすめ

近代以前、古くは平安時代から個人に対して清掃が励行され、清掃義務が法的にも強調されてきた。しかし、実際にはなかなか効果は上がらなかったことがこれまでの研究からも明らかになっている。

近代以前からあった清掃の励行は、近代以降も継続した。1900年の「汚物掃除法」でごみの処理を行うのは、その土地の所有者や使用者である個人だと定められた。さらに時代は下るが、1927(昭和2年)に東京市保健局清掃課が発行した冊子『夏の清掃』をみてみたい。ここでは、都市におけるごみ処理が困難な仕事であり、清掃のが重要であることが強調されている。また、身体は新陳代謝などの巡りが悪くなると不健康になるという説を都市にあてはめ、都市も掃除がされなければ伝染病などの病気が襲ってくると説明された。そのうえで清掃は行政としても取り組んでいるが、これはとても厄介な仕事であり、ごみ問題は家庭とも密接に関連しているので、各人の清掃への協力が必須であることが強調された。

この『夏の清掃』では、「塵芥は塵芥箱へ」という節がある。それを見ると、清掃が必要とされるのには、単に病の予防だけではないことがわかる。たとえば、次の記述である(東京市保健局清掃課 1927)。

私たちはすがすがしい気持ちになりたい爲めに毎日座敷や庭のお掃除をする

ここでは、清掃が精神的な意味と結びつけられて説明されている。清掃することで精神的な安らぎといった利益がもたらされるというのである。清掃は伝染病予防のためというような、必要にかられた義務だけを意味していない。

こうした清掃の「すがすがしくなる」あるいは気分がすっきりするというようなイメージは現代でも一般的によく見られるものである。近代は、こうした清潔にする行為が精神的あるいは道徳的側面と顕著に結びつけられるようになった時代である。たとえば、清掃とはやや異なるが、身体を洗う入浴などについては、日本では20世紀初頭から衛生的に位置づけるような言説が現れるようになった(川端 2016)。

たしかに、掃除をするとスッキリするという気持ちにはなるかもしれない。しかし、掃除をする・入浴する・身辺や住まいを清潔にするというのは、単純に良いといえるのだろうか。

3 都市をきれいにする

行政は伝染病の流行を背景に、個人や家庭に清掃励行をすすめるとともに、感染症対策などを名目にしてより大がかりな「清掃」事業が行政によって度々行ってきた。スラム・クリアランスである。

たとえば、1881(明治14)年に東京では、大火をきっかけに行政によって、ある長屋密集地域が一掃され再開発された。その目的は衛生や防火だとされたが、実のところは貧富の階層の住み分けを行うことにあった。住み分けといっても貧困層にも居住できる場を用意するのではなく、単にそうした人々をそこに住めなくさせることが行われたのである。(加藤[2002:27–29])

また、大阪では1885(明治18)年から1886(明治19)年のコレラの流行を背景に、多数の感染者が生じた地域の家屋を市街地の外に移転させることが計画された。該当地域は江戸期から「貧民」が多く居住する場であった。当初の計画は、あくまでもコレラからの隔離という目的のために移転先が囲い込まれ、授産所の設置など、住民の生活習慣の改善なども含まれていた。しかし、この計画は頓挫した。

コレラ流行時に感染者を多数出た該当地域は、新聞などのメディアによって、感染症の流行の温床というイメージが形成されていった。加藤は、その地域が行政やメディアなどにより「貧民の巣窟」、「流行病の巣窟」、「犯罪者の巣窟」というイメージと結びつけられたと指摘する。つまり、人口密集などによる病の流行という都市問題が、「貧民」が居住し日常生活を営む場を「「スラム」という社会的な「表象」」として転換させていったと述べる。大阪のこの計画は最終的に、該当地域の人々をその地域から追い出す内容となった(加藤[2002:48–49])。

加藤によれば、こうした住民退去の際に機能したのが、1886年に制定された「長屋建築規則」と「宿屋取締規則」である。ここでは「長屋建築規則」のみについて説明する。

「長屋建築規則」は、日本で初めての本格的な建築規則だといわれるが、この規則には大きな警察の権限が盛り込まれた。長屋居住者は、公衆衛生的に問題があるということを名目に立ち退かされた。そして、一度立ち退かされた住民は所轄警察署に認可されなければ長屋に居住することができないとされたのである。立ち退き対象となった住民の多くは元の地域に居住することはできず、余儀なく大阪市周辺に移り住むこととなった。それだけでなく、「長屋建築規則」によって、移転先でも度々立ち退きを命じられた(加藤[2002:78–85])。

感染症対策として行われるのであれば、当初の計画のように隔離・囲い込みという施策になるはずである。しかし、そうはならなかった。これは、実際に公衆衛生的に問題があるということよりも、むしろ不潔であるというラベリングが広く共有されることによって地域からの排除がもたらされた結果であるとみることもできる。要は、実際に感染リスクがあるかどうかということよりも、イメージとしての不潔さが排除には強く結びついたように思われる。

