アンドレア・バイヤーニ著『家の本』

家、物語に満たないその揺らぎ(評者:内山媛理)

内山媛理
建築討論
Jul 7, 2023

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電車に乗って、窓からぼんやりと外を眺めていると、たくさんの家が並んでいる風景が目に入る。そんな当たり前のことに、たまにどきりとする。この無数の粒の、ひとつひとつに誰かの生活がある。家という核に覆われた内側に触れる、それは相手の衣服を脱がすような、禁忌的な行為であり、『家の本』は、そんな、私たちの内側にある空間におもむろに手を伸ばす本だ。

『家の本』は2021年に発表された。著者はアンドレア・バイヤーニ。ローマ生まれの小説家で、詩人としての一面も持っている。2010年に発表した『Ogni promessa(すべての約束)』では、イタリア最古の文学賞であるバグッタ賞を受賞している。『家の本』は、イタリアを代表するふたつの文学賞、ストレーガ賞とカンピエッロ賞双方のファイナリストに選出された。イタリアを中心に活躍しているバイヤーニだったが、彼の著作が日本語訳されたのは本作が初めてである。彼の文章がこうして日本まで渡って来たことは喜ばしいことだ。

著作が生まれた2021年といえば、家と私たちにまつわる忘れもしない出来事があった時期だ。そう、コロナウイルスによるロックダウンとステイホームの日々である。あの未曾有の日々の中で、私たちは家に閉じこもることを強制され、否応なしに家と向かい合った。家と私たちとは何か。家は私たちを守るものなのか、はたまた私たち自身なのか。そんな、自分の身体の範囲を改めて見つめ、自分の外と内の輪郭について自問自答を繰り返すには十分すぎる時間があった。そんな日々はバイヤーニにとって『家の本』ができるきっかけとなった。

しかし、『家の本』はロックダウンやステイホームを描いた作品ではない。そこに描かれているのは、家と私たちの輪郭についてだ。家という膜は私たちの身体と外の世界を分かつ。その時、私たちの身体と家の間には何かが残る。建築の言葉ではそれをきっと空間と呼ぶ。文学の世界では詩、になるのかもしれない。バイヤーニは空間と詩、その両方を鮮やかに描いた。

バイヤーニについて特筆すべきは、アントニオ・タブッキとの交友関係だろう。タブッキは「イタリア文学が僕をここまで興奮させてくれたのは久しぶりの出来事だった」と彼を高く評価し、それ以来深い交流関係を築いていた。2013年には前年に没したタブッキとの交流を描いた作品『Mi riconosci(私がわかりますか)』を出版している。

タブッキといえば著作『島とクジラと女をめぐる断片』(1983)が有名だ。この作品はしばしば、建築学生の卒業制作などで取り上げられている。タブッキの描く断片性と構築性は非常に魅力的であり、そのプロセスは建築の設計とその演出の考察においても適用され得る。

そう、『家の本』も非常に断片的なのだ。まず、ぱらぱらとページを巡って、そこに並ぶ様々な家に纏わるテキストの数々に驚くことだろう。『家の本』は主人公がいて、ひとつのストーリーが流れて、という一般的な小説の形式とは大いに異なる。

「その家は、七階だったかもしれないし、十階だったかもしれない。いずれにせよ、そこから眺めるものはすべて、どれもひどく遠くに見える。-第四十八章 ずっと存在しなかった祖父の家、1980年-」 (p.202)

「光が持続する時間は短い。部屋が細部まで照らされるのは、ほんの一瞬だ。-第五十四章 たんすの家、2006年-」(p.227)

次々と流れて行く情景、その鮮やかな筆致。そしてその訪問はぶつ切りに突如終わる。各章は数ページ程度、短いものではたった2ページほどのテキストで終わってしまう。

『家の本』は「地下の家」から始まり、「言葉の家」「女の子の祖母の家」「生まれたばかりの家具の家」と78つもの章が並ぶ。それぞれの家は、場所も、住む人も、年代も、大きさも、物質さえ異なる。そうして、私たちは住宅街を歩くように、物語に満たない叙述的なテキストを眺め続けることになるのだ。

バイヤーニが示すのは空気であり、物語ではない。それは彼の徹底的な叙述スタイルからもみて取れる。それぞれの章は「私」という一人称で語られ、 視界に現れる者たちは固有の名前を持たない。父、妹、亀、現れる彼らの間に会話はない。

そうして、「私」と共に家を巡る旅が始まる。家を見つめることは、自分の内側を見つめることであり、そののち、これは私たちの中にあったかもしれない記憶なのだと気づく。

物語やストーリーは、劇的で、わかりやすく、共感しやすい。その手法は建築の設計においてもしばしば使われる。例えば、前述したダブッキの作品、『島とクジラと女をめぐる断片』は非常にブリコラージュ的である。それぞれの視点、異なる書き方で連なるひとつの島を巡る物語があり、私たちはその断片を観測しながら、ひとつの地図を描いていく。それは、建築を設計する私たちが行う、まちやそこに生きる人々の様々なコンテクストを拾い、組み立てていく所作に似ている。

しかし、家の中という私的空間を物語る姿勢はどこまで有効なのだろうか。私たちが実際に過ごす日常や触れゆくものに、強い意味性などない。繰り返す毎日と家の中で微細に揺れているもの、その機微に意味を見出しているだけなのだとしたら、それを物語として取り出し、演出することは、空間の翻訳の手法としてはいささか安直だ。それでは、物語に満たない空間の揺らぎを見落としてしまう。

『家の本』で私たちはモノのありのままの姿と向き合うことになる。バイヤーニは家と私たちの間に流れる空気に明快さを求めなかった。ただただじっと見つめていた。そのまなざしの在り方を考える時間は、意味や情報で溢れている現代において貴重な経験となる。

『家の本』のテキストは時系列通りに並んでいない。私たちは家の断片を読み集めながら、物語を再び構築していく。やがて、ぼんやりと私と家のコンテクストが浮かび上がってくる。

ただし、『家の本』の時系列を完璧に把握し、ストーリーを読み解くことがこの本の本意ではない。『家の本』の楽しみ方は自由だ。

家と私たちを取り巻く、身体のような、空間のような、詩のようなもの。そんな曖昧なものを、わからないまま見つめ、その音を聞いてみる。それはきっと、バイヤーニの真の強さだ。家、そして人間そのものが持っていた強度でもある。

そこに脚色はなく、ありのままの家があり、しかし暗闇の中にはっと息を呑むような美しさがある。そのことが私たちに勇気をくれるのだと、改めて思い出すのだ。

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書誌
著者:アンドレア・バイヤーニ
訳者:栗原俊秀
出版社:白水社
出版年月:2022年9月

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内山媛理
建築討論
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