インタビュー|岩崎駿介+美佐子 ── 共有する場を自律的につくる社会へ

061 | 202111 | 特集:建築批評《落日荘》/Toward a society that creates commons autonomously

建築作品小委員会
建築討論
26 min readNov 2, 2021

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岩崎駿介、岩崎美佐子
参加者:川井操、辻琢磨、伊藤孝仁、雨宮知彦、佐藤研吾、阿部拓也
編集:中村睦美
収録日:2021年10月2日(土)@落日荘

住みながら手を動かし、8年かけて家を作る

岩崎駿介氏

岩崎駿介(以下、岩崎駿):私は2001年にこの茨城県石岡市八郷に越してきました。これまでの東京の住まいを売り、1,200坪の土地を手に入れました。最初、ここには敷地一杯に篠竹が伸び、山も見えないくらいだったのですが、草を刈り、道路からの坂道を作り始めました。

《落日荘》から足尾山が真西に見えるというのは、偶然ですが、山に向かう線を軸線にして軸線を中心にコの字型に門、本棟、作業棟を配置しています(図1)。《落日荘》から見える太陽の沈む位置は、年間を通して刻一刻と移り変わり、春分と秋分には太陽がちょうど西の正面にある足尾山の頂上に沈むのです(図2)。こうした季節感は、誰にとっても重要な要素だと考えています。どの写真を見ても、太陽の沈む位置がわかれば、その写真はいつ頃、撮影されたかがわかるのです。

図1 《落日荘》配置図兼平面図
図2 春分と秋分に足尾山頂上に太陽が沈む。
図3 《落日荘》屋内から足尾山を望む
図4 《落日荘》母屋外観
図5 《落日荘》に入るアプローチ

最初は、家を作るにも田舎なので寝起きに必要な貸家もなく、少し離れてはいますが常磐線羽鳥駅の近くにアパートを借り、1年たって家賃も馬鹿にならないので、敷地内に仮小屋をビニールハウスで建て、そこに住みながら設計と施工を進めました。ビニールハウスの暮らしというのは、頭上を飛んでいる鳥や月が見え、なかなか良いんですよ(笑)。4m×8mの無駄のない空間で、自然と一緒に住む実感は今以上にありました。とはいえ断熱材は全く入っていないので、夏は限りなく暑く、冬は限りなく寒い住まいでした。

食べ物と同様に家も作り始めてみよう

川井:まずは土地の整備に1年半ほどかかったとのことですが、《落日荘》は面積も広いですし、土地の高低差もあるので、コンクリート基礎の打設も相当時間がかかったのではないでしょうか。

岩崎駿:《落日荘》の母屋と呼ぶ寝起きする主屋は、8年間かけてセルフビルドしたけれど、そのうち5年間はコンクリート工事だったと思います。敷地に傾斜があるので、基礎工事に手間がかかり、長い間、建物が立体的に立ち上がらなかったと記憶しています。

川井:基礎にコンクリートを使うという想定は最初からあったのですか?

岩崎駿:基礎はもちろん、最初からその選択でしたね。当初はもっとコンクリートの部分を大きく設計していたが、あまりにも工事が大変だろうと判断して、今の基礎に落ち着きました。月曜日から土曜日、朝から夕方まで8年間夫婦2人だけで黙々と作業しました。しかし、工事を進めるのに一番必要なのは、技術や金でもなく、忍耐強く進める根気、根性です。

図6 施工中の岩崎駿介氏(右)と美佐子氏(左)

僕らはここに来る前は、20年以上にわたって国際協力NGOの活動をしていたのですが、日本人は国内志向が強く、国際問題にはほとんど興味を示さなかったのです。それで悔しい思いをして、「それなら見て見ろ、立派な家を作ってやる」という思いでした。長い建設年月にも気持ちはまったくぐらつきませんでした。

