アラスデア・マッキンタイア著『依存的な理性的動物』

相互に依存しあう「人間」像を提示する政治哲学(評者:藤田直哉)

藤田直哉
Jul 31, 2018 · 7 min read

マッキンタイアは、コミュニタリアニズムを代表する政治哲学者である。一九八一年の『美徳なき時代』は、有名な「リベラル‐コミュニタリアン論争」の火付け役になったと言われている。

「リベラル‐コミュニタリアン論争」はおそらく現代日本でも参照されるべき価値がある。「リベラル」嫌いが、アメリカ、ヨーロッパ、そして日本でも蔓延しているが、その原因を探求し、それを乗り越えるために必要な考え方の枠組みを提供してくれるからだ。「コミュニティ」に関わって何かを行う実践の意義や価値を考えることにも、当然つながってくる。訳者の高島和哉は、本書のあとがきで「いまや全国各地で伝統的なコミュニティの再生や、新たなコミュニティの創造に向けた真摯な取り組みが――東日本大震災などの被災地におけるそのような取り組みも含めて――数多くみられる」(253頁)と、現代日本の状況と関連付けて語っているが、確かにそう読むべき本である。

先に、論争について簡単に紹介する。

論争のきっかけとなったのはジョン・ロールズの『正義論』という著作である。ざっくり一言で言えば、それは抽象的かつ普遍的な主体を想定し、その主体の自由を重視し、かつ「正義」を高く評価するものだった。それに対し、コミュニタリアン陣営と呼ばれる人々は様々に反論した。日本でも書籍がブームとなったマイケル・サンデル、多文化主義的な考え方のチャールズ・テイラー、そしてこのマッキンタイアらが著名な論者として知られる。そこで大まかな争点になったのは、抽象的で普遍的な主体像、「自由」、そして「正義」についてである。コミュニタリアンは、それに対し、現実の状況や身体やコミュニティの中に埋め込まれている主体、「依存」、「徳」などを対置する。人間が身に着けるべき「徳」などというのはいかにも古めかしい感じがするが、その概念を政治哲学に導入したことこそがマッキンタイアの面白いところだ。

本書『依存的な理性的動物』は、そのタイトルが示す通り、「人間像」を新しく示すことを狙った書籍だ。『美徳なき時代』と比較して何が違うのか。フェミニズムやケア論と生物学の知見の導入である。マッキンタイアは、素直に自身の間違いを認め自論を修正している。

具体的にどんな人間観が語られているのか。本書で問題となるのは、西洋の伝統的な哲学における人間観である。それが、過剰に理性や言語に偏っており、自立した自由な個であることを高く評価しすぎていたことが批判される。出てくる名前はハイデッガーやヴィトゲンシュタイン、サールなどである。それに対し、マッキンタイアが対置するのは、傷つきやすく、様々な障碍を持ち、それがゆえに相互に依存しあわなければいけない動物的な人間像である。これを、ペットや動物などを例に出しながら組み立てていくところが、本書の前半のハイライトだ。

人間が相互に依存する存在であるのは、出生時や老年期を考えれば良くわかる。また、不慮の事故などで様々に障碍を負った場合もそうだ。しかし、そのような状況ではない、「自立」していると思っている人々も、実は深く相互に依存している。どんな人間も、完全に完璧に正しい判断などもできず、自らのことを正確に知っていない。だから、熟議を繰り返す必要がある。これは「地域コミュニティ」の「タウンミーティング」だけの話ではない。科学コミュニティや、評論などの言説空間も含めて「コミュニティ」と考えるならば、腑に落ちるのではないだろうか。

私たちは、「真理」を求める時も、「正義」を求める時も、決して孤立した個としてそれを行っているわけではない。それを求める共同体の営みに参加し、過去からの蓄積を継承し、何が「真理」「正義」と見做されるのかについての共同体の価値観を受け入れたうえでそれを行っている。

コミュニティというと、人間関係が息苦しい村社会などをすぐ思い出してしまい、反射的に拒否してしまいがちになるが、ここで言われている「コミュニティ」はそれとは異なる概念と考えたら良いだろう。地縁や血縁だけではなく、明示されてはいないが趣味共同体や芸術共同体なども含んでいると考えた方が良いのだろう。

個人的に興味深く思ったのは、リチャード・ローティの「リベラル・アイロニスト」の生き方と対決しているところである。人が、行動や信念を正当化するために用いる「一連のことば」が「最終語彙」と呼ばれる。つまりは、価値観や判断の最終的な根拠のようなもの、それ以上は遡れないような何かのことと考えてよい。ローティによれば、この「最終語彙」が正当化される合理性も根拠もない、偶然に過ぎないということを「リベラル・アイロニスト」は知っている。だからこそ、自身の「最終語彙」に懐疑的になるし、他者の「最終語彙」に理解を示すようになる。

マッキンタイアはこれと対決する。まず、アイロニーはだめだというのだ。アイロニーの冷淡な態度は人間関係を破壊するし、道徳的な責任逃れだというのだ。これは(論理的ではないように見えるが)、コミュニティや「徳」を重視し、「承認」「開花」「友人」などの言葉を使うマッキンタイアの考え方を典型的に示している。

リベラリズムは(基本的には)生き方や価値の究極の根源のようなものは提供しにくい思想である。それは私的領域で、個人の自由によって追及されるべきものであると考える思想だからだ人生において深刻に重要な問題すら私的領域で孤独に対峙するというのは、負荷の高い人生である。コミュニタリアニズムの実存にとっての優位性とは、生の意味に、共同性を組み込んだ政治哲学であることにあるのだろう。政治哲学と言われると少し頭を悩ませるが、私たちが普段、集団で集まって葬式をしたり先祖代々のお墓を守ることで、生と死の意味を共同で位置づけようとしていることを想起すれば、とても分かりやすいのではないだろうか。

もちろん、ここで言う「コミュニティ」は、国家とイコールではなく、むしろ国家と対決し葛藤するものであることをマッキンタイアは強調している。国民国家が、コミュニティや共通善を僭称し邪悪な行いを行った歴史もまた想起されている。期待されているのは「アソシエーション」、つまり、国民国家と家族の間にある、人々の多様なつながりや組織のことだ。

必要なのは〈承認された依存の諸徳の政治〉であると、マッキンタイアは「ユートピア的」な構想を述べている。簡単に言えば、互いに依存しあう生き物であると認め、共通善を共同で決め、そのために必要な態度を「徳」として身に着ける、共通善に人々が向かうのを促すために「承認」「否定」などの価値観を共同で形成して維持することを、おそらくマッキンタイアは構想している。その説得力には、正直なところ、疑問もある。あいまいにして誤魔化しているように見える部分もある。しかしながら、コミュニティに関わって何かを行おうとする人々にとって、希望となるようなひとつのビジョンであることは間違いないし、日本中のみならず、世界中で行われているコミュニティに関わる実践がどのようなコンテクストの中にあり、どんな意義があるのかを理解するための重要な助けとなるだろう。


書誌
書名:依存的な理性的動物
著者:アラスデア・マッキンタイア
訳者:高島和哉
出版社:法政大学出版局
出版年:2018年5月

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