阿部万里江『ちんどん屋の響き 音が生み出す空間と社会的つながり』

聞き流されるために(評者:長谷川新)

長谷川新
建築討論
May 4, 2023

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劇場版アニメ『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』は、主人公たちが「学園祭前日」を何度も繰り返していることに気づき、その「閉鎖時空間」から脱出を図るというのが大まかな筋書きである。序盤、反復する時間に迷い込んだことを示唆するうえで、監督の押井守は「ちんどん屋」を登場させている。

映画が公開された1984年の時点で「ちんどん屋」はこのような時間にすでに含まれていたとも言えるし(最盛期の1950年代から一転して60年代に「ちんどん屋」は急激に衰退を迎える)、そうではなくて、勃興期からずっと「ちんどん屋」は「時代錯誤」な時空間に属しながら音を出してきたとも言える(1930年代には、震災や不況、さらにはトーキー映画の流行によって仕事を失った伴奏楽士、旅廻りの役者、寄席芸人、ダンサー、サーカス芸人たちが路上で演奏する広告業に参入していく。「ちんどん屋」という言葉はこの頃誕生する)。

民族音楽学者の阿部万里江は、9年以上にわたるフィールドワークを通して「ちんどん屋」を調査し、一冊の本をウェズリアン大学出版から上梓する(Resonances of Chindon-Ya: Sounding Space and Sociality in Contemporary Japan)。本書はもともと英語で書かれており(したがって「ちんどん屋」を一切知らない人に向けても言葉が尽くされている)、それを音楽学者の輪島裕介が日本語に訳しおろしたものだ。

本書において阿部は、「ちんどん屋」という「音の商売」に随伴することで、西洋中心主義的な「聴取」や、座標的な「空間」理解を乗り越えようと試みている。一貫しているのは、請負広告業の一形態である「ちんどん屋」を「新自由主義の単なる反映とも、それに対する特効薬ともみなさない」という姿勢であろう(p.20)。

「ちんどん屋」の音は、ノスタルジックな時空間にも、資本主義の貨幣空間にも閉じ込められることなく(かといって無縁でもなく)、「日本が均質な国家だという通念に挑戦」し、「いわゆる西洋的な資本の語りを複雑化」し、「自由主義特有の主体の観念を動揺させる」(p.14)。

こうした本書の方向性は、「ちんどん屋」が1990年代以降、さまざまな音楽活動・政治活動と結びついていったさまの分析をクライマックスとしている(「第4章 ちんどん屋を政治化する」「第5章 沈黙の響き」)。

阪神淡路大震災以降活動を続ける「ソウル・フラワー・モノノケ・サミット」の被災地への出前ライブや、大阪を拠点とする在日朝鮮人歌手・越博(パギやん)、沖縄の抑圧の歴史を喚起すべく「本土」の曲を歌う沖縄民謡歌手・大工哲弘、路上の上演それ自体が歴史的に「異議申し立て」の手段であったことに注目する大熊ワタルのバンド「シカラムータ」--。

「ちんどんに触発された音楽家たちの音は、日本を複数の民族集団の単なる容れ物として理解するのではなく、むしろ重なり合い、変化し続ける社会的差異と権力関係の複数の歴史を含んでダイナミックに生み出される空間として理解するようわれわれに迫」る(p.189)。

「3.11」以降の脱原発の街頭デモにおける「ちんどん屋」の盛り上がりについての分析や、「自粛」下における「沈黙の響き」を聴こうとする記述も意義深い★1。だが本書において一層忘れがたいのは、前半部分で語られていく魅力的な「ちんどん屋」実践の細部であろう(「第1章 歩く歴史」「第2章 魅惑を上演する」「第3章 想像共感の音を出す」)。たとえば強調されるのは、他ならぬ「ちんどん屋」自身が民族誌家であり、フィールドワーカーであるという視点である。

阿部がコンタクトをとった実践者のなかには、1980年代からこの仕事を続けている人がいる。「ちんどん屋」の「復興期」を担った彼ら自身が、「ベテラン世代(八〇代から九〇代)のちんどん屋の町廻りについて歩いて記録したり、年長のちんどん屋の古い現地録音テープを聴く「試聴会」を企画したり、年長者の聞き書きをまとめたり、ちんどん屋についての本や雑誌記事を刊行したり、果てはちんどん屋の起源についての演劇を企画したり」した(p.57)。散逸し忘却される自分たちの歴史の断片を想像力を駆使して寄せ集めていく「ちんどん屋」自身の実践--阿部はこれを「系譜学的実演」と呼ぶ。

こうして再編・検討されて浮かび上がってくる「ちんどん屋」の身振りのなかでも極めて興味深いのは「歩き方」である。軍楽隊に由来するにもかかわらず、その営みを見ていて気づかされるのは「ちんどん屋の足取りが曲の一定の拍子とも他のメンバーの動きとも全く合っていないという事態」である(p.74)。「ちんどん屋」の「歩流講座」も企画する林幸治郎は、自分たちの足さばきを、メンバー同士が「ゴム紐」でつながっているようであり、また潜在的な顧客たる通行人との「見えない引力」という社会関係と空間関係の折衝であると説明する。

大音量で高収入を謳うトラックとは異なり、「ちんどん屋」は聞き手との距離を絶えず測定し続けている。「音と音源の溝」を縮めようとする工夫が満ちている。たとえば彼らは意図的に「素人っぽい音を出したり、地元の店や学校の名前をわざと間違えたりする」(p.145)。通行人だけではなく、むしろ「家の中にいる人に聞かせてる」とさえいう。「道路」は商標名が連呼され、「SNS」は間違えると辛辣なコメントが殺到する。「ちんどん屋」が歩き、その都度関係を作り出すのは「巷(ちまた)」(p.174)に他ならない。

それでなくとも「ちんどん屋」がやりがいを感じるのは、「一人で留守番をしている子どもや、最近配偶者を亡くしたお年寄りや、仕事も家庭も失った中年男、といった人たちと親しく個人的な会話ができた時」らしい(p.156)。前述の林は、次の大規模な雇い主は老人ホームになるのではないか、と好意的に推測してもいる。

「ちんどん屋」は時代錯誤であるというよりも、この社会の複合性を「聞こえる」ようにしているのだ。メインストリームとされる時間以外に、不安定な生を営む、周縁化され他者化された人々の時間がある。「ちんどん屋」はそれを聴取し、音にし、聞き流される。ここには、風が吹けば飛ばされるような強さがある。

本書は、画一的で戯画化された「ちんどん屋」像を豊かに描出し直し、そこからまた「空間と歴史と社会的つながりについての異なる存在論を身体化する」よう読者に促す(p.227)。建築学徒に限らず、路上に関心がある者や、パフォーマンスの実践者にも、ぜひ読んでほしい一冊である。

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★1 筆者はそもそも、民族音楽学(エスノミュージコロジー)と美術史学がこうした社会運動における音やイメージの分析という点で隣接領域にあることを意識できていなかった。あるとき、研究者の高橋沙也葉さんから読書会に誘われた際にハッとさせられ、本書を読むきっかけとなった。記して感謝したい。

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書誌
著者:阿部万里江
訳者:輪島裕介
書名:ちんどん屋の響き 音が生み出す空間と社会的つながり
出版社:世界思想社
出版年月:2023年3月

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長谷川新
建築討論

インディペンデントキュレーター。主な企画に「クロニクル、クロニクル!」(2016–2017年)、「不純物と免疫」(2017–2018年)、「STAYTUNE/D」(2019年)、「グランリバース」(2019年-)、「約束の凝集」(2020–2021年)など。国立民族学博物館共同研究員。robarting.com