岩崎美佐子(以下、岩崎美):私は八郷へ来る前にタイ、パレスチナ、カンボジアなどでNGO活動をしていました。例えばカンボジアの農民をバングラデシュに連れて行ってかの地の農業と交換するとか、日本人、グアテマラ人、フィリピン人などをカンボジアやタイに招いて、お互いの自律的農業の取り組みを学び合うといった活動です。世界の素晴らしい試みをつないで、点を線に線を面にすることを心掛けていたのですが、グローバル化で、積み上げたものも脆く崩れたりする現実を見て、自分もつなぎ屋から、地域に根差して具体的な実践をしたいと思うようになりました。

川井:そうした環境で仕事をされてきた後にセルフビルドを選択されたのは頷けるところがあります。

岩崎美:そうですね。私自身何でも自分で作るという精神を大事にしたいと思いました。自律的な生き方と言うのか、家も食べるものも自分で作るのが当然だと思ったんです。だから「家を作る」という強い意志より、家も作り始めてみようというのが動機と言えるでしょうか。

岩崎駿:最初は、こんな大きな家を作る予定はなく、2人で住むのだからコンパクトな家と考えていたのが、設計しているうちに大きくなっていった。それで、施工にあたってこれを工務店に頼んだら大変な金がかかる。それで自分たちで作ってしまおうと思ったわけです。私個人は、セルフビルドへの思いはとくになく、大工に頼んでも金が足りるならそれでもいいとは思いました。

阿部:《落日荘》という名前はいつ思いついたのでしょうか?

岩崎美:設計した後ですね。私は反対したんですよ。だいたい「荘」ってつけるのはね、中国だとお墓なんです。なんだか壮大なので、もう少しささやかな名前はないものかと。

岩崎駿:《落日荘》には4つの意味があります。まずはフランク・ロイド・ライトの《落水荘》。自然と調和をはかった建築を作るライトへの敬意です。それから西に見える「落日」の風景。そして自分自身が年を取って、いわば「落ち目」であること。さらに地球環境そのものが「落ち目」であることの4つです。「落」の字は、落ちるという意味でよくないようにも思いますが、じつは「落成式」と言うように「出発」を意味するのです。

カンボジアと八郷村から参照した建築

川井:《落日荘》を構想するうえで参照された建築はあったのでしょうか。

岩崎駿:僕が建築設計やるのはじつに久しぶりで、33歳の時以来だったので30年ぶりでした。したがって、何もかにも初めてという感じで、まさに試行錯誤の連続です。ダブルスキンと言いますが、外壁はすべて二重柱にするとか、外壁の板倉といった構法も試行錯誤の結果生まれたものです。

岩崎美:八郷に来る前に3年、カンボジアに駐在していたのですが、プノンペンにRaffles Hotel Le Royalという古いホテルがあって、そこのプール脇の東屋にはすごく影響を受けています(図7)。柱が白く塗ったコンクリート、屋根組が木造、赤い瓦の美しい建物でした。また、アパートの向かいに王立芸術大学がありましたが木造で、カンボジアの建物は伝統的なものもコロニアルのものも佇まいが美しい。それらを見ながら、八郷で家を建てるとき屋根の勾配がどのくらいだといいかなとか、構造などを考えたりしていました。

図7 Raffles Hotel Le Royalの鳥瞰写真

岩崎駿:例えば、出し桁の先端に登り梁が掛かる構造は、カンボジアの建物から大いに影響を受けているのですが、カンボジアは年間を通して亜熱帯気候なので建物を密閉する必要ないのです。当然、日本ではそうはいかないので、面戸板的な材として4枚、つまり板とガラスと漆喰壁と面戸板の合計4枚が入っています。ここにガラスを入っているので室内の明かりがガラスを通して外に出ると同時に、天井で跳ね返って部屋全体が明るくしています。これは、落日荘の大きな特徴でもあります。このアイデアは、丹下健三氏の自邸を参考にしています。

川井:セルフビルドの利点として、つくりながら新たな要素を付け足したり、計画していたものを変更することがある部分では自在に行えると思うのですが、いかがでしょうか。

岩崎駿:いや全然、設計変更はしていません。とにかく、設計はもう最初からびしっと決まっていてその通リに進めました。ただ、玄関入り口の天井照明は、しょうゆ注ぎのステンレス製ジョウゴと豆電球を使って自分で作ったのですが、こういう細かいところは順次設計していきました(図8)。わが家は、陸梁を効果的に使い、その梁に沿って柱をどこに建ててもいいので、平面の自由を確保しています(図9)。