4 ひとをきれいにする

「清潔さ」「不潔さ」というのは、単に身体的衛生面から語られるだけにとどまらない。二つの概念はいずれも個人の精神性や道徳性とも結びつけられて論じられてきた。拙著(川端 2016)でも述べたが、19世紀の欧米圏では「清潔さ」は礼儀作法や市民性と深く関連し、不潔さは社会の「秩序」を乱す脅威ととらえられていた。「清潔さ」の獲得は、その社会のメンバーシップの取得にもつながることだった。

19世紀から欧米圏では「貧民」に清潔習慣としての入浴を習慣づけるため公衆浴場を設置していくようになる。20世紀前半、こうした欧米の取り組みは海外に留学や視察をした人々によって日本にも紹介された。社会事業家である生江孝之は、「細民窟」に浴場をつくり「細民救済」にあてるべきだと主張した(川端[2016:146])。

実際に大都市を中心に、行政による公設浴場が設置されていった。公設浴場が設置される地域は、それぞれの都市で少しずつ異なるが、たとえば京都では、被差別部落に公設浴場が設置された。部落に従来あった共同浴場を改修して公設浴場とする場合もあれば、新しく設けることもあった。このとき、公設浴場の設置によって、それまでなかった水道が整備される地域もあらわれた(川端[2016:200–206])。

このことは一見、良いことしかないように見える。もちろん、その地域の公設浴場が住環境改善につながったのは間違いないだろう。しかし、入浴習慣の励行が定着していくことで、「清潔」「不潔」のイメージが、欧米圏と同様に人の精神的・内面的価値と強く結びついていくことには注意すべきである。

欧米では清潔さは市民性と結びついたのに対して、日本では国民性と結びつけられた(川端[2016:153–154])。「不潔」だとみなされことは、「国民」からの逸脱、当時の考えにならえば「臣民」からの逸脱であるととらえられることでもあった。逸脱していないことのしるしとして、人々は身体をきれいにすることに注意を払うようになったということもできるのである。

おわりに

都市における衛生環境は様々な問題を内包している。都市問題には、複数の課題が複雑に絡み合っているため、現実とイメージとが混同されて語られてしまうところがある。たとえば、人工密集地域の問題は都市におけるどのリスクに焦点を合わせるかによって、すっかり様相が変わってくる。リスクは感染症だけでなく、火事や交通網整備の問題にも関わっており、それぞれが伴うイメージが示すことの現実は限られているのである。

感染症の問題に限って考えてみても、実際の感染症リスクと清潔・不潔というイメージの問題が切り離されず表象されてきたという歴史がある。感染症が流行する際、こうしたイメージは、本論の冒頭でも触れたように、恐れや心配を喚起するだけではない。イメージが戦略的に使用され、人々の間に排除が誘導されることもある。

「ごみ」という言葉もその点では変わらない。ごみの語源は木の葉だともされるが、そのような中立的・客観的な意味ではなく、道徳的な価値判断と結びついて語られることもある。だからこそ、ごみはごみ箱にいれて見えないようにすることが求められているともいえる。見えないようにすることでその後は注意を払う必要がないようにすることが、自分の暮らす環境を守ることにつながる、規範的なよい行いになる。

こうしたよい行いを強制することは息苦しさを生む場合もある。清潔さを追い求めることが過度の精神的負担を生み出すこともあるのではないか。生きやすい社会とはどのようなものなのか、より多面的にアプローチしてみるべきだろう。そのためには、「清潔」「不潔」「きれいさ」といった概念や「掃除をするとスッキリする」という自明とされてきたイメージのように、私たちが暮らしていくなかで、過度に身体化されてしまっている価値観やイメージを問い直し、ひとつずつほどいて考えていくことが必要である。

ベルリンで1901年に建てられたドイツ・ルネサンス様式の浴場(川端美季撮影、2011年7月。撮影当時は使用されておらず、後に結婚式場になった)

参考文献
加藤政洋『大阪のスラムと盛り場――近代都市と場所の系譜学』新曜社,2002年.
川端美季『近代日本の公衆浴場運動』法政大学出版局,2016年.
溝入茂『明治日本のごみ対策――汚物掃除法はどのように成立したか』リサイクル文化社,2007年.
東京市保健局清掃課「夏の清掃」1927年(『近代都市環境研究資料叢書2 近代都市の衛生環境(東京編)39 清掃・廃棄物処理①』近現代資料刊行会,2009年に所収)
山崎達雄「近世・近代の京都の清掃の仕事」『2016年度差別の歴史を考える連続講座講演録』京都部落問題研究センター,2017年.

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川端美季
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かわばた・みき/1980年生まれ。医学史・公衆衛生史。博士(学術)。立命館大学衣笠総合研究機構生存学研究所特別招聘准教授。著書に『近代日本の公衆浴場運動』(法政大学出版局)など