図8 ステンレス製ジョウゴを使った照明器具
図9 落日荘の天井空間

辻:この家の瓦屋根もカンボジアの時から考えていたのでしょうか。

岩崎美:屋根に関しては、この地域らしい建物にしたいという思いがあって、八郷にある蔵の形式を参照して、母屋も作業棟も下屋の屋根勾配を本棟の勾配と変えています(図10)。下屋と本棟の間の壁の高さ、結構広いのもあるし狭いのもあるし。美しいバランスを考えました。

図10 八郷にある蔵。本棟と下屋で勾配が若干異なる。

設計とはいかに抽象化するのかが大事

佐藤:作業棟の両端にあるコンクリートの2本の柱は非常に特徴的ですよね。

岩崎美:あれは施工が本当に大変でした。ホールは柱のない広い空間をつくりたいと思ってあのようにしたのですが、中古のチェーンブロックを購入して2人で両端で大梁を持ち上げました。大梁は下で組み、それは向き合ったコの字型の柱に入る長さでしたが、所定の位置まで何度かチェーンブロックの起点を変えながら持ち上げ、最後にコンクリート柱に開けた穴にケヤキの天秤梁を貫通させ、それに大梁を乗せました(図11)。

図11 コンクリートの柱に追掛大栓継ぎで自作した大梁が乗る

佐藤:あの2つの大きな柱をコンクリートではなく太い木の柱で作るというイメージはなかったんですか?

岩崎駿:これだけの大きな空間をつくるにあたって、横揺れに耐える方法が見つからなかった。そこであれはあの2本の柱は地中梁で繋いでいるんです。だからこの柱自体がかなり自立的な存在なので、木造だとこの構造は成立しないわけですね。

それだけの大きな空間をつくるにあたって、大きな柱が横揺れに耐えるため、2本の柱を地中梁で繋いでいると同時に、横に突っ張りも出して自立しているのです。この柱を木造にするとそれだけでは自立出来ないので不適切です。

それとね、設計とはいかに抽象化するかが一番大切です。円だとか四角だとか、具体的な案を考えるのではなく、抽象的な発想を広げていく。筑波大学で教えていたときもそうでしたが、具体的な形そのものの助言はするべきではなく、抽象的なことからいかに形を引き出すかが建築教育において大事だと思うのです。言語の話に例えると、「ことわざ」というのはひとつの抽象で、これで意味が伝わるわけです。そうした能力が高まることによってデザイン能力が高まると考えています。

したがって設計は、すぐに形を引き出すのではなく、抽象化されたイメージを出来る限り豊かにし、それをだんだんと具体的な形に結び付けていくのです。

雨宮:抽象化とおっしゃるのは、例えば宇宙や世界と繋がるといったレベルの抽象化ではなくて、もう少し空間のイメージやモノの構成の仕方を抽象化して構想するという意味でしょうか。

岩崎駿:そう、モノとしての抽象化ですね。私は「新住宅設計7か条・・・」というのを作っていて、この7か条はすべて抽象的な提言です。最初から具体的な形に入るより、抽象化されたイメージを豊かにして形化する。私は、それが設計の方法だと思っています。

新住宅設計7か条・・・

1.狭くても広くても、その「土地に内在するエネルギー」を抽出して、形化する。敷地は絶対的な意味を持ち、良くも悪くも敷地に素直になるべ きだ。

2.人間は、常に動きながらものごとを把握しており、その意味で「動的なシークエンス=物語」を構想し、演出すべきである。人間は静止的にものごとを捉えてはいない。すべては動きの中にある。

3.住宅はあらゆる意味において求心的であり、求心性を確保するため「左右対称性」は有効な手段である。家族は、すべての社会的コミュニケーションの中核である。ここがすべての出発点。

4.人間はいつも空間を見通したいという欲求を持っているので、すべては「透過」しなければならない。広がろうとする意識を、中途半端にさえぎってはならない。拒否するなら石壁をもって拒否せよ。

5.広く狭く、高く低く、明るく暗く、空間が持つ両極端を手際よく配置して「リズム」を作り出す。リズムこそ飛躍の土台である。リズムこそエネルギー拡大の源である。

6.「染み入るような材質」に囲まれることによって、優しい人格形成が可能である。いい加減な材料は使うべきではない、あいまいにして決断力ある人間は育たない。

7.人間は「自ら作る」ことによって、空間把握力が増大する。したがって、与えてはならない、作らせるのだ。建築家がすべてを支配する独善の世界は終わった。人々を招き入れて予期しない美を作ることである。

人間は「自ら作る」ことによって、空間把握力が増大する

佐藤:僕がこの7か条の中で一番好きなのは、「人間は「自ら作る」ことによって、空間把握力が増大する」という記述です。作業棟はお二人で建設するときに、梁をどうやって持ち上げるかを考えた結果、コの字の柱2本の間から梁を持ち上げて架ければいいのではないか、という発想に至ったのではないかと考えました。自分で持ち上げる=自ら作ることに取り組み、考え抜いた結果としてコの字型の柱という形態が生まれ、まさにこれが空間把握力の増大なのではないかと思うのです。

インタビューの様子

岩崎駿:なるほど、そこまで意識はしていなかったのですが、7か条を書いたときは。自分の経験というより、普通住宅は建築家が設計して建てるわけで、これ自体があまりよくないと思って書いたんです。

空間把握力はその家に住む人が持つべきもの。住まい手にとって家は、その人が作れば一番よくわかるはずです。だから別の人が設計して与えることはよくないのです。他人からの良し悪しの評価はあるにせよ、とにかく住まい手にとって自分で作ることが一番良い。たとえ建築的に見れば良くないといった評価があったとしても、その人が誠意を込めて作ればそれはいい空間なのです。

7か条では「したがって、与えてはならない。作らせるのだ。建築家がすべてを支配する独善の世界は終わった」と続くのですが、私がとても鋭意を評している「HandiHouse project」という建築家のグループがあります。彼らは施主の要望に対し、まず施主自身の手でつくる土台を用意し、施主の状況に応じて彼らが一緒に作るプロジェクトです。彼らが言うには、建築家が設計して与えて、それが建築家の作品となるのは良くないと。私も強く同意します。やはり「建築家」なんていうのは、ある一時期に現れた職業でしかないんです。これからは、みんなが社会に参加する時代になるべきです。

都市はもうやりようがない?

川井:『建築雑誌』2015年12月号「住まいが立ち上がるとき」のインタビューで、岩崎さんはもう一度都市に出るんだとおしゃっていました。最近では、むしろ都市から離れるべきだと、発信されています。

岩崎駿:ここ八郷に来たときは20年経ったら都会に戻り、もう一回NGO活動をやろうと考えていました。20年の休戦だと思っていた矢先、2001年のアメリカの同時多発テロが起こった。ニューヨークのツインタワーが壊されたのを見て、図らずも都市計画、アーバンデザインとはどういうことなのか考えるきっかけになりました。1960年にハーババード大学で最初にアーバンデザインの学科ができた当時は、モータリゼーションに対して人間的な空間を作ることを目的としていました。例えばイタリアの小さな路地など、ヨーロッパの人間的なスケールを持った場所を熱望し、アメリカでの実践に活かす学問でしたから、人と人の触れ合いをいかに促進していくかが基本命題でした。孤独から共感に至る幾重もの段階のコミュニケーションの場所を作ることが主目的だったとも言えます。ところが日本では、子どもたちは知らないおじさんから声をかけられたら疑いなさい、もう一目散で逃げなさいと教育されるようになります。そうするとコミュニケーション自体が否定されてしまう。そしてコロナ禍の状況はソーシャルディスタンスの名の通り、それに拍車を掛けているわけです。そういう都市生活において一体何ができるのだろうかと。コロナ以前からですが、都市はもうやりようがないだろうと考えるようになったのです。

また、コロナ禍で材木の価格が急上昇していますよね。これはまさに国家間の都市同士関係性、グローバリゼーションのなかで起こっている現象です。そして同様のことは軽工業製品や食品など、材木以外でも起こりうる。そうした一種のカタストロフが起こる時代に無自覚に東京に住むのはどうなのだろう。やはり都市そのものが問われていると私は強く思います。それもあって、農村に住み、都市的でない空間を自らの手で作りたいという熱意があるんですよ。だから落日荘も建築的なかっこよさを追求する意識は最初からなかったのです。

セルフビルドや自給自足を選択できる可能性

雨宮:今おっしゃったことに、私も共感します。一方でその都市の高密度のなかで生活せざるを得ない、選択的に居所を選べない人が大半であるのもまた現実です。このような状況において、岩崎さんの実践をどう都市に届けたいか、ぜひお聞きしたいです。

岩崎駿:たしかに私の場合は、居住を選択できた点でも恵まれているところはあります。私たち以外にこの八郷へ越してきた人はいるけれど、相当の覚悟でやって来た人が多く、彼らは決して恵まれているわけではなかった。ある八郷の移住者は農業で暮らし、お祭りを運営して、都会の人たちに田舎への移住者を増やして社会を変えようと活動していました。たくさんの人が都市から来てその場を楽しんでいたのだけど、移住してくる人はいないんだよ。

これからの時代、私の理想とは真逆に、都市が人々の中心であり続け、資本主義経済がさらに加速していく可能性もあるわけです。難しいけれど、どう生きるかは各自の選択なのです。ただ今日この場で言うならば、こうした時代のなかで建築をどう考えるか、これは大事なんじゃないかと思う。セルフビルドっていうのは相当大きな意味を持つと言えます。

雨宮:ありがとうございます。岩崎さんがお考えになるセルフビルドの世界は、例えば日本人1億人全員がセルフビルドを実践するような世界でしょうか。

岩崎駿:私がよく言うのは、30分以内に自分の農地に到達できない大都市は解体せよと、ということです。じつは東京でも例えば世田谷や杉並など、生産緑地として作られた農地や家庭菜園用の農地が意外と住宅地のなかにあったりする。ただ一般的に東京で暮らしていると30分以内に農地に到達するのは難しいので、そうした大都市は解体し、中小都市をもっと生かすべきなのです。

元をたどれば、灌漑農業をやり始めたときに都市が生じたわけです。それ以前は、小さい領域で個々人が農業を営んでいた。ところが農業が巨大化し、水事業でもある灌漑農業が文明の発達とともに浸透すると、大人数で事業をやることになる。それを統率したり、場を設計したりするシステムが生まれ、やがて都市が生まれたのです。したがって農村から都市が生まれたというのは必然なのです。しかしその都市の発生そのものが地球のあり方と矛盾しているのかもしれない。

だからこそ今を生きる人間のひとりとして、自分で食べるものは自分で作るという意味の農業に邁進したいですし、世の中全体が動いていくべきだと思うのです。政治的な話で言うと、地方自治を拡充させ、中央集権制を解体するべきだと思います。ではなぜ中央集権制が効くのかと言うと、やはり国際社会の中で生きていくための唯一の方法だからです。東京にものや人がなぜ集中するか、要するに外国からの資源と安い労働力を流入させ、それを一括で管理して使うとシステムが効率的だからです。翻ってこのシステムが2時間もの電車通勤時間や狭い家に居住することを作っている。多くの先進国がこのシステムを採用しているので、簡単に抜けられないのです。このシステムから真面目に脱却しようとすると、国際社会において経済制裁のような打撃を食らうかもしれない。それに耐える根性がある政治家もなかなかいないのです。

雨宮さんが言うように日本全体がセルフビルドや自給自足を選択できる可能性についてですが、多少ラディカルな回答を挙げましょう。今日本の人口は約1億2,000万人ですが、80年後の2100年には4,770万人になると総務省が推計を出しています。それは1901年(明治34年)とほとんど同じ数値です。その後の100年で3倍にも増加した以降、急激に落ちていく。ならば、みんながセルフビルドをする未来はまったく不可能ではなく、むしろかなり現実的ではないかと思いますね。

雨宮:なるほど、10年後に達成するのは難しくとも、80年先のビジョンであれば非常に納得します。

途上国を搾取する現状をどう突破するか

岩崎駿:一方でこれは教育の問題でもあります。地球と矛盾したあり方を続けているのは、人が頭を使わなくなっているからだとも言える。学校教育は効率的な方針で進められ、思考することよりも周囲の真似をすることに重点が置かれてしまっています。この内面化された状況をどう突破するか、非常に難しいのです。

川井:現在でも大都市に資本が集中している一方で、途上国の農村の人たちが搾取されていますよね。われわれにまずできることとして、先進国である日本の農村をより良い状態にしていくことだと考えています。そうした活動を途上国に何らか繋げられればと思うのですが、いかがでしょうか。

岩崎駿:日本に生きる人間として、まず途上国に行き、それで日本の中の農村運動とのつながりを深める姿勢は大きな歴史の流れにおいても正しい選択だと思います。

ただ一方で、労働組合を例えに出しますが、組合が資本家に賃上げ運動をすることは、世界構造から見ると、結局労働者が資本家と結託して、上位にいる人間同士が収奪をし合う、分捕り合戦をしているだけにすぎないわけですよね。こうした意味でわれわれが日本の中の農村と結託するだけでは、世界、地球レベルでみると大きなアクションにはならないと思うんです。2050年の段階で世界の人口10大都市に含まれる先進国の都市は、東京とニューヨークだけと言われています。インドのムンバイは人口4,200万人です。

1位: ムンバイ, インド──4,240万人
2位: デリー, インド──3,620万人
3位: ダッカ, バングラデシュ──3,520万人
4位: キンシャサ, コンゴ民主共和国──3,500万人
5位: カルカッタ, インド──3,300万人
6位: ラゴス, ナイジェリア──3,260万人
7位: 東京, 日本──3,260万人
8位: カラチ, パキスタン──3,170万人
9位: ニューヨーク, アメリカ──2,480万人
10位: メキシコシティ, メキシコ──2,430万人
(国連経済社会局世界都市人口予測2018年改訂版より)

共有の場を自律的につくる

伊藤:都市と農村のどちらにもなりきれない領域が日本にはたくさんあると思います。私がいま設計で関わっている群馬県前橋市のとある地域もそうした場所です。集落の名残はあるものの、すぐ側は典型的なロードサイドの風景が広がっています。専業農家だった世帯が代を追うごとに兼業農家、週末農家と縮小しており、跡を継ぐ人が断つと、畑は管理できなくなり駐車場などにどんどん置き換わっている状況です。このような場所で、農とのつながりをもつこと、小さくとも生産手段を持続させることは大事なテーマだと考えています。この中間領域についてはいかがでしょうか。

岩崎駿:八郷でも近いものがあります。60〜70歳の人が農業を営んでいて、息子は農業を継ぐことに意欲を持っていない。そうなるとどこかの会社が農地を買い取って経営するシステムに変わってくるでしょうね。かつて専業農家が大半だった八郷も、多くの人が役所や会社勤めをしていたり、会社経営をしていたりします。何かしらの理由があって週末農業をしている人が多いですが、それは歴史を動かす要素ではないので、なるようにしかならない程度に捉えていますよ。

伊藤:農の持続には畑をケアするスキルの継承が不可欠であり、私はそれを空間的な問題だと思っています。施主が庭でタラの芽を取って天ぷらにして打ち合わせで出してくれたりするんですが、とても美味しく楽しさがある。畑の管理は負担という側面が前景化しやすいですが、「楽しさ」を世代を超えて共有する場を持つことが必要だと感じます。楽しさが根っこにないと興味を持てませんし、土がどんどんアスファルトに駆逐されていく原因の一つはそういった場の喪失ではないかと思います。

岩崎駿:今の話は、アーバンデザインの仕事とも似た、人がコミュニケーションする場と空間をどうやって作り出すかというテーマですね。コロナ禍の影響で、中間領域でもコミュニケーションがZoom化していると思います。そうしたなかで、コミュニケーションの形態を今後どういうふうに変質させるか。昔は単純に場があり、ハコモノと揶揄されるほどに大きな施設に中身が伴っていない状態がずっと続いていたんだよね。そうした場が機能しなくなった今、いかに情報線状にコミュニケーションの場を作っていくかが重要ではないかと思います。変質するコミュニケーションをどのようにして現代的な施設とするか。コロナ禍以降まだ2年目なので、みんな試行錯誤ですね。

例えば最近では八郷でも、かつて歯科医院が入っていた建物を現在の所有者はどう使ってもいいと言っています。その建物で村中の人たちが集まる場所にしようと計画しています。そこでは、みんなで管理する図書館を作ろうという話が出ています。参加者が自身の手でボックスを作り、そこに自分の本を入れてそれぞれで管理をするんです。このような自律的な場に多くの人が集まれば、今までにないコミュニケーションのかたちが生まれるだろうと思います。こうした運動もこの八郷では起こってきて、とても興味深い現象だと思っていて、そこに新たな社会の萌芽があるように感じています。

今日はいろいろとご質問いただきありがとうございました。

岩崎駿介
1937年東京都生まれ。1963年東京藝術大学美術学部建築学科卒業。1966-68年ガーナ共和国科学技術大学(現クワメ・エンクルマ科学技術大学)教員。1968-69年ハーバード大学大学院都市デザイン専攻で学ぶ。1969-79年横浜市企画調整局都市デザインチーム。1979-82年国際連合アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)スラム担当課長。1982-98筑波大学助教授と同時に、日本国際ボランティアセンター(JVC)代表、NPO市民フォーラム2001共同代表。2001年に茨城県石岡市に移住し、落日荘のセルフビルドを開始。著書に『一語一絵 地球を生きる』上下、明石書店(2013)など。

岩崎美佐子
1944年神奈川県生まれ。東京芸術大学美術学部工芸科卒業。筑波大学地域研究科修士。1986-2001年日本国際ボランティアセンター(JVC)の活動に参加、タイ・カンボジア・ラオス・ベトナム、パレスチナ・ソマリア、エチオピアなど多くの途上国を渡り歩いて有機農業を指導。

川井操
1980年島根県生まれ。専門は、アジア都市研究・建築計画。2010年滋賀県立大学大学院博士後期課程修了。博士(環境科学)。現在、滋賀県立大学環境科学部環境建築デザイン学科准教授。

辻琢磨
1986年静岡県生まれ。2010年横浜国立大学大学院建築都市スクールYGSA修了。2010年 Urban Nouveau*勤務。2011年よりUntenor運営。2011年403architecture [dajiba]設立。2017年辻琢磨建築企画事務所設立。現在、名古屋造形大学地域社会圏領域特任講師、渡辺隆建築設計事務所非常勤職員、滋賀県立大学、東北大学非常勤講師。2014年《富塚の天井》にて第30回吉岡賞受賞

伊藤孝仁
1987年東京生まれ。2010年東京理科大学卒業。2012年横浜国立大学大学院Y-GSA修了。乾久美子建築設計事務所を経て2014年から2020年tomito architecture共同主宰。2020年よりAMP/PAM主宰、UDCOデザインリサーチャー。

雨宮知彦
1980年東京生まれ。2005年東京大学大学院修了。シーラカンスアンドアソシエイツCAtを経て、2009–2017 ユニティデザイン共同主宰、2017- ラーバンデザインオフィス代表。

佐藤研吾
1989年神奈川県生まれ。東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程。一般社団法人コロガロウ代表。In-Field Studio主宰。2015-Assistant Professor in Vadodara Design Academy。2016-歓藍社。2018-福島県大玉村教育委員会。2020-東京都立大学非常勤講師。

阿部拓也
1993年宮城県生まれ。芝浦工業大学大学院建設工学修了、修士(工学)。現在、筑波大学大学院デザイン学学位プログラム博士課程、日本学術振興会特別研究員。専門は、建築学、デザイン学。主な論文に、「路地空間におけるルールから逸脱する建築的実践」、「信仰上の禁忌と住宅空間」(いずれも共著)。

インタビュー時の様子。足尾山に太陽が沈む。

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建築作品小委員会では、1980年生まれ以降の建築家・研究者によって、具体的な建築物を対象にして、現在における問題意識から多角的に建築「作品」の意義を問うことを試みる。